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八章

11

 墓地の片隅に並んだ両親の墓のどちらにも、主の骨は眠っていない。
 命を落とした場所も、時も、大きく違ったふたりだが、変なところが一致したのは、仲の良い夫婦だった証なのだろうか。
 ぼんやりとそんな事を考えたイリュウスは、想像によって自傷に走る自身をごまかそうと首を振り、手にした一輪の花に軽く口付け、母の墓標に供えた。
 母の愛した小さな花。きっと、どんな豪華な花束を持ってくるよりも、喜んでくれるだろうと思うのだ。
「まったく。ずっと臥せって心配させてたと思えば、今度は誰にも気付かれない早朝に家を出るなんて」
 聞き慣れたきついけれど優しい声が耳に届くと同時に、後頭部を叩かれる。押さえながら振り返ると、小さな花束を抱えたソフィアが、堂々と胸を張って立っていた。
「あんまり驚かせないでよ。まあ、どうせここだろうと思ったけど。洋服の棚見たらちゃんと着替えてるの判ったし。今日は学院に顔を出す気なのね?」
「ああ。ずいぶん長い事、休んでいたから」
「それはいいけど、フィアナとランセル、あんたの事すっごく探してるわよ。フィアナなんて、どっかで自殺してるんじゃないかって、焦って家を飛び出すくらい」
「で、姉貴は、のんびり墓参りか?」
「私はお店が忙しいから、ここに来られるのは朝早くか夜遅くしかないんだから、しょうがないでしょ。それに言ったじゃない。どうせここだろうと思った、って」
 ソフィアは両親の墓の間に移動すると、しゃがみこみ、花束を置いた。
 存在感と比較して驚くほど小さな姉の背中を見下ろしながら、イリュウスは強く唇を噛む。この人はきっと、イリュウスよりもよっぽどイリュウスの事を理解しているのだろうと思うのだ。だからこそ頼もしく思えるのだが、それ以上に悔しかった。
「あのね、イリュウス。本当の事言っちゃうけど」
 立ち上がったソフィアは、イリュウスに振り返る。色合いを除けば母に良く似たその美貌は、母とは違う明るい輝きが見えて、美しいと思う以上の感情は湧かなかった。
「私、感謝してるのよ。あんたに」
「なんで……」
「私の代わりに母さんを殺してくれたから」
 イリュウスが息を飲み、顔を強張らせると同時に、ソフィアの腕がイリュウスの首に回る。そのか細い腕にこもる力などいくらもないだろうが、ろくに食事も取らずに閉じこもっていたイリュウスの体は、簡単によろけた。
「本当はずっと思ってた。母さんが若返ってから、日に日に膨らんでった。早く死ねばいいのにって思いながら、私は母さんに接してた。母さんの世界は父さんの居る場所だけなのに、とっくに生きる世界が失われていたのに、むりやり繋ぎとめてごめんねって思いながら、過ごしてたのよ」
 ソフィアの腕は、声は、震えている。しかし、けして泣いてはいない。いつも明るくたくましい微笑みが、驚くほど弱々しいだけで。
「私、母さんの事大好きだった。でも、こうして母さんが死んでも、ちっとも泣けないの。それどころか嬉しくて、笑えるのよ。こうなったほうが、母さんは幸せなんだって、そう思えているからよね」
 イリュウスを手放したソフィアは、空を仰ぐ。まだ昇りはじめたばかりの太陽の光を、目を細めながら見つめ、語りかけるように呟いた。
「――幸せ、よね?」
 肯き、微笑む母の姿が、そこにあるかのようだった。幻影でも想像でも見たくなかったイリュウスは、俯く事で視線を逸らす。
 そして、待った。姉が何か言い出すのを。しかしソフィアは、それ以上何も語ろうとしなかった。
 はっきりと説明される事でイリュウスは、母を殺した弟を責めようとせず、むしろ庇った姉の気持ちを理解した。だが思うのだ。それ以外に、ソフィアがイリュウスを責める要素はあるはずだと。説明した事はないし、隠れるようにしていたけれど、この姉ならば、イリュウスがアーシェリナにどのような想いを抱いて接していたか、ふたりがどんな関係にあったのか、気付いていると思うのだ。
 イリュウスが無言で姉を見続けていると、やがて視線に気付いたソフィアは振り返り、肩をすくめながら笑う。
「やだ。いくら顔が似てるからって、母さんの次は私とか言わないでよ。私にはランセルが居るんだから」
 アーシェリナに対する想いを馬鹿にされたような気になって、イリュウスは少し苛立ったが、想い以外の全ては馬鹿にされても仕方がないと思えて、何も言えなかった。
 そんなイリュウスの心情をも、ソフィアは読んだのかもしれない。優しく微笑んだソフィアは、イリュウスの両肩に手を置き、深く呼吸をする。
「ゆっくり呼吸しなさい。悲しい時は、沢山の事をやろうとしなくていい。まずはただ生きなさい。朝起きて、ご飯食べて、学院に行って、寝て。それができるようになってから他の事を考えなさい。私たちや他人を思いやる事、研究に力を入れる事――父さんを越える事」
「それは」
 イリュウスが口を挟む間を与えないよう、ソフィアは続けた。
「私ね、こう見えて、結構あんたの事買ってるのよ。うじうじしてて陰気で、根性無いし、不器用で料理の手伝いもさせられないけど、母さん似のその顔で嘘の笑顔を振り撒いて女のお客さんを喜ばせる才能なんて、誰も叶わないわよね」
「なんだそれ」
 誉められている気がせず、イリュウスは短い言葉で不満を現した。
「それと、人並外れたその知能」
 ソフィアはこめかみの辺りを指で差し示した。
「あんたなんかよりよっぽど立派な人たちが、こぞって称えるんだから、そうとう凄いんでしょ。だから、あんたなら、その頭で父さんを越えられるんじゃないかって思うわけよ」
「姉貴……」
「私が勝手に信じているだけよ。いいでしょ、別に」
 こんなにも弱く小さな自分が、偉大な戦士であった父を、越える日など来るのだろうか。
 越えたいとは今でも思う。けれど、何をする気力も湧いて来ない今、そんな事に尽力する気にはなれない。
 だけどいつか――本当に、いつか。
 アーシェリナへの想いを永遠のものにするか、全てを忘れるか。どちらにしても、イリュウスはいつか、立直るだろう。それはとても薄情で、悲しい事かもしれないけれど、人間の記憶は、心は、そんなものなのだ。生きていくために不要なもの、邪魔なものは、消していってしまうのだ。
 いつかそうなったら、もしかしたら。
「姉貴もフィアナも……馬鹿だな」
「どこがよ!」
 ソフィアはむきになって拳を振り上げたが、そこで止めた。氷色の双眸に、微笑みながら涙をこぼすイリュウスの姿が映ったから、だろう。
「俺を許すなんて、馬鹿だ」
 ソフィアは苦笑する。白く細い、けれど水仕事で荒れた手で、イリュウスの涙を拭った。
「仕方ないでしょ。私は、いい歳して姉の前で素直に涙を流せるような男の、お姉ちゃんなんだから」
「ああ……そうか」
「そう。私もフィアナも、あんたに付き合えるくらい馬鹿じゃないといけないの」
 がさがさと肌に触れる指を通して、姉の、しいては妹の温かな気持ちが、伝わってくる。
 息をするだけで、心臓に棘が刺さるかのように痛く苦しい。消えてしまいたいくらい悲しいけれど――けれど、少しずつ、ほんの少しずつ、癒されている気がした。
「今は、私たちの事を恨んでもいい。あんたを許して、罪から逃れさせた事。でも、いつかは私たちを許してね。私たちはあんたを守りたかった、それだけなんだから」
「ああ」
「血の繋がった、三人きりの家族なんだ……か……」
 ソフィアは最後まで語る事を諦め、歯を食いしばってまで、こみあがってくるものをこらえようとしていたが、とうとうこらえきれなくなった時、イリュウスの胸に顔を埋めた。
「姉貴には新しい家族があるじゃないか」
「それとこれとは違うでしょ、馬鹿っ!」
「判っているよ」
 判っている。ソフィアが告げようとした事すべては、きちんとイリュウスに伝わっている。だがそれらはまだ頭の中に留まるまでで、心の奥底まで浸透してきていなかった。
 だが、いつか、心まで伝わってくれば、変われる気がする。少しだけ、立直れる気がする。
「ありがとう」
 簡素な言葉で、イリュウスは感謝した。
 こんなにも矮小な自分の元に、未だ残ってくれている、沢山のものに。
 それらもまた大切なものなのだと気付く心が、まだ残されている事に。


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