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三章 神の娘




「何を、馬鹿な」
 カイは笑いながらハリスの言を否定した。
 はじめは失笑を浮かべるのみだったが、徐々に耐えられないほどおかしくなり、腹を抱えながら声を出して笑う。
 唐突に現れて、信じがたい真実とやらをいくつも並べられて、挙句口にした台詞が「大陸を救ってくれ」とは。もはや冗談としか思えなく、笑う以外にどうすれば良いのか、カイには判らなくなっていた。
 カイひとりだけでは、トラベッタもアシェルも救えなかった。もし本当にカイが神の子であったとしても、その程度の力しか持っていない人間に求めるものとして、「大陸の救済」はあまりに大げさすぎる。
「俺が誰の子供かはこの際置いておきましょう。でも、滅び行く大陸って何です? 滅びの前兆なんて、俺は感じた事もありません。いつ、どうやって、滅ぶと言うんですか。仮に滅ぶとして、俺に何ができると言うんですか。俺は唯の人です。特別な力など何もない」
「いいえ。ございます。エイドルードが貴方にのみ授けた役割が――」
「ジークさん! 大変だ!」
 鋭く扉が叩かれ、三人はほぼ同時に扉に振り返った。一番扉に近い位置に居たハリスが開けると、男は白鎧が現れた事に一度驚いてから、家の中のジークとカイを見つける。
「魔物が出た! しかも、街の中に! 広場の方だ!」
「門は閉めなかったのか? 見張りは何をしていた」
「物見のやつらが見つけて、すぐに門は閉じたんだ。けど、今日の魔物は空を飛びやがって、壁を越えてきた! 兵士や白鎧の連中が戦ってくれていて、まだ死んだやつは居ないんだが――とにかく、早く来てくれ!」
 ジークは素早く剣を取り、扉の前に立つハリスを押しのけ、家を出た。ハリスは何か言いたげに口を開いたが、引き止めはせずジークに付き従うように後を追う。
 カイも続いて家を飛び出したが、広場に向けて走っていくふたりの背中を見送るだけで、走りだす気にはなれなかった。ハリスの話によって立て続けに衝撃を受け、精神的に疲れている事、確実にカイよりも腕が上の男たちが向かったならば大丈夫だと安心している事も理由の一端だが、嫌な胸騒ぎがした事が一番の理由だった。
 空を見上げた。男の言う通り、コウモリの羽根に似たものを大きく広げた黒い生き物が広場の方向で旋回している。それ以外にもう一匹、まさに今壁を越えた魔物が、近くを通る大通りに向けて飛び込んでいく様子が見えた。
 行かなければならない。父が無理ならば、自分が。
「カイ様! どちらへ!」
 カイたちの家を監視していた聖騎士たちが、ジークたちとは逆方向に走りだすカイを引き止めようとする。
「うるさい! 俺に逃げられて困るなら、着いて来い!」
 一喝し、カイは全力で走った。切るように通り過ぎていく風が、トラベッタの民の悲鳴を伝えてきて、無意識に唇を噛み締めていた。
 大陸を救ってほしいと言われても、よく判らない。そんな力があるとは、到底思えない。
 だが、これまでカイを守ってくれていたトラベッタを、そこに住む優しい人たちを、救いたい。己の力を全て振り絞り、トラベッタを守りたい。
 今のカイの中で唯一揺るぎない真実がカイを走らせた。逃げ惑う人々を掻き分け、道をつくり、大きな羽根を持つ異形と対峙する。
 近くで見るといっそう大きい魔物は、対面するカイに畏怖の念を押し付けてきた。怯む自身を断ち切るように剣を引き抜くと、カイは魔物に向けて剣を振り下ろした。
 逃げ惑う女性を追っていた魔物は、カイに対する反応が僅かに遅れる。咄嗟に飛び上がって避けようとしたが、浮き上がった体にカイの剣が掠る。引っかいたような傷跡が魔物の足に残り、その傷口からじわりと青い血が滲み出た。
 魔物は唸り、カイを睨んだが、がむしゃらに突進してくる事は無かった。剣が届かない高さまで浮き上がったまま、牽制している。
 相手が動かなければ、カイも動けなかった。いつ降りてきてもいいように剣を構え、いつでも地面を蹴られるように踏みしめながら、魔物を警戒する事しかできない。
「カイ様、ご助力いたします」
 言われた通り着いてきたらしい聖騎士たちが、剣を構えてカイの隣に並んだ。
「それもありがたいけど、沢山居てもどうしようもないから、住民の避難とか、そっちやってくれるとより助かる。とくにさっきまで魔物に襲われてた女の人、多分怪我してるから」
「お任せください」
 カイの周囲から人の気配がいくつか消えた。同時に、魔物が動きはじめた。鋭い牙が並んだ大きな口を開け、逃げ惑う民に突進しようと急降下する。
 即座に反応したおかげで、カイは魔物の降下位置に先回りする事ができた。開かれた口を割くように剣を振るうと、魔物の悲鳴と思わしき奇声が響き渡り、鼓膜を刺激した。
 魔物はそのまま剣を飲み込む勢いで、カイの腕に噛み付いてきた。素早く後退したカイだったが、完全に逃れる事はできず、牙が数本腕に食い込んでくる。
 カイは歯を食い縛った。あまりの激痛に、反射的に悲鳴を上げそうになったが、必死に堪える。魔物狩りであるカイが大打撃を食らったと思われては、民が不安がる。それは避けたかった。
「カイ様!」
 聖騎士たちが切りかかると、魔物は空へと逃げていく。カイは血が溢れ出る右腕を押さえながら、彼らに小さく礼をした。彼らが居なければ、カイは腕を丸ごと持っていかれていたかもしれなかった。
「空を飛ぶ魔物ってのは初めてだからな……俺は投げられる武器って短剣一本くらいしか持ってないんだが、誰か弓とか持ってない……よな」
「残念ながら今集まっている者たちは、剣と、カイ様と同様に短剣を持っている者が居るのみです。ですが集合の指示と共に空中の敵に使える武器を持ってくるよう指示しておりますので、今しばらく時間を稼げれば仲間たちが……」
「とりあえず時間稼ぎをしようって事か」
 カイは目を細めて空に浮かぶ魔物を睨む。
 左手で強く抑える傷口から溢れる血は、すぐに止まる様子はなかった。今はまだ大丈夫だが、このまましばらく放置していては、出血の多さと激痛とで意識が遠ざかりそうだ。
 魔物が負った傷もけして浅くない。向こうも早く片付けたいと思い、突撃して来てくれるとありがたいのだが。
「カイ様、腕の傷は大丈夫ですか」
「傍から見るとやばそうか?」
「少なくとも、軽いものには見えません。あの魔物は私たちが何とか抑えますから、せめて応急処置をされた方がよろしいのでは?」
「……まだなんとか、剣は振るえそうなんだが」
 魔物と戦う事に慣れていなさそうな彼らに任せる事は正直不安だったが、彼らの言葉を否定できない程度に傷は深かった。カイは短い時間逡巡したが、悩んでいても仕方がないと無理矢理結論付け、口を開く。
 突然、空気がざわついた。
 魔物を警戒していた聖騎士たちが、一様に振り返る。戦いの最中に何を馬鹿な事を、と叱咤しかけたカイは、戦闘の場に不似合いとしか思えない可憐な声が耳に届くと声を失った。
 カイが知らない響きの言葉を発する声は美しかった。だがけして耳に心地良くはない。冷たく、寂しく、胸が痛くなる声。
 カイは迷わず魔物から目を反らし、振り返った。魔物の絶命を確かめるその前に目を背けるなど、魔物狩りの常識としては有り得ない事だったが、大丈夫だとの予感があった。
 見るからに上等な布地をたっぷり使われ、細かな刺繍が縫い取られている白い服を着た、綺麗な、美しすぎるあまりに綺麗としか言いようのない少女が、眩しいほどに白い腕を天へと伸ばして立っていた。声と同様に可憐な容姿でありながら、魔物に動じる様子はなく、凍りついた表情を魔物に向けている。
 澄み切った青空から落ちる、一筋の雷。
 雷は真っ直ぐに魔物へと落ち、辺りを轟かせる。背後で起こっていると言うのに、突如世界が輝いたかのように眩しく、カイは目を閉じ両腕で顔を庇う。
 力を失った魔物の巨体が地上に落ちる音と共にカイは目を開け、再び少女を視界に納めた。
「貴方が、カイ様ですか?」
 冷たい声も、表情も、先ほどと何ひとつ変わらなかった。せっかく綺麗な少女であるのに、温かみがないせいか人間離れしていて魅力がない――そこまで考えて、カイは悟った。人としての魅力を感じないからこそ、少女は恐ろしいほど美しいのだろうと。
「そうだけど。今の雷は、君が?」
 少女は小さく肯いた。
「はい。わたくしが与えられた力の内のひとつです。エイドルードに逆らう存在を罰する力」
「……凄いね」
「当然の力です。わたくしは、神の娘なのですから」
 少女はカイに歩みより、白い両手をカイの右腕に翳した。肉が抉られ、血が溢れる傷口は、普通の娘ならば目を反らしたくなるものであるはずなのだが、やはり少女は怯む事は無かった。
 淡く白い光が少女の両手から生まれ、光は傷を包み込む。じわじわと暖かな光は心地良く、痛みを忘れさせる力を持っていた。
 いや、違う。傷の痛みを忘れさせる力ではない。これは、傷を治す力だ。
 光が消えると、カイの腕から傷が消え失せていた。魔物に噛まれた事が悪い夢だったのかと思ったが、腕にはべっとりと血の跡が残っている。
「君は……」
「わたくしはシェリアと申します」
 少女は服の裾を掴み、優雅に礼をすると、顔を上げ、空ろな瞳でカイを見つめた。
「参りましょう、カイ様」
「参りましょうって、一体どこに」
「王都セルナーン。エイドルードの大神殿にです。そしてわたくしたちに与えられた使命を果たしましょう」
「俺たちの使命……?」
「ご存知無いのですか?」
 カイは正直に肯いた。
「大陸を救ってほしいとか言われたが、それに関係があるのか?」
 そう言えば、ハリスはカイが並べた疑問に次々と応えてくれたが、具体的にどうやって大陸を救うのかについては、まだ説明がなされていなかった。確か、魔物が現れた事を報告に来た男によって、ハリスの言が遮られたのだ。
 シェリアは小さく肯く。やはり表情を変える事なく、平然と続けた。
「カイ様とわたくしとのみが為せる使命です。真なる神の力を受け継ぐ、新たなる神の御子を生す事は」
「……は?」
 咄嗟に飛び出した短い言葉は、相手を問い質す意味の篭ったものだったが、少女は全てを語ったつもりになっているのか、追って説明をしてはくれなかった。
 今日は信じがたい事、訳の判らない話が多すぎてすでに混乱気味だったカイだが、中でもとりわけ強烈な娘を目の前に、途方に暮れるしかなかった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.