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一章 魔物狩りの少女




 巨大蟻、とでも言えば良いのか。町中で暴れている魔物は、見た目はほとんど蟻と変わらないのだが、体長が明らかに異なっており、人間を凌駕する大きさだ。
 蟻が発する奇声は、辺りに響き渡る事で、力を持たない民を恐怖させた。中には腰が抜けてしまう者もおり、地面に座りこんだ少女を見つけた蟻は、素早くそちらに向けて駆けていく。
 カイは走りながら剣を引き抜き、蟻に突進した。剣が蟻に届いたのは、蟻の足が少女を捕らえ、巨大な口が少女を噛み砕こうとする瞬間だった。
 走る勢いを借りても、巨大蟻の硬い皮膚には、刃先を埋めるがせいぜいだった。しかし、蟻に苦痛を与えるのは成功したらしい。蟻は唸り声を上げ、少女から離れると、カイに向き直った。
 蟻と睨み合う中で、少女を避難させようとするリタの姿がカイの瞳に映った。安堵に胸を撫で下ろしたい気分だったが、その余裕はない。カイは無言で剣を構え直す。
 蟻が垂れ流し、カイの剣を汚した青い血の色が、鮮やかにカイの意識に焼き付いた。空や海を思わせる美しい色合いだと言うのに、腐臭に似た異臭を漂わせ、カイを不愉快にさせる。
 蟻は足を上げ、カイに向けて振り下ろしてきた。かろうじて避けると、蟻の足は重みによってか、それとも刃に似た鋭さを持っているせいなのか、容易く地面を抉る。せっかく綺麗に整備されていた石畳が台無しだ。
 石を簡単に貫けるだけの破壊力がある事を意識しないようにして、カイは数度、蟻に向けて剣を振り下ろした。全てが皮膚の表面を薄く切るのみで、致命傷を与えるほどではない。
「どう? ひとりで倒せそう?」
 少女をどこかへ避難させたらしいリタが、蟻を挟んだ向こうがわに立っている気配がした。こっちは敵に致命傷を与えられず苦労していると言うのに、ずいぶんと呑気な口調である。
「少し、考える時間がもらえたら、なんとかなるかも……な!」
 幾度か切りつける事で、やみくもに切りつけても意味がない事は判った。想像もつかない適当な場所に弱点がある、と言う事もなさそうだ。
 ならば普通に攻めるまで。
 カイは胴体と足の接続部分に狙いを定める事にした。カイの目に見える限りでは、巨大蟻の体の中で最も細い部分がそこだった。他の部分に比べて脆いかは判らないが、同程度の硬さならば、何度か剣を叩き付ける事で切断できるだろう。そうして蟻の動きを鈍らせれば、対処のしようがあるかもしれない。
 カイは蟻が飛び掛ってくるのを待った。鋭い足をわざと際どいところで避けると、足先が地面に埋まったせいで動きが鈍る隙を突いて、剣を振る。狙い通り、胴と足の繋ぎ目から青い血が吹き出した。
 他の部分よりも若干手ごたえが柔らかい。想像していた以上に狙いが正しかった事に浮かれ、カイは無意識に笑みを浮かべた。意識は、痛みによって暴走し、予測し辛くなった蟻の動きを読む事で手いっぱいだった。
 暴れる蟻はどの足とも定めずカイに向けて振り下ろしてくるため、狙いを付け難い。再び同じところを切りつけたいのだが、最初に切りつけた足は今は遠くにあり、そもそも剣が届かない。
 あと一撃。あと一撃あれば、あの足を落とせる。
 確信はあれど思い通りに戦いを進められず、胸の奥に苛立ちが募っていく事を自覚したカイは、咽るような異臭の中、静かに深く息を吸った。
 落ち着け。焦っても、苛立っても、あの足は落とせない。父ならばこの程度の事で気を乱さず、冷静に対処するはずだ。
 カイは気を静めてから、再び狙いを定めた。そうして食らわせた一撃は狙いから僅かに外れ、蟻の足を軽く傷付けるにとどまった。
「ほんの一瞬なら、この蟻の動き止められるけど」
 いつの間にか、剣を構えたリタがカイのすぐそばに立っていた。
 警戒し剣先を蟻に向けながらカイに語りかけてくるが、こちらを見るだけの余裕はないようだ。見れば息が僅かに乱れ、額に汗が滲み、手にした剣は青い血に塗れている。カイの視界に入らないところで、彼女なりに蟻と戦っていたのだろう。
「どうやってだ?」
「口で説明しても笑い飛ばされるから、言わない。とにかくあたしを信じて」
「無茶言うなぁ……」
 蟻の足がふたりの間を割るように振り下ろされた。
 足を避ける事で再び蟻を挟む事になったリタがはっきり聞き取れるよう、声を張り上げてカイは言う。
「他に名案も浮かばないし、とりあえず信じる事にする。頼んだ」
「じゃあ、あたしが合図したら今蟻が頭向けてる方向に走ってね」
 リタが示した方向は、アシェルの町を外部から守る高い高い壁だった。
「あっち、壁じゃないか?」
 カイが口にした問いかけに、リタは返事をしなかった。何本かの足を挟んだ向こう側に見えたリタは、大きな瞳を鋭くつり上げ、蟻を睨みつけている。カイを無視したわけではなく、集中した彼女の意識に他者の声が届かなかったのだろう。
 どうやら、彼女の不可解な言葉を信じるしかない。カイは覚悟を決めて、リタが示した方へ向き直った。リタや蟻の動きを捕らえようと横目で見てみると、リタが剣を鞘に戻す様子が見えた。
 この状況で武器を手放すなど、正気の沙汰ではない。うろたえたカイは、顔をリタの方へ向ける。
 同時に、リタが叫んだ。
「走って!」
 何が何やら判らず、カイはリタの指示に従って走りだした。その方向には、やはり何もない。ただ高く聳える壁があるだけだ。
 何をどう信じろと言うのか。後悔と疑いを抱きはじめたカイの視界の端に、リタが映る。身軽な体で蟻の攻撃を避け、剣を持たない小さな手を、蟻に向けて伸ばすところだった。
 カイには彼女の手が、普通の、小柄な少女の手にしか見えなかった。魔物狩りであるために剣を振り続けた手のひらの皮は厚いかもしれないし、いくつもの細かな傷跡が残っているかもしれないが、ただそれだけのはずであった。
 だが、リタの手が蟻に触れた瞬間、蟻の巨体が飛んだ。
 蟻は強すぎる力で吹き飛ばされたようだが、リタは蟻に触れただけで、突き飛ばそうと力を入れていたようには見えなかった。いや、もし突き飛ばそうとしていたとしても、彼女の細腕で蟻の体を浮かせる事などできるはずがない。だいたい、それほどの怪力の持ち主であるのなら、振るった剣で蟻の硬い皮膚をやすやすと切り裂けるのではないだろうか。
 カイは混乱した。混乱しすぎて、何も考えられなくなった。壁に向かって走っていた足の動きが、次第にゆっくりとなっていく。
「カイ!」
 リタの叫び声で、カイは正気に戻った。その瞬間、吹き飛んだ蟻の体は壁に叩き付けられ、ひっくり返って腹をあらわにした。
 蟻が身を起こすよりも少しだけ早く、カイは蟻の元へ到達する。狙いを定め、ありったけの力を込めて振り下ろした剣は、蟻の足を一本切断するに至った。
 蟻は支えをひとつ失う事で体勢を崩した。
 激痛のためか、蟻は鋭い奇声を上げる。空気を振るわせるほどの音量をすぐそばで食らったカイは、耳が壊れるかもしれないと自分を案じたが、耳を塞ぐために剣を捨てる事はしなかった。
 間を空けずカイは蟻に切りかかった。別の足を同じように攻め、蟻が体勢を立て直すよりもわずかに早く、もう一本切り落とす。
 吹き出す青い血液を避けると、カイと同じように剣を振るうリタの姿が見えた。何度も何度も同じところを切りつけ、ようやく切断にいたると、安堵のため息を漏らしながら次に移る。その様子は見た目どおり非力な少女のものだった。
 先ほど見たものは、夢や幻だったのだろうか。
 心底気になったが、考える事を後に回し、カイは蟻に向き直る。片方についた全ての足が落ちた蟻は、残った足を振り上げて暴れてはいたが、はじめて対面した時と比べてはるかに弱々しいものとなっていた。傷の痛みと切り口から流れ続けるおびただしい量の体液は、魔物の体力を奪っているのだろう。
「放っておけば死にそうだけどね」
 頬に付着した青い血を拳で拭き取りながら、リタは言う。
「自然と死ぬまで暴れさせてたら、この辺一帯の地面が穴だらけになりそうだけどな」
「確かにそうだけど……」
 自由に動き回る事ができなくなった蟻は、その場で足を振り回すしかできなくなっていた。当然、蟻の足の真下にある石畳は、粉々に砕け散っている。
「じゃあ、どうやって止め刺すの、これ」
「多分だがど……何と言えばいいのか、人間で言う胸のあたり。そこは多分柔らかい。さっきひっくり返った時、そこだけ皮膚が薄そうに見えた」
「へえ。ちゃんと見てたんだ」
「色々驚く事はあったが、仕事はできるかぎりきちんとしたくてね」
 カイの言葉に対するリタの笑みは複雑だった。叱られた子供が場をごまかすようであり、褒められた子供が照れを隠すようでもあった。
 カイは苦笑いをリタに返して、蟻に向かった。リタから目を反らし、リタの目から自分を隠すために。
 徐々に動きが緩慢になる蟻が足を上げるのを見計らって、カイは蟻の下に体を滑りこませた。瞬時に狙うべき場所を見つけ、剣を突き上げると、蟻は更なる大きな奇声を上げた。思った通り、他の部分よりも柔らかいそこには、剣の半分を埋め込む事ができた。
 悪臭を放つ蟻の体液を全身に浴びながら、カイは蟻の下から転がり出る。
 力尽きた魔物はその場に身を崩し、二度と動かなかった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.