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一章 魔物狩りの少女




「もうすぐお食事の準備ができますから食堂にお集まりください」
 使用人がカイの部屋を訪れてそう言ったのが、つい先ほどの事だ。
 カイは一応客人の身なのだが、食堂までの道案内まではしてくれないようで、教わった道を間違えないようひとりで辿らなければならなかった。もしかすると、呼びに来てくれた時に一緒に着いていけば案内してもらえたのかもしれないが、湯浴みを終えたばかりで、人前に堂々と出られるような格好をしていなかったのだ。
 濡れていた髪をできるだけ乾かし、しっかりと服を着て部屋を出る。歩きながら、自身の腕を鼻へと押し当てた。全身に浴びてしまった蟻の血の匂いが残っていないかを確かめるためだ。
 特別綺麗好きでもないカイが、昼間から遠慮なくたっぷりのお湯をもらい、かつて使った事もないような高級石鹸で何度も体を洗ったのは、匂いを消すために他ならないのだが、至近距離で嗅いでみても、何の匂いも感じ取れなかった。どうやら強烈な匂いを全身に浴びた事で、鼻がおかしくなってしまったようだ。
 カイは途方に暮れるしかなかった。もしも匂いが落ちていなかったら、これから一緒に食事をする人たちはかなりの苦痛だろう。自分は鼻が麻痺しているので問題はないが……。
「花の香りがする」
 いつの間にやら近付いていたリタが、小さな鼻をカイに寄せ、匂いを嗅ぐ。
 使えない鼻でそれでも匂いを嗅ごうとする事に集中していたためか、カイは声をかけられた瞬間まで、リタが近付いていた事に気付かなかった。突然の事に驚いて身を捩ろうとしたが、動けば腕が彼女の鼻先に触れてしまう。脳裏に吹き飛んだ蟻の光景を蘇らせると、体は硬直して動かなかった。
「に、匂い、消えてるか? 魔物の血の」
「大丈夫、ちゃんと消えてるよ。あんたに似合わない花の香りがして、おもしろい事になってるけど。石鹸使いすぎじゃないの?」
「……ちょっと、気合入れて洗いすぎたか」
 カイは照れ隠しに笑いながら頭を掻く。同時に、リタから半歩距離を置いた。そうしようと思ったからではなく、体が勝手に動いていた。
 しまった、と思ったが、もう遅い。少し寂しそうに陰った空色の瞳が、無言でカイを責め立てるようだった。
 胸の奥に湧いた少女への恐怖心は否定しない。彼女の力は得体が知れず、恐ろしい。向こうから握手を拒んだ事から、彼女の力がカイにも被害を及ぼすのはほぼ間違いないと予測してしまえば、なおさらだ。
 それでも、「だから、彼女と距離を置くのは当然なのだ」と認めたくはなかった。
「わ、悪い」
 咄嗟に口をついた簡素な謝罪の言葉に、リタは薄く笑う。出会ってさほど時は過ぎておらず、彼女の事をよく知らないカイにさえ、「リタらしくない」と思わせる悲しい笑みだった。
「謝る事ないって。怖がるのが当たり前でしょ。みんなそうだよ」
 不思議な笑みだった。蟻と戦った時に彼女が一瞬見せた笑みと似ているかもしれなかった。いや、あれは彼女が一瞬見せたわけでなく、自分が一瞬で目を反らしたのだったか。
 自分の力への思いが、今の彼女の笑みに現れているのかもしれない。巨大な蟻を吹き飛ばせる力を、魔物狩りとしてのリタは誇り、ひとりの人間としてのリタは疎ましがっているのかもしれない――そこまで考えて、町長宅ですれ違った魔物狩りと思わしき男の言葉を思い出したカイは、リタに気付かれないよう深く息を吐いた。
「化け物」と言っていた男は、体のあちこちをどこかに叩き付けたような跡があった。きっと彼は、何かのひょうしにリタの力を身を持って知る事となったのだ。そして彼女を恐れ、逃げ出した。
 あの男を責める気はない。責める権利もない。カイ自身も同じ事をしたのだ。屋敷を出るか、半歩離れるかの違いだけで、リタから距離を置いたのは同じなのだ。何も知らずに、リタを傷付けてしまったのだ。
「話すのが嫌じゃなかったら、教えてくれるか。その力の事」
 勇気を出して訊ねると、リタは目を見張ってカイを見上げてきた。
「聞いてどうするの」
「どうするって……改めて訊かれると、困るんだが。なんとなく、知りたいと言うか、知らないと嫌だと言うか」
「そっか。なんとなく、か」
 張り詰めた空気が微かに緩んだ。隣を歩く少女の足取りが僅かに軽くなったように感じ、カイは少しだけ嬉しくなった。
「期待される答えを返せるほど、あたし自身この力の事よく判ってないんだけど、どうも産まれた時から持ってたみたい」
「よくここまで育ったな。魔物はともかく人に触れられなかったら、赤ん坊なんて育たないだろう」
「全員に触れないわけじゃないんだ。女の人なら何の問題もなく触れるの。普通の動物とかも平気。男の人でも死体は平気だったから、駄目なのは生きている男の人と魔物だけだと思う。駄目って言っても、素肌が触れ合わなければ問題ないから、今ならあんたと握手もできるよ」
 薄い皮手袋を着けた手をひらひらと振るリタに応えるように、カイはおそるおそる手を伸ばしてみた。彼女の言葉を信じ、皮に覆われた指先にそっと自分の指先を重ねてみると、確かに何も起こりそうにない。
 ほっと胸を撫で下ろす。直後、安堵をあからさまに態度に出した事を後悔したが、リタの表情は陰る様子がなく、カイは再び安堵した。
「あんまり実験するわけにもいかないから、別の法則があるのかもしれないけど、今のところ把握しているのは、魔物や男の人があたしに触れそうになると、何かにはじかれるみたいに相手が吹っ飛んじゃうって事かな。あたしが触れようとしても同じ。どうしてあたしだけこんな力を持っているのかも、よく判らない。もしかしたら知ってるのかもしれない親は、居ないし」
 カイは重なる指に注いでいた視線をリタへと移した。
「まだ二歳かそこらの頃にね、拾われたの。拾ってくれた人が言ってた。泣き喚くあたしの声に気付いて近付いてみたら、布に包んだ子供を抱いた男の人が倒れていたって。あたしは元気に泣いてたけど、男の人は死んでたって。背中に大きな傷があったんだって。薬草とか包帯で手当されていたけど、治りきっていない傷が。普通の人なら動けないくらいに深い傷を負いながら、その人はあたしを抱いてどこかに向かっていたみたい。もしかしたら、追われていたのかも」
「その人は、君の父親?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。今更確かめようがないし、だいいちその人の事、あたしの記憶には残ってないから」
 リタの手がゆっくりと滑り落ち、ふたりの指先が離れた。同時に温もりも離れていく感覚に見舞われ、カイは戸惑った。皮手袋越しでは元々、温もりに触れていないというのに。
 距離を感じたのかもしれない。ふと、カイは悟る。物心着く前から母親がおらず、父は仕事でよく家をはずしていたカイであっても、リタの抱く寂しさのいくらかしか理解できない。カイには、いざと言う時に頼れる父親が存在するのだから。
 ジークの息子だと名乗った事、父であるジークを誇った自分が、今更ながらに恥ずかしくて仕方がなかった。悪気があったわけでも、自慢するつもりがあったわけでもない。リタもその程度の事、悪意に取りはしないだろう。だが、自分の中にある甘えを彼女に見せてしまった事が、急に恥ずかしくなったのだ。
「女の人ばかりのところで育てられたからね。この力に気付いたのは、ずいぶん後だった。気付いた時は、どうしようかって思ったなあ。育ててくれた人に恩返しできないし、普通に生きるには役に立たない、厄介な力だから。消えてしまえばいいって何度も思ったけど――今はけっこう、役に立ってくれてる。だって、魔物狩りとしては、ある意味で無敵でしょ? どんな魔物もあたしを傷付けられないんだから」
「確かに」
「だから、絶対負けないよ、あたし」
 リタは小さな手を握りしめて作った拳を、カイに向けて振り上げた。
「さっきは町中で被害を広げちゃいけないかと思って協力したけど、本当ならひとりで倒せたんだから、あんなの」
「どうやって?」
「死ぬまで壁や地面に叩きつければ、そのうち弱るでしょ。ま、今回はそんな事したら、あいつが弱る前に壁が壊れそうだから、やめたけど」
 振り上げられた拳を柔らかく受け止めて流しながら、カイは微笑んだ。カイには今の彼女の態度が本音か虚勢かを見分けるだけの力はなかったが、仮に虚勢だったとしても、強がる事ができる彼女の力が眩しいと思えたのだ。
 彼女の力は、彼女が失ったものの代わりに与えられたのではないか、とカイは考えた。彼女を守るはずだった両親の代わりに、彼女を守ろうとしたのではないか、と。
 だからと言ってありがたいものとは言い切れないし、不便な力よりも両親の庇護を望む方が普通であろうから、カイはその考えをリタに伝えようとはせず、自身の中で消化した。
「敵に回すと手強そうだな、君は」
「うん、手強いよ。気を付けてね」
「自分で言うなよ」とカイが言う前に、リタは軽い足取りでカイの数歩前に進んだ。表情はもう覗けない。突然見せつけられた小さな背中だけが、彼女の感情を不器用に伝えてくる。
「話。聞いてくれて、ありがとう」
 ぽつりと、こぼすようにリタは言った。
「? 俺が訊いたんだから、当たり前だろう」
「まあ、そうなんだけど」
 カイが疑問を視線で投げかけてみても、首を傾げてみても、リタは応えない。
「今日の夕飯なんだろうね」とか、「ここ、ご飯おいしいよ」とか、他愛のない事を、食堂に辿り着くまでずっと話し続けていた。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.