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二章 約束




 リタはときどき考える。幼い自分を抱いたまま死んでいた男の事を。
 とは言え、その男の事は話に聞いた事があるだけで、どんな顔をしていたのかも、どんな性格だったのかも、自分とどんな関係であったのかも、何ひとつ知らない。
 リタを拾った女は、「父親だったんじゃないか」と言っていた。過去に何人か、拾われた時の話をした相手が居るが、話を聞いた者は大抵、彼を父親かと疑った。命が消えるその時まで、リタのような厄介な幼子を抱えていた男など、父親に違いないと誰もが思うのだろう。
 ときどき思う。その人物が、父親でなかったらどうしようと。
 実の父親でさえリタの事を放りだしたのだとすれば、それはとても悲しい事だ。親に存在を否定された子供ほど、悲しい存在はないと思うから。
 けれど、同時に思う。父親ではない赤の他人が、最後の瞬間までリタの事を守ってくれたのだとすれば、それはとても嬉しい事なのだと。この世界全てに存在を肯定されたかのような喜びではないだろうか。
 だからどちらでもいいと思った。どちらにせよ、男の存在はリタを支えてくれた。失われた事は寂しいが、はじめから何も持たない人間に、寂しいと思う隙間などないのだから。
 だが、今、突然、彼が何者なのかを知りたいと強く思った。もしかすると、彼がではなく、自分が何者なのか、なぜこんな力があるのかを、知りたいだけかもしれない。
 理由を知ったところで何も変わらない。原因が判ったところで対処法があるかも怪しい。だから昨日までは、自分の事や力の事など、知る必要はないと思っていた。それなのになぜ今日、唐突に、自分の事を知りたくなったのか、リタは気付かない振りをして模索した。
 自分を知るための第一歩。それは、自分が知る限りの自分自身の歴史の中で、はじまりに居る人物を知る事ではないだろうか。
 リタは自身の胸元に触れた。
 皮鎧と服の下にある、首から下げたメダルの冷たい感触が、てのひらに伝わってくるようだった。
「あんたを抱いていた男が身に付けていたものだ。あんたがあるていど大きくなったら、親の形見として持たせてやろうと思ってね」
 リタを拾った女は、リタが六歳の時、そう言ってこのメダルをリタの首にかけてくれた。小さなリタに銀のメダルはずしりと重かったが、はずす気にはなれず、毎日飽きる事なく眺めていた。
 メダルは当時のリタが手を広げたほどに大きく、純銀で、空色の宝石がはまっていた。男が長年持ち歩いていたためか、少し薄汚れていたが、美しい細工がなされていて、いくばくかの値段で売れそうだと思った。リタを拾った女は金に目が無かったから、売らないでおいてくれた事は奇跡に近く、リタのために取っておいてくれたのだと思うと嬉しかった。
 今なら判る。あの女は、リタを想って取っておいたわけではないのだと。
 最初は売り飛ばすつもりで死体からもぎ取ったのだろう。そしておそらく、男はメダル以外にも金目のものを身につけていて、それらはすぐに売り飛ばされたはずだ。
 しかしメダルだけは買い手がつかなかったのだ。出所が明らかで、かつ恐れ多いものであったから。
「気分でも悪いのか?」
 カイに声をかけられ、リタは即座に顔を上げた。
 洞窟は深く長く続いており、歩き続けて疲労をためた状態で魔物に会うは賢くないと、休憩を言い出したのはカイだった。動きもせずカイと顔をつき合わせるのは少し気まずい気もしたが、彼の言い分は最もであったので、少し広く平らな場所を見つけ休みを取ったのだ。
「別に。なんで?」
「胸押さえて暗い顔していたから、どこか悪いのかと思ったんだ」
 リタの向かいに腰を下ろしたカイは、一口だけ水を飲んだ後、リタを見つめる。袖で口元を拭う瞬間、鼻と口が隠れて双眸しか見えなくなり、リタは僅かに息が詰まる思いをした。
 カイの視線が、リタは苦手だった。
 嫌いなわけではない。不愉快なわけでもない。ただ、あまりにも真っ直ぐにリタの事を見てくれるので、緊張するのだ。リタを異質のものと思わないわけでも、リタを恐れないわけでもないだろうに、その感情を抑え、同じ人として見ようとする瞳に。
 リタの力を知る人間が見せるそのような眼差しを、リタは今まで知らなかった。
 リタが知るものは、化け物を化け物として扱うのは当然だとでも言いたげな、差別の瞳。使えない娘を育ててきた事への恨みを込めた蔑みの瞳。人以上の力を持つ魔物狩りへの畏怖の瞳。それだけだったから。
「この仕事が終わったらどうしようかなあとか、考えてただけ」
 嘘ではなかった。父かもしれない男の残り香を辿って、自分を知れればいいと思っていたのだから。そのためには、メダルが示す場所に向かうが一番の近道だろうとも思う。
「気が早いな」
「まあね。今の事ばっかり考えてたら、今を過ぎた時に足が止まるでしょ。時間が勿体ないから、先の事を考えておくの」
「へえ」
 口に出しては何も言ってこなかったが、カイは「生き急ぎすぎじゃないのか」とでも言いたそうな目をしていた。
 腹は立たない。その通りだとリタは思う。もしかすると、カイ自身はそんな事を全く考えておらず、リタが自分の考えを勝手にカイの瞳に反映させただけなのかもしれない。
「あたし今すごくあんたに話したい事があるんだけど、変な同情しないって約束する?」
「聞いた方がいいのか」
「できれば聞いてほしい」
「……じゃあ、努力する」
「そう。じゃあ言うけど、あたしを拾ってくれた人ってさ、娼館のおかみさんだったんだよね」
 カイはいきなり言葉に詰まっていた。
 娼館で育った少女の行く末など限られている。「可哀相な女の子」の代表みたいなものだ。同情するなと言われた途端それでは、カイも困惑するだろう。
「あたしさ、けっこう可愛いじゃない」
「……」
「何か言わないの? 自分で言うなよ、とか」
「悔しいが、自分で言っても仕方ないんじゃないかくらいには、整った顔をしていると思う」
 心から悔しそうにカイが言うので、本音で言ってくれているのだと判り、リタは微笑みをカイに返した。飾られた褒め言葉よりもずっと嬉しいものだと感じたのだ。
「だからおかみさん、大切に育ててくれた。将来稼げると思ったんじゃないかな。お店のお姉さんたちも優しくしてくれたし、この時点ではいい人生送ってたと思う」
 幼きリタの周りには、優しく温かい笑顔が沢山あった。今ならばそこには打算や虚構や哀れみが溢れていた事が判るが、当時は単純に楽しかった。あれもひとつの幸せの形だったのだろうと、今なら判る。
「でも、あたしにはこう言う力があるじゃない。いざ商品として使おうとしても、使えなかったんだよね」
 真実が明らかになった時、リタを包む優しく温かいものが、一瞬にして変貌した。蔑みと、ある種の羨望とが混じりあった冷たい眼差しだけが、リタを取り巻く全てとなった。
「利用価値を色々考えていたみたいだけどね。だからはじめはさ、もの好きな金持ちがあたしを買ってくれた。他の男が触れる事もできないあたしを抱けたら自慢になる――って、選民願望みたいなのが刺激されたみたい。でもそんなの一時だけだよね。十数人くらいの馬鹿が挑戦したところで、皆無理だって気付いた。そのうち誰もあたしに金を払わなくなって、全てが終わり」
 誰も優しくしてくれなくなった。それは悲しい事だけれど、当時一番辛かったのは、お腹が空いていた事だった。力が発覚する前はそれなりに食べさせてもらえた食事がたびたび出なくなり、いつしか追い出された。
 四年前、リタはまだ十二歳だった。意味の判らない力の他は、何も持っていなかった。路傍に放置され、道を辿って育った娼館に戻り扉を叩いてみても、誰も扉を開いてくれなかった。
「そうなると、お腹空くじゃない」
「あ……ああ」
「泣き叫んだって誰もご飯をくれない。どこかで働こうにも、何の後ろ盾もない薄汚い子供だから、まっとうなところからは倦厭される。まっとうじゃないところは可愛いあたしに対して良からぬ事考えてるオッサンばっかりで、この力でぶっ飛ばしちゃって、すぐに追い出される事になる。どうしていいか途方にくれたなあ、あの頃は。そりゃもう、酷い生活だったわけ。将来有望な可愛いあたしはどこへやら、汚くてガリガリで道端に転がるあたし。よく生きてたと今になって思……」
「ひとつ、聞いていいか」
 カイが言い辛そうに口を割った。
「何?」
「俺の忍耐力と言うか……何か、試しているのか?」
「そんなつもりないけど。何か辛かった?」
「辛いと言うか、割と厳しい条件だった」
「正直だねぇ」
 リタは声を漏らして笑うと、カイは肩身が狭そうに目を反らした。
「ある日ね、夜中に道端で丸くなって寝てたらさ、女の人の悲鳴が聞こえたの。なんだろうと思ってそっちを見てみたら、若い女性が男に襲われててね。酷い事するなーとか思って、あたしそっちにふらふら近付いたわけよ。お腹空いて動く体力も無かったんだけど、なんでそんな事したのかな。人生の最後にいい事をしたかったのかもしれないし、自分勝手な男をとっちめてすっきりしたかったのかもしれない。理由は何でもいいの。あたしは震える手を男に伸ばして、男は吹っ飛んでった。助かった女の人はあたしに振り返る事なく逃げてった」
「礼も言わず?」
「その時はね。しょうがないよ、怖かったんだから。あたしが、じゃなくて――まあ、それもあるんだろうけど、襲われたって事実がね。でもその女の人はいい人だったよ。次の日ね、パンとお菓子を持って来てくれた。『昨日はどうもありがとう』って言ってくれた。それだけだったけど、それだけであたしは結構救われたの。あたしの力を上手く使えば、人を助けられる。あたしの力を上手く使えば、ご飯が食べられるかもしれないって判ったから。そうして巡り巡って、今のように立派な魔物狩りになったわけ」
 誰かを守りたいからとか、何かを守りたいからとか、魔物が憎いからとか、格好いい理由があるわけじゃない。ただ、ひもじい思いをせずにすむ程度に、ご飯が食べたい。ひとりになったリタを突き動かす思いは、それだけだった。
「だからあたしはさ、今夜ご飯が食べられるように。明日のご飯も食べられるように、体が動く限り働いていたいと思ってる。だから、この仕事が終わったらどうしようって、考えちゃってるわけ」
「……そこに繋がるのか」
 カイは安堵したように、納得したように息を吐いた。
 それから何かを思いだしたのか神妙な顔つきになり、もの思いに耽る。どうしたのかとリタが彼を黙って見つめると、カイは自嘲気味に微笑んだ。
「じゃあ俺は今朝、君にとても失礼な事を言ったんだな。すまなかった」
 下げられた頭を見て、何を言っているのだろうと思った。今朝の手合わせや会話の中で、リタがカイの事を不愉快に思った記憶など全くなかったからだ。
「何か言われたっけ?」
「いや、忘れているなら、いいんだ」
 カイの微笑みは優しくて、幼き日に周囲からもらい受けた温もりよりも心地よく、リタの胸に染み入った。
 こんな想いを、今朝も受け取った気がする。あれは、確か――
 カイの声を記憶から呼び起こすと、再び暖かな感情が胸を支配した。そしてカイの声で語られる言葉こそが、自分が長々と語った話と矛盾する事に気付いたリタは、カイに微笑みを返した。
「『困った事があったら、トラベッタに来るといい』の事か」
「忘れてるならいいって言っただろう」
 カイは眉間に深い皺を寄せた。苦い顔をして俯く彼が、今朝の自分自身を責めている事を容易に理解したリタは、小さな笑い声を漏らして彼の思考を遮った。
「あれはいいんだよ。あたしあの時、本気で嬉しかったって言おうとしたんだから」
 嘘ではない。本当に、心から、嬉しいと思った。
 どうして嬉しいと思うのかが判らなくて、素直に言うのは悔しくて、だから言葉を濁してしまったけれど、それでも本当に、嬉しかったのだ。幼きリタを布一枚隔てて抱いてくれていた男の存在と同じくらいに。
 ああ、そうか、だからだ。
 だから、男の事を知りたいと思ったのだ。
 自分の事や、カイの事と同じように。


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