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二章 約束




 得体の知れない足跡は、山の麓からはじまり長く続いていた。
 黒色が強いこの山の土は柔らかく、振り返ると自身の足跡がくっきりと残っている。この柔らかさならば、ふた晩以上前――おそらくは――の足跡が薄くとは言え確認できる程度に残っているのも、当然の事と言えた。
 カイは青年の案内に従いながら、足跡を目で追う事を忘れなかった。ふと顔をあげると、リタもカイと同じようなところを見ている。彼女も足跡に気付き、おそらくは蟻に似た魔物のものであると予想したのだろう。
「あそこです」
 やがて青年が立ち止まり、洞窟の入り口を指し示すその時まで、足跡は途切れる事も、別の方向へ進む事もしなかった。三人の前方へと続いて行き、洞窟の入り口に至ったところでようやく切れている。
 入り口付近には、今日ついたばかりであろう新しいものから、今にも消えそうに薄れたものまで、似たような足跡が密集していた。
「間違いなさそうだね」
 リタの言葉にカイは肯いた。
 青年が見たと言う魔物も、一昨日アシェルを襲った魔物も、そしておそらくは最初にアシェルを襲った魔物も、全てあの洞窟から出てきたに違いない。
 カイは更に数歩歩みを進め、青年を追い越し、洞窟に近付いた。巨大蟻が出てくるだけあって、入り口は縦にも横にも大きく広がり、奥に続く暗闇が今にもカイを飲み込まんとしている。強い魔物を目前にした時の緊張感が、カイの全身を支配した。
「入ってみる?」
 リタはカイに歩み寄りながら言った。口調は問いかけだが、返答を聞くつもりはなさそうだ。彼女の中で、カイの返答は確定事項なのだろう。
「オレはもう、帰ってもいいですかね?」
 一緒に中に入るのも、ここでひとり待たされるのも嫌だと、口調と眼差しで強く訴える青年に、カイは応えるべき言葉をすぐには見つけられなかった。代わりに足元を見て、残された足跡から一番新しいものを探す。
「さっき貴方が洞窟に入っていく魔物を見た時、魔物はどっちから来ました?」
「ええと……確か奥の方からだったと思いますけど」
「じゃあ大丈夫だと思います。一番新しい足跡は貴方が見た時のものでしょう。たぶん、外にはいません。でも一応気を付けて帰ってくださいね」
「はい。じゃあ、後はよろしくお願いします」
 青年は素早く一礼し、カイたちに背中を向けた。歩む足は徐々に早足になり、背中が小さくなった頃には走りだしていた。よほど恐ろしかったのだろう。
 カイは洞窟を目の前にして、剣の柄に手をかける。意志や、決意と言ったものを手のひらに込め、柄を強く握り締めた。
「あたし、先行くけど、いいよね?」
 慣れた手付きで素早くランタンに火をつけたリタは、カイの返事を待たずに洞窟の中を照らす。暗闇が橙色の明かりによって晴れていくと、暗い色をした土や岩が視界に広がった。
 あの巨大な蟻が出入りできるのだから足場も天上も壁も充分な強度があるのだろうと思いながら、リタもカイも念入りに一歩ずつ確かめ、足を踏み入れていく。時折見える苔の濃い緑色が華やかに思えるのは、暗い色ばかりの中に居るからだろうか?
「けっこう広そうだなあ」
 慎重に確認してから、カイは岩が削られてできた壁に触れた。皮手袋越しだが、刺々しい手触りと陽の光を知らない湿り気が伝わってくる。空気は静かで重く、水分が多いせいか、息苦しく感じられた。
 人間には不快な環境だが、魔物たちにとってはこれが最良の環境だと考えると、いかに相容れない存在であるかが身に染みる。人間にとって魔物が恐怖の対象であり、魔物にとって人間が餌のひとつである限り、敵対し続けるのだろう――エイドルードと、遠い昔に封印された魔獣のように。
 ふと気が付くと、黙々と前進を続けるリタの背中が少し遠ざかっていた。カイは慌てて、小さい、けれど長く伸びた影を追った。
 進んでいくと、ふたりが横に並び両手を広げて歩いたとしてもまだ余裕がある広い道は、僅かに狭まったのち、何倍にも膨れ上がった。これまで歩いてきた道が通路だとすれば、広場と言ったところだろう。
「あの巨大蟻が、こんなところにわらわら居たら、嫌だな」
「冗談でも言わないで欲しいよ、そんな事。あたしまだ死にたくないんだから。あ、そこら辺から、足元気を付けてね」
 注意を受けたとほぼ同時に、びっしりと生えた苔の感触が足の裏から伝わってきた。湿り気を帯びた空気の中で、苔は水分を含んでおり、体重のかけ方を少しでも間違えれば滑ってしまいそうだ。道は地中深くに向けて角度がついているため、下手に足を滑らせれば随分先まで転がり落ちる可能性もある。苔に足を滑らせて怪我をした、などとあまりに情けないので、苔を乗り越えるまでは、岩壁に手をつきながら慎重に進んだ。
 カイに比べて身軽であるからか、リタは器用に足場を確保して進んでいる。余裕があるのかたびたび振り返り、真剣な顔で一歩ずつ進むカイを見ると小さく笑った。
「笑うなよ」
 カイが不服を告げると、リタの笑い声が強くなる。
「気を付けてって言ったのはあたしだけど、カイってば気を付けすぎなんだもん」
「ここで足を滑らせて転がり落ちて、たまたま岩壁の尖ったところとかに頭をぶつけて死亡、なんて間抜けな事になったら、恥ずかしくて死んでも死にきれないだろう」
「可能性が無いとは言わないけど、そこまで悲観的にならなくても」
「悲観的なのと注意深いのは違う」
「それはそうだけど……ま、万が一そんな死に方をしても、魔物に殺されたって形で報告してあげるから、安心し――」
 再び前に向き直ろうとしたリタの頭の位置が突然下がり、カイは咄嗟に腕を伸ばした。必死なカイの右手は、急激に遠ざかろうとしたリタの二の腕を掴む事に成功する。
 引き止める力によって落下が止まった一瞬に、リタは片腕を伸ばしてカイに縋りつく。カイがもう一方の手で支えると、体勢を立て直し、深く息を吐いた。
「誰が悲観的だって?」
 カイは滑った足に削り取られた苔の跡と、リタの靴に付着した苔を交互に見比べる。
「う、うるさい!」
 リタは顔中を朱に染めて言った。
 素早くカイに背中を向け、落としかけたランタンを持ち直す。壁を蹴って靴に着いた土を落とす仕草は乱暴で、照れ隠しにしか見えなかった。
 カイは声を殺して笑いながら、リタの肩に手を置く。
「安心しろ。万が一転げ落ちて死んでも、魔物に殺された事にしておいてやるから」
「……結構、根に持つんだね」
 リタはカイの手を乱暴に掃うと、先ほどまでに比べて慎重な足取りで進みはじめた。カイが忍び笑いをもらすと、一度だけ振り返り鋭い視線を投げかけてきたが、それきりだった。
 ふたりは無言のまま広場のような空間を横切り、再び通路のように狭まった道へと足を踏み入れる。苔の生え方がまちまちになり、角度も若干和らいでいる様子を体感すると、カイは壁に手をつくのをやめた。
「そう言えばさ、さっき、ちゃんと考えて動いたの?」
 突然の問いかけの意味が判らず、カイは問いかけで返した。
「何の事だ?」
「手袋しているから触っても大丈夫だ、とか、ちゃんと考えてあたしに手を伸ばしたかって事。朝の稽古の時はちゃんと考えてたみたいだけど、今はすっかり油断してる感じがする」
 カイは返す言葉が見つからず、無言を貫いた。沈黙から答えを理解したリタは、わざとらしく肩を落としてため息を吐く。
「面倒くさくて悪いけど、この仕事が終わるまでは気を付けて。あたしも気を付けるけど、あたしだけが気を付けたからってどうにもならない時があるから」
「面倒くさいとか、自分で言うなよ」
 リタの指摘は最もで、「判った」「これからは気を付ける」と返すべきだとカイは思った。だがそれらの言葉よりも先に口を出たのは、自分の事を「面倒くさい」と言い切るリタへの文句だった。どうしてそれが口を吐いたのかは判らない。胸の奥で不愉快な感情が渦を巻き、それが憤りとなって飛び出したような感覚だった。
「大丈夫だよ、正直に言っても。あたし、今更そのくらいで傷付いたりしないから」
「そんなわけがない」
「そんなわけないって、なんであんたが言い切れるの。あたしの事でしょ。あんたにあれこれ言われなくても、あたしが一番良く判ってる」
 判っているわけがない、とカイは思った。
 彼女は見ていないはずだ。カイが間を置いた時、自分の力や過去を語った時、彼女自身が浮かべた表情を。健やかな強さで、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、己の運命を享受しながらも、複雑な想いを抱いている事を隠しきれなかった眼差しを。
 強い娘だと思った。尊敬に値する人物で、見習わなければならないとも。だが、それとこれとは別問題だ。
 カイの拳は、何に対してか判らない苛立ちで震えた。
「痛みを乗り越えられる人が、痛みを感じないと思ったら大間違いだ」
 リタの強い眼差しが、急激に力を失った。しかし、いや、だからこそ、カイを真っ直ぐに貫いた視線は、逃れるように反らされる。
「黙って」
「いや、黙らない」
「じゃあ黙らせる」
 体ごとカイに向き直ったリタは、両手に身に付けていた手袋をはずした。
 リタが魔物と戦う事を前提とした探索の中で、魔物に対して有効な能力をわざわざ封印しているのは、カイに気を使っての事だ。その封印を解いてカイと向かい合うとは、相当腹を立てているのだろう。
 だが怒っているのはカイも同じだった。
「理由も、意味も、よく判らないけどな、何か嫌だ」
「自分でも判ってないような怒りを、あたしに押し付けないでくれる?」
「君のせいだってのは判ってるんだ」
 カイは振り上げられたまま動かないリタの腕を取った。剥き出しの手首をしっかりと掴み、逃れようとする力に抗う。無理に引き剥がそうと伸ばされたもう一方の手も取ると、互いの両手が塞がり、膠着した。
「放して」
 短い言葉で望みを告げる少女の唇から目を反らしたカイは、自らが掴んだ腕の先にある白い指先に目を向けた。
 精一杯力を込めているのだろう、強く震えている。だがカイは、純粋な力比べで負けるつもりはなかった。
 ゆっくりと目を伏せる。強く抵抗する小さな手を、自身の頬へと引き寄せる。
「やめて」
 震える声が、低く響き渡った。
「やめて!」
 少女の望みが叫びとなってはじけた。
 カイが少女の手を解放しながら目を開くと、胸元に自身の手を引き寄せて震える少女が見えた。小さな唇は硬く引き締められて何も言葉を紡ごうとしないが、代わりに大きな瞳に宿る光が、カイに訴えかけてくるようだった。
 悲しみと恐怖の光だ。今にも泣きそうで、叶うならば抱き締めてやりたいと思うほどの悲痛な色が、そこにあった。
 望みもしないのに他人を傷付けずにはいられない力への、絶望。
「同じ気持ちだよ、俺だって」
 カイは囁くように静かに言った。
「俺だって、できる事なら傷付けたくなんかないんだ。俺は未熟だから、不意に傷付けるような事を言うかもしれないし、するかもしれないけど、そうしたらきちんと謝りたいと思うし……上手い言葉が見つからないな」
「判ったから、もう、馬鹿な事はするな!」
 自分を取り戻したリタは、カイに向けて怒鳴りつけると、はずしたばかりの手袋をはめなおす。それからカイの頬を叩いた。
 力の加減などするつもりもなかったのだろう。一瞬にして朱に染まった頬に走るじわりとした痛みが、消える事無く後を引いていく。
「あんたの言う通り、壁に頭ぶつけて死んでたかもしれないんだよ。そんな事になっても、絶対、嘘の報告なんてしてやらないから!」
 乱暴な足取りで遠ざかる背中を見つめ、痛みの残る頬を自分で撫でながら、カイは無意識に微笑んでいた。
 この痛みこそが、リタの本音と優しさを剥き出しにしているように思えたのだ。


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