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九章



 会議の終了と共に、イリュウスはいそいそと家路につく。
 色々と考えるべき事があるのは判っているが、「腹が減った」以外に思いつく事はなかった。あれほどきつかった眠気を上回るほどに食欲が強くなっていたのだ。そう言えば、研究中はまともに食事を取っていなかった。最後にきちんと食事を摂ったのは、丸一日前だ。
 家に辿り着いたのは、昼食どきが過ぎ去った頃だ。店を覗くと、客はほとんど居ない。ならいいか、と呟いて、イリュウスは店の一番奥の席に座り、くたびれた体をテーブルに預ける。
 すぐに、後頭部に衝撃が走る。耳元で、ごん、と、いい音がした。僅かな時間で半分眠りかけていたイリュウスだが、さすがに殴られては寝ていられない。おとなしく体を起こすと、丸い盆を手にした姉と目が合った。通常ならば美しく弧を描いているはずの眉は、きつく吊り上がっている。
「ここに居座らないでよ。あんたを客としてもてなしたって一ガメルの得にもならないんだから」
「腹減った。なんでもいいからとりあえず、食い物くれよ」
「ったく。だったらせめて、入口近くの席に座って客引きしたら?」
 仁王立ちで文句を言うソフィアに代わって、水と食べ物を運んできてくれたのは、義兄のランセルだった。
「とりあえず、スープでいいかな。すぐに出せるから」
「ありがとうございます」
 大きな皿にたっぷりとつがれたスープから上る湯気と、鼻腔をくすぐる美味しそうな香りに急かされて、イリュウスは礼もそこそこに、匙を手に取る。
 大きめに切られた野菜が柔らかくなるまでじっくり煮られたスープは、香辛料で味つけられただけの素朴なものだが、イリュウスはこれが大好きだった。単品で食べようとすると、もうすこし肉など腹にたまるものが入っていてもいいのではないか、と思うのだが、別の料理と共に注文する人が多いようなので、文句は言わないでおく。
「他は何がいい?」
「あまりものでいいですが、できれば肉が食べたいです」
「この時間にあまりものなんかあるわけないでしょう」
 イリュウスが口の中のものを飲み込むと同時に、ソフィアは再び盆をイリュウスの後頭部にぶつけた。
「今日多めに仕入れているのは、兎かな?」
「ちょっとランセル。イリュウスをあんまり甘やかさないでよ」
「まあまあ。どうせイリュウスくんの事だから、研究に没頭してまともに食事を取ってもいなかったんだろうし」
「そうなんですよ、そろそろ丸一日食べてないんです。さすがランセル義兄さん、気が利きますよね。客商売はそうでないといけませんよね。どこかのだれかにその心意気を教えてやってくだ……」
 後頭部に受けた三度目の衝撃は、今までで一番強かった。耳に響く音の大きさも、もちろん一番だ。
 ソフィアは長いため息を吐き出しながら、イリュウスの向かいに座った。
「そんなにお腹空いてて眠かったなら、さっさと帰ってくればよかったじゃない。昼からの定例会議なんて出ずに」
「いやー駄目だろ。役職者の義務を、そんなくだらない理由で」
「どうせ今月も大した話をしなかったんでしょ?」
「いや、そうでもなかったな。今日は、出て良かったと思うくらいには面白かったよ」
 言ってイリュウスは、持ち帰ってきた企画書を、テーブルの上に放り出した。
「そんな難しそうなもの見せられても」と呟きながら企画書に視線を落としたソフィアは、最高導師たちと同じように表情を変える。「どうしたんだ?」と覗きこんだランセルも、同様だった。
 父セインが遺跡調査に向かった時、ふたりはイリュウスと違って、すでに大人だった。だからかは判らないが、ふたりはイリュウス以上に、イリュウスとはまったく違った類の、思い入れがあるのだろう。ソフィアは痛々しげに、ランセルは悲しげに、表情を歪める。
「あんた、これに参加するの?」
 声音こそ落ちついていたソフィアだが、心の中はずいぶん荒れている様子だ。スープの残りを口に運んだイリュウスは、咀嚼しながら首を振り、飲み込んでから語る。
「企画発案者はメル・グナ導師なんだが、それ以外の導師は全員猛反対しててな。万が一その企画が実現しても、学院が主宰って形にはならないと思う。その場合、俺には参加義務はない。志願したとして、メルが許可してくれるかも謎だな。メルは俺も反対派の一員だと思っているから」
「メル・グナ導師って、あんた何度か店につれてきた事あるわよね? あの綺麗な子」
「姉貴が言うのは嫌味だろ」
「誉められて嬉しいはずなのに、あんたに言われると不思議と腹が立つのはどうしてかしらね」
 ソフィアがひきつった笑顔を見せるので、イリュウスは微笑んでごまかす事にした。
「質問が間違っていた気がするから、変えるわね。イリュウス、あんた、これに参加したいの?」
 まさに今現在、答えを出しかねている悩みを突きつけられ、イリュウスは空腹を忘れて食事を進める手を止めた。
 探るように、ソフィアの目を見つめる。だが、逆だ。逆にイリュウスのほうが探られているのだ。胸を殴られたかのような重みに、イリュウスは嘆息するしかなかった。
「参加したいと言ったら、姉貴はどう出る?」
 今度は問答で探ろうと、イリュウスは訊いた。
 返答はソフィアよりも、ランセルのほうが早かった。
「もちろん、反対に決まって……」
「背中押して応援してあげる」
 正反対の意見を断言され、自身の言葉を途中で放棄したランセルは、咄嗟にソフィアに振り返る。見開かれた目には、強い驚愕が見える。
 イリュウスとて、驚かなかったわけではない。「北の遺跡に向かう」と言うのは、少なくともこのラバンにおいて、「死にに行く」と同意だ。ソフィアもそれを判っているはずなので、承知の上で進めてくると言う事は、何かしらの意図が姉にあると思うのだが、それがまったく読めないのだ。暗に死んでくれと言っているのだろうか。そう言われても仕方がないほどの事を、かつてイリュウスはしてしまったけれど――
「私ね、あんたの事、けっこう可哀想な子だなって思ってるの」
「面と向かって言われると、否定したくなるな」
「だと思うけど、ちょっと黙って聞きなさい。あんた、自分の事、一人前だと思ってないでしょ?」
「黙って聞け」と言った直後に返事を必要とする問いかけを投げてくるのはどうなのだろうと思いつつ、イリュウスは迷いながら頷いた。
「そうよね。じゃあ、どうして一人前じゃないんだと思う? 年齢は、成人を迎えてからもう十年以上過ぎてるでしょう? 顔だって歳相応に大人っぽくなってる。力だって体格だって、とても魔術師とは思えないくらいいいじゃない。あれだけ大金稼いでくるんだから、仕事だってできるんじゃないの? じゃあ、あんたに足りないものは何?」
「――贖罪?」
 小さく呟くと、イリュウスの後頭部は、本日四度目の衝撃を受けた。
「私、母さんを嫌いになりそう」
「俺を可哀想だと思えるほど優しい姉貴が、どうして」
「あんたは息子としてやってはいけない事をしたと思ってるんだろうけど、私はむしろ、母さんのほうが、母親としてやってはいけない事をしたと思ってる」
 ソフィアは盆を手放し、椅子に背を預けてから、強引に話を元に戻した。
「足りないのは、思い込みとか、心意気とか、その程度のものなのよ」
 力強く語られた答えは、思いの他軽くて、イリュウスは拍子抜けする。どう返して良いか判らず、後頭部をさするふりをして視線を逸らすと、ソフィアはなおも続けた。
「一人前だと、思った者勝ちなの。それだけでいいのよ。なのに、あんたにはそれができなかった。色々失敗もあったからだと思うけどさ、まあ……そうね。どんなに遅くても、導師の地位に着いたあたりで、あんたは調子に乗って良かったのよ。自分は、周囲に認められるだけの実力がある、一人前の男なんだってね」
「そうかな」
「絶対そう。でもあんたはそうしなかった。周囲に認められても、自分を認めなかった。じゃあ、あんたはいつ、自分を認めてあげるんだろう。誰も読めない古文書を解読した時? 新しい理論を確立した時? 世界に認められる論文を発表した時?」
 どれも違う気がすると、伝える事が面倒くさくて、イリュウスは無言を貫いたまま、何の反応も示さなかった――ソフィアが、次の言葉を告げるまで。
「父さんを超えるって、子供の頃からの夢を叶えた時?」
 イリュウスは俯きがちになっていた顔を上げた。すると、氷色の双眸が待ち構えていて、思わず息を飲んだ。母親の美貌をそのまま受け継いだとまで言われる姉の顔に、父の面影が重なって、心臓が跳ねる。
 色と違って温かな眼差しを見上げ続けていた日々は、イリュウスの中で今も輝き続けている。最も輝いていた日々と言っても過言ではないかもしれない。大好きで、憧れていた父親を、素直に慕っていれば良かったのだから。
「あんたは父さんを神聖視しすぎなのよ。まだ子供の頃に亡くなって、周囲の人たちにいいところばっかり聞かされ続けたんだから、仕方ないんだけどさ。父さんは確かに強かった。戦士としては、どうあがいたって勝てやしない。そう思う。でも駄目なところだっていくらでもあったし、駄目じゃなくても、今のあんたのほうが優れてるところはいくつもある。父さんはあんたほど知識が豊富じゃなかった。組織に所属して上手くやれる人でもなかったし、たくさんの弟子の面倒を見られる人でもなかった。それから――」
「もう、いい」
 掠れかけた気力でイリュウスは、ソフィアの語りを遮ろうとしたが、ソフィアはひと言「よくない」と否定してから、更に続けた。ランセルがイリュウスのために用意してくれた水を奪い、一気に飲み干してから。
「イリュウス、あんたは、父さんを超えなさい。誰からも認められる、あんた本人でさえ認めざるをえない、完璧な形で。そのために、西の勇者ですら攻略できなかった遺跡を攻略し、名声を広げるのは、最適な方法だと思うのよ、私は」
 再び、心臓が跳ねた。
 だが今度は、悪い意味で、ではない。喜びや感動と言った、良い衝撃がイリュウスの心に響き、止まっていたものが動き出したかのような感覚だった。
 西の勇者を超える。
 甘美な響きだった。無意識に体が震え、血が滾る。
 アーシェリナを失った時から――いや、もしかすると、父を失った時からか、ずっと死んでいた心が、息を吹き返したような感覚だった。物心ついた時からの目標を、ずっと見失っていた大切なものを、見つけたからだろうか?
「失敗したら、死んじまうだろうな」
「それは私だって嫌だから、絶対成功させなさい」
「簡単に言うなよ。西の勇者ですらできなかった事なのに」
「ほら、またそう言う事を」
 ソフィアはわざとらしいため息を吐いた。
「西の勇者がどれほどのものだって言うのよ。人を使うのが下手すぎて、采配に失敗しただけかもしれないじゃない。普段力押しでどうにかできちゃってたから、考える事を放棄してたのかも」
「姉貴は父さんが嫌いなのか?」
「大好きよ。再会した時に父親だって名乗れなかった意気地なしなところも。赤ん坊だったあんたを寝かしつける事とか、野菜を切り刻む事とか、洗濯物をたたむ事が、私より下手だったところも」
「あんたみたいに、夢見がちな尊敬をしていないだけでしょ」などと辛辣な言葉を、とろけるように柔らかな笑みを浮かべながらソフィアがこぼすので、イリュウスは笑うしかなかった。


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