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三章 神の娘


10

 家に戻っても父やハリスの姿が無い事に、カイはいぶかしんだ。
 同じ魔物を相手にしたのならば、魔物を始末するのにかかる時間は、より強いジークたちの方が短いはずである。だと言うのに、父たちの方が帰宅が遅い――魔物の数が多かったのか、それとも広場に出た魔物の方がより強敵だったのか、どちらにせよ良い予感はせず、カイは広場に向かった。
 その間、シェリアと名乗る少女は、やはり表情ひとつ変えずにカイに着いてきた。綺麗だがどこか薄気味悪い上、突拍子の無い発言をする少女の対応に困るカイとしては、どこかに置いて行きたかったのだが、悪びれもせずに「どこに行かれるのです」「共に参りましょう」などと言われると、奇妙な罪悪感が湧き上がり、逃げ足が止まってしまうのだ。
 故に、家に戻るまでは彼女のゆったりとした歩調に合わせてきたのだが、胸騒ぎが急かしてくる今はそうも言っていられない。
「その……シェリア?」
「はい」
「俺、急ぎたいから走りたいんだけど、いいかな。広場の方、行ってるから」
「どうぞ」
 シェリアの許可を得るとほっとして、カイは駆けだした。安堵は、父たちの元に駆けつけられる事によるものか、ようやくひとりになれた事によるものか判断は難しかったが、そのどちらもだろうと勝手に結論付けた。
 走り続け、魔物に怯える人々や広場から避難して来たらしい人々とすれ違い、ようやく広場に到着する。
 静かだった。
 広場を行き交う者たちや商売をしていた者たちの避難は最優先で行われたであろうし、衛視たちもその対応で街中を駆けずり回っているはずだ。だから多くの人の声が聞こえてこないのは当然なのだが、ジークたちが魔物と戦う喧騒が響いているはずである。
 それなのに音がしないと言う事は、すでに魔物を倒した後なのだろうか。だとしても、広場にはジークたちが残っているはずなのだが、ジークたちの姿はどこにも見えない。
 すでに家に戻ったのだろうか――最短の道を通って広場に来たカイとすれ違わなかったと言う事は、何らかの理由で迂回して家に帰ったのだろうか?
 戸惑いながら、カイは広場に足を踏み入れた。数歩駆けたところで、一面に広がる赤と青の血だまりが視界に飛び込んでくると、足を止めて息を飲んだ。
 血だまりから続く跡を目で追うと、魔物の遺骸と、小さな背中が見えた。いや、本当は小さくないのだろう。地面に膝を着き、俯き、背中を丸めているせいで、小さく見えるのだ。
「ハリス……さん?」
 カイは背中に声をかけた。
 声が届いているのだろう。背中がぴくりと動いた。しかし、ハリスは振り返らない。
「ハリスさん!」
 もう一度呼んだ。やはりハリスは振り返らなかった。
 苛立ちに似た感情に後押しされ、カイはハリスに駆け寄る。なぜ何も言わないのかと、責め立てようとハリスの肩を掴むと同時に、それは目に入った。
 ハリスの両手が優しく包み込むように掴む、力の無い手。トラベッタの街を守り続けた力強い右腕を失い、横たわる体。
 両膝を着いたハリスは、頬に涙の跡を残しながらも、乾いた目で見下ろし続けている。彼のかつての上司――カイの父の、伏せられたままの目を。
「ジーク?」
 カイは父の名を呼んだ。
 足から急激に力が失われ、ハリスと並んで膝を着いたカイは、恐る恐る父に手を伸ばした。口元に手を翳しても、空気の動きが感じられない。そのまま首筋に手を添えても、脈動を感じる事はできない。
「あ……」
 とても信じられる事ではなく、カイはジークの胸の上に手を動かす。力強く跳ねているはずのそこは、微動だにしていなかった。
 目の前に横たわる男が二度と動かない事をようやく頭で理解したが、心では受け入れられなかった。カイは目を見開き、二度と動く事のないジークの瞼が再び開かれる時を待ち続けたが、緩やかな風に揺れる髪を除いては、やはり動いてくれなかった。
 ジークを見つめ続ける事に耐え切れず、カイは固く目を伏せる。
「そうだ、シェリアだ。シェリアの力なら、もしかして」
 静かだが強い動揺の中、ようやく捻り出した名案は、即座にハリスによって否定された。
「残念ながら、シェリア様のお力は、生者にのみ働くものです」
 では。
 では、父は、ジークは。
 常に素っ気ない態度を取る人であったけれど、カイを厳しくも優しく育ててきてくれた人は。
「ジーク……っ」
 カイは父の名を呼んだ。声は喉と空気を引き裂く勢いで響き渡ると、再び沈黙の深淵を呼び込んだ。
 叫びすぎて喉が痛い。静かすぎて耳が痛い。そして心が。
 叫ぶと同時に硬直していた体が崩れ落ちた。ジークの胸に額が触れる。固まりかけた二種類の血がこびりつくが、不快感を覚えるだけの感覚がカイには残っていなかった。
 子供のように父に縋りつきながら、これが真実の悲しみであると知ったカイは、しかし涙が出てこない事実に困惑した。
 こんなにも苦しい喪失に涙が出ないと言うのなら、人はなぜ悲しみの涙を流すのだろう。そんなものに意味はないではないか――
「どうなされたのです」
 少女の声は静かであったが、沈黙を破るだけの力を充分に有していた。
 隣に膝を着いていたハリスが慌てて動く気配がする。
「シェリア様、今日のところは」
「ハリス、貴方は、泣いていたのですか?」
 ハリスは涙の跡をごまそうと頬を拭った。
「お気付きになられましたか。みっともない所をお見せして申し訳ありません」
「なぜ、泣いたのです?」
「……この方の死を、悲しいと思ったからです」
 戸惑いながら紡がれた言葉に、少女は美しい顔に何の表情も浮かべず、冷たい言葉で返した。
「何を悲しむ事があるのでしょう。貴方は使命を果たすための障害が排除された事に、喜ぶべきではありませんか?」
 何かに耐えるように貫かれた無言。しばし間を開けてから、ハリスは小さく肯き、答えた。
「申し訳ありません。私は、時に理屈に合わない感情を見せる、おかしな人間なのです」
 ゆっくりとカイは身を起こした。
 興味があった。ハリスが、シェリアが、どんな顔をしているのか。どんな顔をした人間ならば、こんな狂った会話ができるのか。
「本当に、おかしな方」
 涙するよりもよほど苦しそうな顔で微笑むハリスに、シェリアは相変わらずの無表情で呟いた。
 何が、おかしい。
「何が、おかしいんだよ」
 カイは低く唸りながら、シェリアを睨みつけた。
 目の前で人が死んでいるのだ。たとえ全くの他人だったとしても、悲しむ事はけしておかしい事ではない。まして、ハリスとジークは全くの他人ではないのだ。ハリスは遠い日に部下であったとしか言わなかったが、それ以上の、たとえるなら友情のような関係であったであろう事は、ふたりの会話や態度から容易に推察できた。
 大切な人が失われたのだ。悲しんで当然だ。泣いて当然だ。それがなぜ、おかしな事なのだ。
「カイ様も、悲しいのですか」
 シェリアには相変わらず表情がない。しかし、カイの言こそが最も奇妙とでも言いたげな顔をしているように見えた。
「あたりまえだ」
「どうしてです」
「どうして? そんな事を聞くお前がどうかしてる。ジークは……ジークは、俺の父親だぞ!」
 カイが喉の痛みを堪えながら怒鳴りつけると、シェリアは静かに反論した。
「いいえ。貴方の父は偉大なるエイドルードです。魔物狩りジークは、幼き神の御子を連れて逃亡した、許されざる咎人です。わたくしたちが果たすべき大いなる使命の障害――この死は、わたくしたちの父が与えた、天罰なのでしょう」
 一瞬、頭の中が白く染まる。ろくに思考ができなくなり、理性はどこかに掻き消えた。
 相手がか弱い少女であろうと関係なかった。シェリアに掴みかかり、力一杯拳を叩きつけてやりたいと願った。美しい顔が歪んでいく様を、この目に焼き付けたいと。
 しかし伸ばした手が掴んだものは、カイとシェリアの間に体を滑りこませたハリスの腕だった。
 なぜ、邪魔をする?
「どいてください、ハリスさん」
「いいえ」
「なぜです! 貴方になら、俺の気持ちが判るでしょう!」
 同じ悲哀を秘めた瞳を見上げながら、カイは叫ぶ。
 ハリスは目を細めてカイの感情を受け止めながら、その身を引く事をせず、振り上げたカイの拳を優しく受け止めるだけだった。
「私が心から謝罪いたします。それでも気がすまないとおっしゃるならば、どうぞこの私を」
「貴方じゃ、意味がない!」
「いいえ……いいえ。今カイ様のお心が傷付いているのも、ジーク殿がこの場で果てたのも、私の責任。全ての咎は、この私に」
 カイはハリスの手を振り払い、再び拳を振り上げた。だがハリスに対して振り下ろす気にはなれず、突き飛ばすようにハリスから手を話すと、ふたりに背を向けた。
 横たわるジークの静かな横顔は、もうカイに道を示してはくれなかった。全て自分で判断し、自分で行動しなければならない――途方もない自由と言う名の恐怖に震えながら、今はただ父の死を嘆きたいと言う欲求に負けたカイは、父の傍らに跪く。
「帰ってください。とにかく今日は、貴方たちの顔を見たくないし、声も聞きたくない」
 カイは吐き捨てるように言った。
「なぜ――」
「シェリア様」
 シェリアの可憐な声は、カイの神経を逆撫でする問いを紡ぎかけたが、ハリスの声がそれを引き止めた。
「失礼いたします」
 振り返る事のないカイのために、深く礼をしている気配がして、カイは胸を痛めた。自分と同様にこの男も、父の傍で嘆きたいのだろうと思ったからだ。
 だが、仲間を引き止める事よりも、シェリアに消えてもらう事の方が、今のカイには重要だった。
 ゆっくりと、ふたつの足音が遠ざかっていく。
 静かな世界にひとり残され、カイはようやく感情を涙に溶かして溢れさせる事ができた。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.