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二章 約束




 耳の奥に微かな水音が届いた時、はじめは幻聴であろうかと疑ったカイだったが、リタが振り返ってカイの目を見た時、彼女も同じものを聞いたのだと知った。
 ひとりならばともかくふたりが同時に聞いたとなれば、幻聴ではないのかもしれない。カイはリタから灯りを受け取って、少し高めに掲げた。まだ辺りに水やそれに類似したものは見当たらないが、意識してみれば、すこし湿気が高くなっている気がする。
 カイはリタと並んで歩みを進めた。やがて壁の片側が失われている所まで到達すると、おそるおそる覗き込んだ。
 通路はまだ続いており、右側には今まで通り壁が続いている。しかし左手は断崖のようになっていた。
 かなりの深さがあるようで、ランタンを手にした腕を伸ばしてみても、明かりは底まで届かない。だが、先ほどまでは微かにしか聞こえなかった水音が強くなったので、底に水が流れているのだろうと予想する事ができた。
「落ちたらどうなるかな」
「水の深さと流れの早さと流れに乗って到達するところによるかなあ。流れは音からしてゆっくりだと思うけど」
「落ちないに越した事はないか。今まで以上に足元に気を付けよう」
「はいはい」
 リタは唇を尖らせて、縋るように壁に寄った。カイにそのつもりはなかったが、嫌味と取ったのかもしれない。彼女が苔に足を取られて転がりかけたのは、そう前の事ではないのだから。
 苦笑でごまかしたカイは、リタに習って壁際に寄った。巨大蟻が通れるほどに広いはずの通路が、妙に狭く感じた。
 ほぼ真っ直ぐに続く道を進んでいると、リタが時折小さくため息を吐く。ただ進む事に飽きてきているのだろうと、カイは勝手に解釈した。
 リタだけではない。カイも少々飽きはじめている。途中で挟んだ休憩時間を除いても、洞窟に随分長い時間滞在しており、その間ずっと歩き続けているのだ。相当奥まで来ているはずなのだが、まだ道の終わりは訪れそうにない。
 この道は一体どこまで続くと言うのか。静かなため息を吐いたカイが、リタに話しかけようと口を開きかけた途端、リタが素早く振り返った。
 リタもカイと同じ気持ちで、他愛もない話でもしながら気を紛らわせようと思った――わけではなさそうだ。立てた人差し指を唇に押し当て、静かにしろと目で訴えている。
 カイは肯き、ランタンの明かりを隠してあたりに闇を呼び込むと、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。
 道の先から音が聞こえる。重く、破壊的な音。それが徐々に近付いてくると、足元から小刻みに振動が伝わってきた。
「下がる?」
 リタはカイの耳元に口を寄せて囁いた。
「ここで戦いとなったら、足場にも気を付けないといけない分、不利かも」
「相手も同じじゃないか? いや、俺たちには余裕がある道幅が相手には際どいから、向こうの方が不利かもしれない」
 カイは囁き声で返した。
「それに、剣や君の力だけで倒すより、この下に落とした方が楽じゃないかな。あの巨体が道の途中に転がっていると、先に進めなくなる」
「確かに。でも、万が一水の流れの先からアシェルに辿り着いちゃったらどうするの。あたしたち、魔物を倒しに来たのに、魔物をアシェルに案内する事になるかも」
「完全に息の根を止めてから……だと、力は使えないんだったか。じゃあ、ある程度弱らせてからにしよう」
「了解。じゃ、気を付けてね」
「お互いだろ」
「あんたの方が注意を払うべきものが多いからね」
 リタはカイの目の高さまで手を上げて、手袋をはずした。なるほど確かにこれでは、カイは魔物や足元だけでなく、リタにも注意しなければならない。
「了解」
 囁き声で会話する事すら危ういほど、音が近付いてきていた。カイはランタンを足元に置き、音がより近付くまでふた呼吸ほど待ってから、明かりを解放した。
 暗闇に慣れ初めていたカイやリタ目に、突然の明かりは眩しかった。だがそれは魔物にとっても同じ事。魔物が明かりに怯む隙に、各々の剣を手にして、リタとカイは魔物に駆け寄る。街で戦ったものと同じ、巨大な蟻の形を取った魔物だった。
 リタが身を低くした。街でカイが魔物にとどめを刺した時と同じように、魔物の体の下に入り込むつもりなのだろう。だが巨大蟻とて、自分の弱点をみすみす相手に晒す気などなさそうだった。振り上げた足をリタに向けて振り下ろそうとしている。
 その足を剣で受けたのはカイだった。上から押しつけてくる力に抗うには腕が震えたが、リタが滑り込むだけの時間を作る事ができた。カイが剣を滑らせて魔物の足を解放すると、岩でできた床が砕け、小さな石が飛び散る。先の尖った石がカイの頬を掠めていき、じわりと血が滲む感触がした。
 潜り込んだリタは素早く剣を上へ向けて構えた。皮膚が柔らかい場所を探し出すと、そこに切っ先を向ける――よりも一瞬早く、蟻が身を沈めた。リタを押し潰そうと言うのだろう。
 リタは咄嗟に片手を柄から離し、突き上げた。
 少女の細い体を無残に潰そうとしていた魔物の体が、沈もうとする力よりも遥かに強力な力によって押し上げられた。巨体は羽根のように軽々しく浮き上がり、荒く削られた岩の天井に強烈に叩き付けられる。
 衝撃音と魔物の潰れた奇声が響き、石や埃の雨が降りそそいだ。響く轟音は、まるで洞窟そのものが軋んでいるようだった。
 右手で剣を構えたカイは、左手で顔を庇い視界を確保しながら、ほぼ垂直の壁を滑るように落ちてくる魔物に駆け寄った。剥き出しになった弱点を見極め、走る勢いと全体重をかけて、巨大蟻の体に剣を埋め込む。
 天井に叩き付けられた時よりもいっそう激しい奇声が、カイの耳を貫いた。
 吹き出す体液をできるだけ浴びないように剣を抜き、魔物から離れる。最も至近距離で奇声を聞いた右耳を押さえながら、力無く地に伏す蟻を見下ろす。
 悪臭を放つ体液をとめどなく流しながら、蟻は時折痙攣していた。ぴくり、ぴくりと揺れる足が、硬い地面を打つ。
「……イ」
 リタが声をかけてきている。それは判るが、何と言っているのか良く判らなかった。街で蟻と戦った時よりもなお近い位置で悲鳴を食らったためか、耳が少しおかしくなっているようだ。
「悪い、聞こえない」
 耳の異常を訴える自分の声も、はっきりとは聞き取れなかった。厄介な相手だと内心辟易しながら、カイはリタに振り返った。
 今にも「あとは任せておいて」と言いそうな表情のリタだったが、耳が聞こえ辛いカイのためにわざわざ言葉を紡ぐ気はないらしく、口は動かない。勝ち誇った表情でカイの後ろの蟻を睨みつけ――その表情が凍った。
「……イ!」
 名前を呼ばれた気がしたが、よく判らなかった。だが表情から何らかの異常を察したカイは、蟻に振り返る。
 カイが蟻に与えた傷は深く、まともに動ける様子はなかった。だが蟻は、最後の力を振り絞ったのか、その前足をカイに向けて振り上げていた。
 カイを突き飛ばそうと伸ばされたリタの手が、カイに触れる一瞬前に動きを止める。剥き出しの白い指は、カイに触れる事を拒絶したのだ。
 カイは片足で地面を蹴り、蟻の攻撃を避けた。力の加減をする余裕はなく、背中を強く岩壁に打ちつけるはめになったが、咄嗟に壁側に飛べただけ、自分を褒めてやるべきだとカイは思う。
 蟻と自分との間に、リタの小さな体が滑り込んだ。リタは細い腕を突き出し、魔物の身に触れようとする。
 弾けるように、蟻の巨体が飛んだ。
 蟻の向こうには壁も天井もなかった。ただ深い溝だけがあり、魔物の姿は溝の底へと消えて行く。明かりの届かない深みへ潜り、闇だけがとり残された後、激しい水音がした。
「っつ――」
 カイは自身の背中を撫でながら立ち上がり、溝を見つめるリタの右隣に並んだ。
「大丈夫?」
「頭は打ってないから大丈夫、死にはしないだろう」
「そうじゃなくて、耳。聞こえてる?」
「ああ、そっちか。右がちょっとまだおかしい。左は大丈夫みたいだから、しばらくは左から話しかけてくれ」
「判った」
 小さく肯いたリタが、再び溝の底を覗く。深い闇の向こうの水や、傷付いた魔物の体を見る事は適わないが、水音がするまでの時間などから距離と深さを想像しているのかもしれない。
 カイは深く息を吐いた。短い戦闘であったし、自分よりもリタの方が激しく動いたはずだか、全身にびっしりと汗を掻いている。暑くて、ではなく、冷や汗だろう。
「助かった。ありがとう」
 袖口で額に滲む汗を拭いながらカイは言う。
 リタはカイを見なかったが、口元には大きな笑みが浮かんでいた。
「お互い様でしょ」
 カイは首筋に浮かぶ汗を拭くと、次に手袋をはずした。一番汗を掻いているのは掌だった。思い通りに動かないと言うほどではないが、少し震えているかもしれない。
 服の裾で念入りに拭いながら、カイは顔を上げた。リタも同様だった。洞窟の奥から聞こえてくる、新たな音に反応しての事だ。
「……何匹居るんだろ」
「これで終わりにしてほしいよな」
 悲鳴を聞きつけたのか、それとも仲間の血の匂いを嗅ぎつけたのか、先ほどのようにゆっくりとではなく猛烈な速度で近付いてくる足音に、カイとリタは笑うしかなかった。しかも音からして確実に一体ではない。二体か、最悪三体は居そうだ。
 ふたりは同時に剣を構えた。


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