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八章

10

 世界の全てが闇に包まれているように感じた。
 目に映るものを受け入れる事はできるけれど、心に直結しないから、すぐに記憶がおぼろげになる。異変に気付いたソフィアやランセルが大騒ぎして、フィアナが半狂乱になっていたような気がするが、それがどれくらい前の事か、よく覚えていない。
 イリュウスはぼんやりと、自身の手を見下ろした。
 赤く染まっていた手は、確か姉が洗ってくれた。すっかり綺麗になっているが、不思議と、血液の鉄の匂いが鼻につくような気がした。
 俺は、人を殺めた、罪人だ。
 はやく官憲が駆けつけてくればいい。そして、親殺しと言う罪を犯した男を捕らえて、裁いてくれればいい。死刑だと言うなら喜んで死のう。牢獄に入れと言うなら、そこでアーシェリナを想いながら生きよう。
 だから早く、ここから連れ出してほしい。ここは嫌だ。ひとりきりだから嫌だ。アーシェリナのそばに行かせてほしい。彼女を、彼女だけを、想える場所へ。
 虚ろな目で扉を見つめ続けていたイリュウスは、やがて扉が静かに開きはじめた事に気が付くと、少しだけ顔を上げた。
 ようやく来てくれたのか。
 きつい戒めが解かれたかのように、安堵のため息が漏れる。
「久しぶり、イリュウス」
 しかし、入ってきた人物は、官憲などではなかった。
 短い銀髪。奥深い緑の瞳。繊細な面差しながら、力強い存在感を示す――イリュウスにとってたったひとりの、親友。
「シリウス……?」
「どうしてお前がここに」と続ける気力もなく、イリュウスが名を呼ぶだけにとどめると、シリウスは肩を竦めた。
「ソフィアさんから、君がラバンに帰ってきたって手紙がようやく届いてさ。『なんでソフィアさんから報告受けるんだよ君が直接手紙を送ってくるべきだろう』なんて文句のひとつでも言ってやろうと思ってね。さっそく母に転移の魔法でこっちの学院まで送ってもらったんだけど、君はしばらく来てないと言うし。珍しく具合でも悪くしたのかと思って、来てみたんだけど」
 シリウスの肩の向こうに、困惑したフィアナの横顔が見える。
 兄の友人に、死人のようになった兄を力付けてもらおうとでも思ったのだろうか。だとすれば浅はかで、無意味な事をする妹だとイリュウスは思った。
「もう、学院には、行かないだろう」
「どうして?」
「行けないんだ――もう」
「お兄ちゃん」
 シリウスを押しのけて前に出てきたフィアナの眼差しや声には、意外にも凛々しさが含まれていた。
「学院のほうにはね、体調不良で休んでいるって連絡しておいたから。だから、もう少ししたら、ちゃんと学院に挨拶に行ってね」
 淡々とした語り口でフィアナが告げる。
 イリュウスは反射的に鼻で笑っていた。フィアナがこんなにも愚かだとは思っていなかったからだ。人を殺して、もうすぐ捕まるだろう人間が、学院で研究などしていられるわけがないのに。
「馬鹿な事を……」
「あのね、お兄ちゃん。お母さんは、行方不明なの」
 イリュウスは目を見開く。母の血で手を汚して以降はじめてと言えるほどに素早く動き、フィアナを睨み上げた。けれど唇が震えて、言葉を紡ぎ出すためにしばらく時間が必要だった。
「何を、言ってる」
「本当の事を、だよ。だってお母さん見つからないんだもん。どこか、ずっと遠くに行ってしまったんだろうね。だから、お兄ちゃんの言う通り、本当にお母さんが死んでいて、遺体がどこかで見つかったとしても、ただの変死としか思われない――」
 フィアナの言葉が途切れたのは、イリュウスがフィアナに掴みかかったせいだった。
「イリュウス!」
 シリウスが言葉を荒げて制止しようとするが、イリュウスはフィアナを放さなかった。
「お前、何を言ってるんだ。何、ふざけた事言ってるんだ」
「ふざけてない。本当の事しか言ってない。だって、お兄ちゃん言ってたじゃない。お母さんは転移の術で消えたんだって。きっと、私たちには思いもつかない、思い出深い遠い場所に、咄嗟に飛んだんだよ。だから、本当に、見つからなくて……だから、だから、ずっとラバンに居たお兄ちゃんに、お母さんは殺せないんだよ。お兄ちゃんは高度な魔法を使えないし、お母さんは魔術師ですらない事になってるんだから」
 何なんだ、それは。
 それでは意味がない。何も残らないではないか。
 あまりの衝撃に脳が揺さぶられ、何も考えられなくなかった。ただ、フィアナに手を上げようとした。シリウスが力尽くで止めてくれなければ、フィアナだと判別がつかなくなるほど殴っていたかもしれない。
「お兄ちゃんは、四日前に学院に顔を出していたし、今日、こうしてシリウスさんに会った。仮にラバンを離れていたとしても、四日間だけ。片道二日以上離れたところでお母さんが見つかれば、お兄ちゃんは何もしていない事になる」
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはどっち!?」
 フィアナは大粒の涙を次々とこぼしながら、イリュウスに怒鳴りつける。
「何が母さんは任せろよ! 笑わせないでよ! お兄ちゃんは結局、私たちからお母さんを奪ったんじゃない。そして今度は、お兄ちゃんも奪おうとしてる。文句を言いたいのはこっちのほうなんだから!」
 フィアナの両の拳が、イリュウスの胸を叩く。何度も、何度も、繰り返し。けれど痛かったのは、叩かれた場所ではない。もっと内側の、心のほうだった。
 やがて嗚咽を漏らしはじめたフィアナは、イリュウスの胸に顔を埋める。
「お母さんは、お兄ちゃんを犯罪者にしたくなかったんだよ。立派な賢者様として、生きていってもらいたかったんだよ。だから、姿を消したんだと思う」
「そんな、馬鹿な」
「お母さんはおかしかったけど、別人みたいだったけど……最後の最後だけは、ちゃんと、お母さんだったんだから」
 そんな事が、あっていいのか。
 罪を隠蔽したとしても、罪はなくならない。イリュウスは確かに、人の命を奪ったのだ。ただの命ではなく、実の親の命を。
 それなのに、なぜ捕らえられない。罪を受け入れ、償おうとしているのに。どうして、認めてくれない。おかしいではないか。
「嫌だ」
「お兄ちゃんの意志なんて、関係ない」
「どうしてこんな事になるんだ。俺のためだと言うのなら、放っておいてほしかった」
「誰がお兄ちゃんのためだなんて言ったの。私たちのために決まってるじゃない。こんな醜聞世間にもれたら、お店つぶれちゃう。この街ではもう、生きていけなくなっちゃう」
 フィアナの肩の震えが、いっそう強くなる。小さく丸まった肩が、寂しさと悲しみを伝えてくる。
 心にもない嘘を言いやがって、と、イリュウスは思った。どうせ嘘を吐くならば、もっと上手く吐けばいいものを。
「心にもない酷い事を言って、イリュウスのためではないと嘘を言うのはやめた方がいいよ、フィアナ。逆効果だから」
 泣くことに必死で、何も言えなくなったフィアナに代わって語りはじめたのは、シリウスだった。
「はっきり言ってやればいい。イリュウスのために、イリュウスのせいで、苦労したんだってね。そうして、イリュウスをどんどん追いつめてやればいい。自分の愚かさと人の優しさをとことん思い知ったら、存在自体が恥かしくなるだろう。そこまでやるのが理想的だ」
 シリウスは笑った。冷たい、けれどなぜか労わりを感じる笑みだった。
「イリュウスは賢いけれど馬鹿だから、どん底まで落ちないと判らないのさ」
 シリウスの言はもっともなのだろう。イリュウスは納得して、目を細める。
 アーシェリナとの幸せが空しい事だと気付くのに、何ヶ月かかったのか。たとえばシリウスなら、すぐに気付いたのかもしれない。こんな事になる前に、やめる事ができたのかもしれない。
 イリュウスは涙で歪む視界にシリウスを捉え、次に胸の中のフィアナを見下ろす。
「助けて……くれ」
 無意識に、そう呟いていた。
 自ら死を選ぶ事はできない。アーシェリナを追いかける事になってしまうから。それだけは、アーシェリナのためにも自分のためにも、してはいけない。
 けれど、どうしていいのか、イリュウスには判らなかった。罪を償う事も許されず、ただ苦しみだけを抱えて、どうやって生きていけばいいのか。
 アーシェリナの居ない生き方なんて、知らない。そんなもの、もうとっくに忘れてしまった。
「この先も生きていく事が、そんなに苦しいんだ」
 シリウスはイリュウスの前に片膝を付き、視線の高さを合わせた。労わるような微笑みに引きずられ、イリュウスは頷く。
「じゃあ君は、また楽なほうに逃げようとしていたんだね」
「また……?」
「大好きな父親を思い出す事が辛いからって戦士になるのを諦めて、魔法を駆使する力が人より劣っているからって魔術師になる事を諦めた。どちらも、強い人間なら努力で克服できる事だと思うけど、君は立ち向かおうとしなかっただろう?」
 イリュウスは堪えきれなくなった涙を頬に伝わせ、再度頷く。
 ああ、そうだ。俺は、弱い。だから、すぐに何でも諦めてしまう。
「さて、じゃあ、俺は帰るよ。これ以上言う事はないから」
 何事もなかったかのように平然とした顔で立ち上がったシリウスは、颯爽と歩いて扉に向かう。
 部屋の外に出て振り返った彼は、扉を閉める前に、力強い微笑みを見せてくれた。
「やっぱりもうひとつ言わせてもらうよ、イリュウス。頼むから、失望させないでくれよ。君がどんなに情けなくて、根性のない男でも、俺は君の能力を買ってるんだ。友達だからって甘い点数を付けているわけじゃなくね」
 返事を待たず、シリウスは扉を閉めた。
 扉の向こうからかすかに届く、遠ざかっていく足音が、いつまでも耳にこだまする。彼が、まだ自分の事を友と呼んでくれた声と共に。
 失望させないでくれ、と言った共に、まだ失望しきっていなかったのかと、呆れた。本当は、心から感謝するべき事なのだろうと判っていたけれど。
「フィアナ、お前も、出て行ってくれるか」
「お兄ちゃ……」
「もう少しでいい。ひとりにさせてくれ」
 納得してくれたのか、色んな事を堪えたのか、フィアナは無言で頷くと、涙を拭い、部屋から出て行った。
 まだ、どうしていいか判らない。だから、ひとりで考える時間がほしかった――いや、正しくは、違うのだろう。考えたい事なんて、何もない。
 ただ、眠りたかった。愛しい人に想いを馳せながら。


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