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三章 神の娘




 太陽を覆い隠す暗雲のように広げられた黒い翼に畏怖の念を抱き、崩れ落ちる力無き者たちがいる。
 その中で彼――ジークは、僅かたりとも怯む事は無かった。愛用と思わしき長剣を左手に持ち替え、短剣を引き抜くと、魔物の翼に向けて投げる。
 短いが鋭い刃が右翼に埋まると、魔物は奇声を上げ、体勢を崩した。右翼が上手く扱えないのだろう、空中に浮かべていた身を徐々に沈ませていく。
 ハリスが走りだしたのはその瞬間だった。申し訳ないと思いながらも、近くの出店を踏み台にし、高く飛び上がる。
 沈みはじめた魔物の左翼に、ハリスが振り上げた刃が届いた。剣を振り下ろす力に、ハリス自身の体が地面へ引かれる力とが合わさって、魔物の翼は乱暴に引き裂かれていく。短剣に貫かれた時と比にならない魔物の咆哮に、ハリスは顔を顰めた。
 ハリスの着地から僅かに遅れて、魔物の身が地面に落ちる。そこには長剣を両手に構え直して待ち構えていたジークが居た。
 ジークの剣に貫かれ、魔物は絶命する。あまりに呆気ない最後に、ハリスはやや魔物に同情しながら、ジークに振り返った。
「お見事です。さすが、手馴れてますね」
「空を飛ぶ魔物は初めてだがな。お前が動いてくれたおかげで思ったよりも早く片が付いた。一応礼を言っておこう」
「お役にたてたのならば幸いです」
 ハリスは剣に付着した血を拭い、鞘に戻した。
 気付けば、すでに辺り一体から住民は全て避難している。魔物に襲われた恐怖に怯えて動けない者もいくらか見られたが、一般人を手際よく誘導しようとしている衛視たちや、衛視に従って速やかに避難する住民たちの、慣れた対応の賜物だった。
 魔物の出現が当たり前と言うこの街の日常を知る事で、この街にとってジークやカイがどれだけ大切な存在かを思い知らされた気がして、ハリスは空を見上げる。軋んだ胸が自身を迷わせないように、青空にエイドルードを想った。
 自分たちは間違っていない。結果的に、この街をも救う事にもなる。一時は恨まれる事になるかもしれないが、いつか必ず判ってくれるだろう。
「エア隊長」
 呼び止めると、ジークは躊躇う様子を見せてから振り返った。
「いいかげんにその呼び方は止めろ。俺はエアでも、隊長でもない」
「すみません。やはりこれが一番呼びやすいので、つい。それより、カイ様がいらっしゃらないうちに、お聞きしておきたい事があります」
 ジークは魔物に向けていたものよりも更に厳しい視線をハリスに向けた。
「私はまだ全てをお話しておりません。カイ様に何をしていただく事になるのか、カイ様がエイドルードの御意志に従ってくださらなければ、トラベッタを含むこの大陸がどうなるのか。知れば大抵の方は、エイドルードの御意志に従う事を選ぶでしょう。恐怖や罪悪感によってか、喜びによってかは、人それぞれでしょうが……おそらくは、カイ様も」
「迎えに従い、砂漠の女神となる事を選んだリリアナのように、か」
 ジークの呟きに、ハリスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 目の前の男の事全てを知っているなどと、驕るつもりはない。だが、いくらかは知っている。婚約者を奪われ、神を呪いながら這い上がり、望みを叶えるために全てを捨てて行った男である事。彼にとって家族と言うものが何よりも強い原動力であろう事を。
 ようやく取り返した愛する人を一年足らずで失ったジークが、カイに愛情を注ぐ事で生きてきたのだとすれば――ハリスがしようとしている事は、彼に再び同じ痛みを強いる事だ。
 おそらく今回も、全力をもって抗うのだろう。妥協などと言う言葉を、彼が使うわけもないのだから。
「愚かな問いを口にするところでした。貴方が、私の問いに是と答えるわけがないと言うのに」
 ハリスは再度剣を抜き、ゆっくりとした動作で切っ先をジークに向ける。
「時間や会話を重ねる事で、どうにかできないものかと思っていました。ですが、どうにかできるわけもなかった。歳を重ね、名を変え、見た目の雰囲気が違っていても、貴方は貴方のままだったのだから」
「ようやく決めたか。力尽くで片を付けると」
「はい。何があろうとも、私はカイ様を大神殿へお連れしなければならないのです。エイドルードに逆らう事が貴方の絶対ならば、エイドルードに従う事が私の絶対なのですから」
 甘えだと言われればそれまでだが、本当は戦いたくなどない。共に生きる道があるならばと、ずっと望んでいた。おそらくは、二十年近くも前から。
 だが、相容れるはずもなかったのだ。エイドルードの意志を知り、涙し、何をおいても神に従う事を決めた日から。
「判った。今、けりをつけよう」
 ジークが剣を抜き、切っ先を向けてくるのを確認してから、ハリスは静かな笑みを浮かべた。
 若かりし日に離れた道は、長い時を経て奇跡的に交錯する事となったが、今度こそ永久の別れとなるだろう。どちらかが死ねば当然、相手の命を救ったとしても、二度と顔を合わせる日は来るまい。
 それでいいのだ。そうしなければならないのだ。誰よりも、何よりも、人を、この大地の事を想う存在のために。
 互いの剣の切っ先が触れ合い、小さく金属音が響き渡る。武術大会での形式に従って、勝負ははじまった。
 懐かしさに、ハリスは胸を躍らせた。年齢制限で出場できなくなってから随分経っている事もあるが、自分がはじめてジーク――エア・リーンを認識したのは、武術大会であったからだ。
 同い年で、後輩である彼が、次々と相手を倒していく姿に、憧れていたのだろう。部下となり彼の剣技を学べると判った時は、心から嬉しかった。しかし追いつく事はけしてなく、永遠の目標となった彼と、今こうして対峙している。
 不思議な感覚だった。あの時彼を見なければ、彼の部下になる事がなければ、自分は今ごろどうしていたのだろう。
 おそらくは聖騎士団員のひとりとして、何かしらの任務に就いていたのだろう。あらゆる可能性があったのだろう。しかし、今よりも充実した状況であるとは、到底思えなかった。
 ハリスの速い剣戟を、ジークが身を翻して避ける。何度目かの攻撃を、後ろに飛ぶ事で避けたジークが僅かに身を捩らせた隙を見逃さず、たたみかけるように剣を振り下ろすと、ジークは振り上げた剣で応戦した。
 二本の剣は膠着する力を証明するかのようにぎりぎりと音を立て、神聖な空間を支配する。
 本当に変わらないのだな、この人は。ハリスは胸を熱くして、僅かに目を細めた。
 エア・リーンと言う存在に、苦悩に追いやられた事があった。自分の力不足に嘆いた事もあった。何よりもただ悲しいと、思い続けた日々も、遠い昔に。
 だが今も昔も、この男を前に抱く想いは、憎しみでも、恨みでも、嫌悪でもなかった。それはとても悔しい事であったが、同時に幸福でもあるのだろう。
 互いが、同時に、剣を横に滑らせる。ジークはそれと同時に肘で当て身を食らわせてきた。
 咄嗟に距離をおいたハリスだが、完全に避ける事はできなかった。軽く吹き飛ばされ、近くの出店に背中を強打し、何度か咳き込む。呼吸を整える前に鋼の刃が目前に迫ると、身を転がしてそれを避けた。
 立ち上がったハリスを睨み、ジークは若干口元を歪めた。
「本気で来い」
 ハリスに向き直り、剣を構えなおしながら、ジークは言う。
「本気で来なければ、俺は止まらない。判っているだろう」
「親切ですね。それとも、止めて欲しいのですか?」
「止めて欲しければ手を抜く」
「……そうですよね」
 地面を蹴り、距離を詰めながら、ハリスは剣で薙ぐ。ジークは剣を受け流そうとしていたが、一瞬遅く、脇腹を削るように刃が滑った。
 血飛沫が舞う。しかし、ジークは怯まない。頭上から一撃が迫り、避けきれないと咄嗟に判断したハリスは、剣で受け止める。
 腕が震えた。体格の違いか、それとも鍛え方の違いなのか、自分ではけして不可能な一撃の重さ。ハリスは何とか受け流して、再び数歩の間を置いた。剣を構え直す腕は、まだ少し震えていた。
「この戦いも、エイドルードの定めた運命のひとつなのかもしれません」
 自身に言い聞かせるように、ハリスは呟く。
「だとすれば、俺はよほどエイドルードに嫌われているらしいな」
「いいえ。信頼されているのですよ。貴方ならば願いに、望みに、必ず応えてくれるのだろうと」
「嬉しくないな」
「そうですか? 私はようやく選ばれたのかと、誇らしい気分です」
 たとえ心が裂けるほどに残酷な運命だったとしても。
 天上の神の願いを成就するために、この戦いが必要不可欠なものなのだとすれば、生涯をエイドルードに従事すると誓った身として、怯んではならない。
 ハリスは深く息を吸い、そして吐き出す。見れば、真正面に立つジークも同じように深呼吸をしていた。
 次の一撃がふたりの命運を分けるのだろう。その予感に、ハリスの心は湧き立つ。
 ジークが子を思う心が勝つのか。それともハリスの信仰が勝つか。
 どうなるかは判らない。だが、ハリスは祈らなかった。祈ったところで意味がない事を知っていたからだ。
 互いに地面を蹴る。どちらかの剣が、どちらかの体を抉るだろう――瞬きもせず、細めた目で二本の剣の行く末を見守っていたハリスは、一方の剣が大きく弧を描いた事に驚き目を見開く。
 力の方向を変えた剣は、空高くに向けて掲げられ、太陽の光を反射して眩しく輝いた。


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