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九章



 ひんやりと冷たい会議用の大きな机に、イリュウスは力無く上半身を預ける。
 賢者の学院の中で最も重要な会議室の机は、当然ながら一番上等なものが置かれており、丁寧に処理された上に何度も上塗りが重ねられた、手触りがなめらかなものだ。見習いたちが使っている、いつ節くれが刺さるか判らない机とは随分な差で、布団に比べて硬い事は否めないが、この上でなら眠ってもいいとイリュウスは思っていた。
 そう、イリュウスは、このまま眠ってしまいたかった。これからこの会議室で、月に一度、ラバンの賢者の学院の導師たちが一同に集う定例会議が行われる。大した事を話し合うわけでもなかろうにと思うだけで気力が萎える上、昨晩から弟子たちの研究を手伝っていて、眠っていないのだ。睡眠の誘惑にいつまで打ち勝てるのか、イリュウス自身判りかねている。
 目を閉じたり開いたりを繰り返し、徐々に意識が遠のいていく。すると、扉の向こうからゆっくりした足音が響き、イリュウスは仕方なく上半身を起こした。
 扉が開いて現れたのは、大量の書類を小脇に抱え、体の線に沿った服を着た、若い女性だ――若いと言っても、導師連中の中では、の話で、イリュウスよりいくつか年上なのだが。
「なんだ、メルか」
「その言い草。せっかくひと月ぶりに会えたって言うのにね」
 メル・グナ導師は艶やかに微笑むと、イリュウスの向かいに腰を下ろした。
 三年前から、最高導師の席に向かって右がメル、左がイリュウスと言う定位置は変わっていなかった。それは、メルは魔術師として、イリュウスは賢者として、最高導師に次ぐ位だとの証明である。
「一ヶ月くらいじゃ変わらないだろ。お前も俺も」
「そりゃそうだけど」
「不満げだな」
「出会った頃から変わらないな、くらい言ってみたらどう?」
「そんなもん、言う必要もないくらい当たり前の事だろ?」
「あら。嘘でもちょっと嬉しいわね。もう少し本心っぽく言えたら、褒めてあげるのに」
 メルは微笑みながらイリュウスを見つめた。
 一応本心だけどな、とイリュウスは心の中で呟く。長い睫で半ば覆い隠した黒目がちの瞳は相変わらず悩ましげで、少し厚ぼったい真紅の唇や完璧とも言える曲線美と合わせ、異性を本能的に惹きつける魅力がある。十年前から少しも衰えないどころか、むしろ増しているのではと思うほどだ。だと言うのにイリュウスの言が嘘臭く聞こえるのだとすれば、彼女の魅力に簡単に惑わされるほどの若さが、年齢と共にイリュウスから失われたのだろう。
「ま、いいわ。それより、随分眠そうな顔しているわね」
「昨日の夜からついさっきまで研究に付き合ってやっててな。家に帰る暇もなく、ここに直行したから……少しばかり寝てもいいか?」
 イリュウスは再びテーブルに体を預ける。するとメルは立ちあがり、できる限り体を伸ばし、イリュウスの髪を引っ張った。
「ダメよ、若造。もうすぐ年配の導師様がいらっしゃるわ。失礼の無いように」
「俺の方が位は上なのにな……」
「だからよ、イリュウス。相手の気持ちを考えなさいな。何十年も修行を重ねた導師様たちが、若造にあっさり超えられた悔しさを考えてみなさい。あたしが向こうがわの人間で、あんたが自分の実力を鼻にかけるような態度とっていたら、あまりにむかついて、刺すわね」
「殺しに来るなら、せめて魔法使えよ。魔法使いなんだから」
「細かい事はどうでもいいでしょ」
 コホン、と咳払いをひとつ挟み、メルは話を戻した。
「それに、気持ちいいでしょ。あんたに実力で負け、位で負け、あげくにあんたが謙虚に向こうを立てる。向こうは完全敗北で惨めよ。あんたの駄目なところあげつらねて嫌味を言ったり、馬鹿にしたり、陰口たたいたりできないんだから。してもいいけど、自分の価値を下げるだけ」
 イリュウスはその瞬間、メルの根性の悪さを思い出し、気付かれないように笑った。
 そうしているうちに、眠いを通り越してしまい、イリュウスの頭ははっきりしてきた。背筋をぴんと伸ばして導師たちが集まるのを待つ。中年の女性と壮年の男性がそれぞれイリュウスとメルの隣に座り、会議開始予定時間ぎりぎりに、白い立派なあごひげをたくわえた最高導師が部屋に足を踏み入れた。
「フェルザム・フォレスト導師は……本日欠席ですか?」
 最高導師の問いに即座に答えたのはメルだった。
「隣国リファールとの共同研究が終盤にさしかかっているとの事で、半月前よりあちらに。完了次第戻るとの事ですが、間に合わなかったようですね」
「そうですか、では仕方ありません。はじめましょう」
 最高導師の言葉と共に、イリュウスは自分の席に置いてあった一枚の紙を手に取った。誰が人数分書き写したか知れないが――おそらく、この会議の雑用を任されているメルの弟子のカレンだろう――本日の議題とやらが書き並べてある。
 大した事件も発見も無い昨今であるから、毎月かわり映えのしない内容で、だれだれの研究に組み込める予算はもう無いだの、この研究は有意義だからもう少しお金をかけようだの、東方の魔術都市オランではこんな研究発表がなされた、それはすばらしい、だの、ラバンで最高の知識を持った人物五人――普段はフェルザム・フォレスト導師を含めて六人だ――が集まって話さなければならない内容なのか、とイリュウスは毎月疑問に思っている。今日はその気持ちが特別大きい。それはただ単に実験に疲れ、眠いからなのだろうが。
 小一時間ほど語り合った所で議題は尽きた。ようやく開放されるのか、とイリュウスは胸をなでおろした。
「では、本日の定例会議はこれにて」
「お待ちください」
 お決まりの、最高導師の締めの言葉が紡がれるはずであった。それによってイリュウスはこの窮屈な雰囲気に支配された会議室から開放され、家に帰り、寝台に飛び込めるはずであった。
 しかし、締めの言葉はメルによって中断される。メルは静かに椅子を引いて立ちあがり、数枚ずつまとめられた書類をひとりひとりに配りはじめたのだった。
 メルが会議室に入ってくる時、確かにその書類を抱えていたが、弟子が彼女に提出した文書か何かだと思っていたイリュウスは不意打ちを食らった気がした。これからこの厚さの内容を語り合うというのか。
「メル・グナ導師。どう言う事ですか、これは」
 最初に書類を渡されたため、最初に書類に目を通す事となった最高導師が、即座に声を上げる。落ちついた口調だが、感情はあらぶっているようだった。
 ほんの数秒で「どう言う事だ」と言いたくなるようなものに目を通すのは怖いが、それよりも好奇心が上回ったイリュウスは、受け取った瞬間、書類に視線を落とす。
 北の遺跡発掘調査。
 一行目に大きく書いてある文字を目にした瞬間、最高導師が反射的に言葉を紡いでしまった理由を理解したイリュウスは硬直した。そうでなければ、震えだしていただろう。
 全員に書類を手渡し、もとの席に腰を下ろしたメルは、ようやく最高導師の問いに返答した。
「見ての通りです。あの悪名高い『北の遺跡』の発掘調査を提案いたします。この調査は、私が賢者の学院に入ってからの悲願でありました。ですが皆様がお判りの通り、『北の遺跡』の癖の悪さは天下一品、並大抵の知識や労力では調査不可能です。私と、私の弟子だけではどうしようもないでしょう。ですから、皆様のご助力を得られればと……」
「本気で言っているのですか、メル・グナ導師!」
 壮年の男性――グリス・エフォア導師は机を拳で叩きながら叫んだ。メルは音にも声にも怯まず、強い眼差しのまま頷く。
「『北の遺跡』の調査など、できるはずが無いでしょう。なんと言っても、あの――」
 中年の女性――ニネア・アリフィド導師も反論に出た。だが、言葉の途中でイリュウスの顔を覗き、気まずそうに顔をしかめると浮かせていた腰を落ち着かせ、言葉をつぐむ。その様子で、イリュウスはニネアがなんと反論しようとしていたか理解できた。
「十五年前、賢者の学院の発展、それによる国力の増強、東の大国と対等に渡り合える力を望み、学院と国が協力して遺跡に赴いたものの、失敗に終わった事は理解しております。それ以来、あの遺跡に足を踏み入れる研究者も冒険者も滅多におらず、たまに挑戦する怖いもの知らずたちは、けして戻ってこない事も」
「ならば」
「ですが、いえ、だからこそ、私はこの、『北の遺跡』の調査を行うべきだと思うのです。『北の遺跡』は何者の手も入っておりません。世界中の誰も知らない古代王国時代の遺物や知識が眠っている可能性が高い。『西の勇者』と呼ばれた西方最強の戦士が倒せなかったほどの魔物か強力な罠に守られているような遺跡なのですよ。ただの遺跡であるわけが――」
「メル・グナ導師!」
 最高導師の声はメルを叱り付けるものへと変わった。一同の視線は、この場合最高導師かメルに集中すべきだろうが、この時ばかりはイリュウスに集中した。『イリュウスに』と言うのは少し語弊があるだろうか。視線を集めたのは『西の勇者の息子』なのだから。
「私の事は気にせず、話を進めてくださって結構です」
 イリュウスは心中ではだいぶ動転していたが、できる限りの平静を装いながら言った。
「話を進めるも何も、意見を出していないのは、もはやイリュウス・ローゼンタール導師のみですよ。メル・グナ導師以外は全員反対を表明しております」
「なぜです! 誰も知らない知識を得たいと願う、それは我ら知識人の本来あるべき姿ではありませんか!?」
 叫ぶメルの様子を見れば、彼女が北の遺跡に挑む事を渇望しているのだと感じ取れた。普段の、さも『男あさりの片手間に魔術師を目指したら成功した調子のいい女』と言った雰囲気は、どこにも見えない。
 イリュウスはまばたきを何度か繰り返す。全員がイリュウスを睨むように見つめてくるため、気付かれないように深呼吸をするのはひと苦労だった。
「我らは一般の民にどちらかと言えば悪い印象を抱かれております。それは、一般人にとって魔術や知識が役立つものであるとの認識より、恐ろしいものであるとの認識が強いからです。だからこそ我らは一般の民へと奉仕する必要があり、そのために危険を顧みず、未知を探求し、新たな知識を得、研究によって発展させていく事は、我ら魔術師や賢者が進むべき、正しい道でしょう」
「イリュウス……!」
「ですが」
 喜び溢れるメルの声に負けないよう、イリュウスは声を強くした。
「限られた研究費や、研究員の命を無駄に散らす事は、正しいと言えません」
 メルの表情にかすかに浮かんだ微笑みが、瞬間、消えた。それによりイリュウスは、自分が意図するところと別の意味をメルが受け取ってしまったのだと気が付いた。
「メ……」
「この学院に足りないのは実績のみだと思っておりました。人材で言えば、魔術師としての私、賢者としてのイリュウス・ローゼンタール導師は、西方諸国内では類を見ないほどであり、東方の大国にも劣らないと自負しておりましたし、それ以外にも、意欲あふれる研究者達が終結した、すばらしい学院だと信じておりました」
「メル・グナ導師」
「ですが今、深い信頼を裏切られました。この学院には、自らの保身を望む方々ばかりで、純粋な探求者など存在しないようです。ならば私はもう、どなたの協力も求めません。私財を投げ打ってでも、『北の遺跡』の発掘調査を完遂させて見せましょう。そのあかつきには、貴方がたは今しがみついているその椅子から追いやられる事になるのでしょうね。もっとも力が弱く、もっとも力強い、世論によって」
 徐々に荒ぶる声で語り終えたメルは、最後にひとつ、わざとらしいため息を吐くと、持ってきた書類やらを小脇に抱え、やはりわざとらしいほど大きく足音を鳴らし、会議室を出て行った。
 イリュウスは呆気に取られていた。メルと出会ってから十年以上の時が経ち、この学院で双肩と扱われるようになってから何年も経っているが、彼女にこれほど熱い一面があると、初めて知ったからだった。知った事により、初めて同僚としての尊敬を覚えた。
 しかし彼女も早とちりだな、とイリュウスは弱々しくため息を吐く。イリュウスは彼女の案に反対したつもりは毛頭無い。言葉の通り、金も人命も――父の時のように――無駄にしてはいけないぞ、と前置きをしたかっただけだ。その後に賛同しようと思っていた。
 もっとも、とイリュウスは考え直す。そんな前置きをしている時点で自分は、迷いなく賛同していたわけではないのだろう。迷った時点で、メルに怒られるのは当然かもしれなかった。
 静まり返った会議室の中、イリュウスはそっと企画書に視線を落とす。
 北の遺跡への挑戦。それを諦める自分と、考えるだけで胸を躍らせる自分が居た。


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