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三章 神の娘




 ハリスはジークとカイの家の前に立つと扉を叩いたが、家主の返事も待たずに扉を開けた。これまでハリスを礼儀正しく穏やかそうだと思っていたカイは、驚いて目を丸くする。
「ハリス、お前、礼儀を通すつもりなら最後まで――」
 家の中に居たジークは、椅子を蹴り上げん勢いで立ち上がったかと思うと、紡ぎかけた言葉を途中で失った。鋭く静かな眼差しは、ハリスの横に立つカイだけに注がれていた。
 ジークをよく知らない他人が見れば、いつものジークと変わらないと思うだろう。だが、ずっと共に生活して来たカイには判る。ジークの内に秘めた困惑や動揺が、静かな瞳に色濃く映し出されていた。
「カイ様がご帰還なされましたので、お連れいたしました」
「……そうか」
 ジークは再び椅子に腰を下ろす。
 すると急に空気が重く感じられ、カイは立っている事も億劫になった。アシェルで繰り返した魔物との戦いや、トラベッタまでの旅路で重ねた疲労が、一気に押し寄せてきた感覚だ。
「お疲れでしょう。どうぞ、お座りください」
 カイの様子に気付いたのか、ハリスがカイに椅子を勧めてくれる。年上のハリスを差し置いて、と一瞬躊躇ったカイだが、遠慮するほどの余裕がなく、カイは会釈をしてから椅子に座った。
「カイ様、喉は乾いておりませんか? お水でもいかがです?」
「はい?」
「ハリス。お前、人の家を勝手に弄くるな。歩き回るな」
「ですが、隊長やカイ様のお手を煩わせるわけにもいかないでしょう」
 ハリスは迷う事なく食器棚から杯を取りだし、水を汲み、カイの前に出してくれた。
 カイは父とハリスの間で視線を往復させるしかなかった。カイが知る限りでは、ハリスは父を軟禁状態に追いやった張本人のはずなのだが、ふたりの会話は険悪とは言い難い。むしろ、気を許している風に見える。
「俺は、何から聞けばいい?」
 水を飲み、喉を潤すと、カイの脳を巣食う疑問の中から一番強いものが口をついた。口にしたところであまり意味のない疑問だが、それしか出てこなかった。
「何でも説明いたします。疑問がございましたら何でも訊いてください」
 カイはしばし考え込んでから再び口を開いた。
「えっと、じゃあ、ふたりは以前から知り合いですか? とか……あと、俺は何者ですか? 何で俺は貴方に様付で呼ばれるんですか? なんで王都からお迎えが来るんですか? そうだ、そもそも、貴方たちはどこの誰ですか? 俺に何をさせたいんですか? ジークが咎人ってどう言う意味ですか? ……とりあえず、その辺りでしょうか」
 ハリスは優しい笑みを浮かべながら応えた。
「とりあえずと言う割に、質問の数が多い気がいたしますが、全てご説明する必要がある事でしょう。話が長くなるかもしれませんが、お許しください」
 ハリスは懐かしい思い出を蘇らせるように眼差しを細め、ジークを見下ろした。
 ジークはけしてハリスに視線を返そうとせず、俯き気味のまま目を伏せた。眉間に刻まれた皺が、ジークの内なる葛藤を表現しているようにも見える。
「たいへん失礼いたしました。どうやら私はまだ自己紹介もしていないようです。私はハリス・リーベル。王都セルナーンの大神殿の聖騎士団に所属し、神の娘シェリア様の護衛隊長を勤めております。エ……ジーク殿もかつては聖騎士団に所属されておりましたので、当時一年強と言う短い時間ではありますが、部下として勤めさせていただきました」
 聖騎士団の事など、カイはほとんど知らない。だが、エイドルードに係る組織であろう事くらいは判る。
 エイドルードに敬意を払う父を一度も見た事が無いカイにとって、父が聖騎士団に所属していたと言う事実は、到底信じられる事ではなかった。
 カイはジークに振り返る。
 ジークは同じ体勢、同じ表情のまま、微塵も動いていなかった。どうやら、ハリスの言葉に嘘はないらしい。
「カイ様の御生母、リリアナ様の事はご存知ですか?」
「詳しい事は何も。俺を産んだ時に死んだ、としか」
「リリアナ様は地上の女神です。砂漠の女神と、当時は呼ばれておりました。地上の女神の事はご存知で?」
 女神と言う響きに気圧されたカイは、数瞬間を開けてから首を振った。
「元は我々と同じ地上の民であられたのですが、天上の神エイドルードに選ばれた尊き女性です。王都セルナーンの大神殿で大司教様が、砂漠と森にある女神の神殿で地上の女神様が祈りを捧げる事で、地中深くに封印された魔獣の復活が阻止されているのです」
 カイは再びジークを凝視したが、やはりジークは微動だにせず、ハリスの話に耳を傾けていた。
 聖騎士であった父。砂漠の女神であった母。その子である自分――
「ジークが咎人であると言うのは、母と結ばれたからですか」
 ハリスは即座に否定した。
「いいえ。それこそが、エイドルードの御意志でした。エイドルードは、地上の女神を神殿から連れだして欲しいがために、リリアナ様を女神に選定なされたのです。ですから厳密に言えば、エイドルードが選ばれたのはリリアナ様ではなく、婚約者であるジーク殿だった、と言えるでしょう」
「なぜ、そんな事を?」
「エイドルードがカイ様の誕生を心待ちにされていたからですよ」
「なぜ?」
「貴方が天上の神の御子であらせられるからです」
 慈愛溢れる微笑みは、カイの全てを包み込むかのように温かく優しくありながら、カイにとっては恐怖の対象としてしか映らなかった。
 何を意味の判らない事を、と笑い飛ばそうにも、ハリスの眼差しは痛いほどに真剣で、ならば父に否定してもらおうと考えたが、首が思う通りに動いてくれない。心のどこかでカイは父に確かめる事を恐ろしく思っており、体は本心に従っているのだ。
 嘘だ、と、言えれば楽になるのかもしれない。だが、声が出てこなかった。
「その証拠がどこにある」
 膠着した空気に割って入ったジークの声は、普段発するものよりもなお低い。しかしハリスは動じる事なく、笑顔で答えた。
「エイドルードが認められた。それで充分です」
「馬鹿な」
「貴方の目にはそう映るのでしょう。エイドルードに仕える者たちの目に、貴方の行動が愚かに映るように」
「待って、ください」
 カイは縋るような眼差しでハリスを見上げる。
 嘘だと、信じたい。自分が神の子であるなどと、ありえない。自分には特別な力など何もないのだから。それに何より――
「それが本当なら、ジークは」
「貴方の実父ではありません」
 ジークは拳を強く壁に打ちつけた。
「ハリス! 貴様……!」
「認めてください。カイ様が真実を知らずに育った事は、貴方の罪です。貴方はカイ様の事を想って動かれたのかもしれない。しかし、貴方の行動が結局はカイ様を追い詰めたのです。それとも、永遠に真実から逃れられると思っていたのですか?」
 ハリスは威厳を持って他者に口を挟ませず、最後まで言い切ると、深く息を吐いた。苦悩を眉間に刻み、懺悔の光を瞳に浮かべて一瞬ジークを見下ろしてから、カイに向き直る。
「ジーク殿は大神殿側の再三の引き渡し要求に逆らい、カイ様を連れて逃亡しました。追っ手と戦い、エイドルードの監視の届かない結界の外まで――故に、おふたりを探すために、神殿側は十五年もの時間を浪費しました。ですがまだ間に合います。いえ、ちょうど良いとも言える」
「……もし、俺が、本当にエイドルードの子だったとして」
「認めるな、カイ」
「貴方たちは俺に何をさせようと言うんですか」
 ハリスはカイの前に跪き、深々と礼をすると、真摯な眼差しでカイを見上げた。優しくもあり、厳しくもあり、悲痛な想いを伝えてくるものであったが、迷いだけはどこにもなかった。
「お救いいただきたいのです」
「何を?」
 淀みなく力強い声が、はっきりと言い切った。
「この、滅び行く大陸を」


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