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八章



 終わりにしなければ、と思ったのは、いつからだっただろう。
 もしかすると、はじめからだったのかもしれない。浮かれていて、もっと強い感情に覆い隠されて、気付いていなかっただけで。気付かないふりをしていただけで。
 それでも終わらせられなかったのは、幸せだったからだ。空しさが目に付くようになってからも、その奥には確かな喜びがあったから。
 でも、もう。
 限界だ。
「アーシェリナ……」
 イリュウスは胸元を押さえ、服の下にある感触を確かめると、目を綴じてゆっくりと呼吸を繰り返す。そうして心を落ち着けようとしてみたが、落ちつくわけもなく、ざわつく心を抱えながら、覚悟を決めるしかなかった。
 今日もイリュウスは、いつもと変わらぬ時間に、アーシェリナの部屋を訪れる。
 アーシェリナは、いつも扉に背中を向けていた。誰かが部屋に入ってきた時に振り向いて、それがイリュウスだと、嬉しそうに微笑んでセインの名を呼ぶ――けれど今日のアーシェリナは違っていて、イリュウスは部屋の中に踏み込む事ができなかった。
 表情が冷たかった。いつもの柔らかさも、温かさも、可憐さも、どこかに消えている。緊迫した雰囲気をかもしだしながら、大きな瞳で厳しくイリュウスを睨みつけてくるのだ。
「誰……?」
 この時、凍えかけた心臓が痛みを訴えたのは、何を衝撃としてなのだろう。
 セインと呼ばれなかった事だろうか。微笑んでもらえなかった事だろうか。
 イリュウスが誰であるか、認識してくれなかった事に、だろうか。
「私と、よく似ているのね」
 冷たい眼差しで、ぶしつけなほど真剣に、アーシェリナはイリュウスを観察する。
 似ている事の何が問題だと言うのだ。イリュウスはアーシェリナにとって血の繋がった子供であり、母と同性である姉や妹を差し置いて一番似ていると言われていたくらいなのだ、当然だろう。確かにこのところのふたりの関係は、親子とは思えないものだったけれど――
 どう答えて良いか判らず、イリュウスは無言で、アーシェリナが結論付けるのを待った。
「貴方が、エルロー兄様?」
 待ち続けた挙句、アーシェリナの口からもれた名は、イリュウスが聞いた事もないものだった。
「そうでしょう? よく似ていると、誰かが言っていたもの」
「アーシェリナ、俺は」
「貴方が何をしたのか、私は知らない」
 イリュウスが制止しようと投げかけた言葉は、アーシェリナに届かない。今のアーシェリナは一方的にイリュウスと誰かの面影を重ね、その人物に対してものを告げるだけで、イリュウスの言葉など耳に入らないのだ。
「セインは私に何も言おうとしないけれど、私は知ってるのよ。セインが貴方の名に、存在に、怯えていた事。貴方のせいで苦しんで、貴方を憎んで、それで……余計に傷付いてしまった事も」
 アーシェリナは腕に残る傷を、もう一方の手で押さえる。手にこもる力と、紫の双眸に込められた憎悪の強さに、イリュウスは肌が粟立つのを感じていた。
「貴方は私の一番大切な人を傷付けた。セインの曇りのない笑顔を、貴方が奪ったの」
 息が詰まる。胸の苦しさのあまり。
 愛される事も、憎まれる事も、同じだけ空しく、苦しい。アーシェリナは自分が居る方向を見ているだけで、本当に自分を見てはいないと、思い知らされるから。感情をぶつける相手は、セインだとか、エルローだとか言う、他の誰かなのだ。イリュウスとの名を持つ男など、眼中に入りもしないのだ。
 俺はこんなにも、貴女だけを見て、貴女だけを想っているのに。
 こんなにも――
「返して。貴方が私から奪ったものを、返して……!」
 何かがぷつりと切れる音がした。
 きっとそれは、イリュウスにだけ聞えたものなのだろう。
「ははっ……!」
 人間はどうしようもない時に笑うのだと、どこかで誰かが言っていた。それが本当なのだとすれば、今イリュウスは、どうしようもない状況にあるのだろう。
「貴女は本当に酷い人だ。『イリュウス』に見向きもしないで、『セイン』の身代わりとしてさんざん利用して……今度は、憎んでいる男と間違えるなんて」
 迷いは消えた。
 だからだろうか。両目から、温かなものが溢れてくるのは。言葉にできない本当の感情が、溢れてくるのは。
「いいんだ、もう。貴女が見ているものが『セイン』だろうと『エルロー』だろうと、どっちでも構いやしない。俺は、『イリュウス』を見てもくれない貴女と、決着をつけに来たんだから」
 イリュウスが何を言っているのか理解できないのだろう。戸惑いを色濃く浮かべる瞳で見上げてくるアーシェリナは、可愛らしく、心底愛しかった。
 この想いは嘘じゃない。だから、消える事はない。
 けれど本当は、消せるものなら、消してしまいたかった。甘い想いから生まれる苦い感情と共に。
「貴女に判ってくれと言っても無理なんだろう。だけど、これだけは言わせてくれ。俺ほど……『イリュウス』ほど、貴女を愛した男は、他に居ないんだ」
 イリュウスはゆっくりとアーシェリナのそばに歩み寄り、傍らに膝を着く。懐に隠したものを取り出しながら、アーシェリナを優しく抱き締める。
 愛しているよ。
 愛しているよ、アーシェリナ。
 だから終わりにしよう。解放しよう。俺も、貴女も。
「想いの証に、俺は貴女を手放して、俺が最も尊敬し、信頼し、憧れ、憎み……貴女が愛した男の元に、貴女を送る」
 そうして貴女は、幸せになるのだろう。
 辛いのは、俺ひとりだ。愛した人を失う苦しみと、汚れを抱えなければならないから。けれど、それらすべてを受け入れてみせよう。貴女への想いで。
「さよなら」
 小さく呟いたイリュウスは、手にした短剣を鞘から引き抜き、腕の中の少女の背に深々と埋め込んだ。
 アーシェリナから滲み出る、熱い、粘りつくような赤が、イリュウスの指に絡みつく。
「貴女を手放すから、だから――最後まで貴女のために生きる事だけ、許してほしい」
 耳元に、掠れてひきつった小さな悲鳴が聞こえる。苦痛ゆえにか、少女の手はか細さからは考えられないほど強く暴れ、イリュウスの胸を押した。
 ふたりの体が少しだけ離れると、血の気を失ったアーシェリナの顔が、少しだけ覗き見えた。
 微笑んでいた。
 何度も心を動かされた微笑みとは違う、懐かしさを覚える――かつての、母親としての。
「ごめん……ね……」
 アーシェリナは震えながら立ち上がる。
 半ば呆けていたイリュウスは、アーシェリナをただ見上げる事しかできなかった。
 どういう、意味だ?
 判らない。彼女が何を言おうとしているのか。なぜ謝ったのか。
「ごめんね……イリュ……ス……」
 途切れ途切れの声の中に、自分の名前を見つけたイリュウスは、目を見張る。
 呼んでくれた。
 俺の名前を、呼んでくれた。
「か……さ……ん?」
 かつてのように呼びかけてみても、アーシェリナはもう、応えてくれなかった。
 変わりに唇から漏れる声が紡ぐのは、呪文だ。イリュウスも良く知る、古代語の詠唱。
 けれど混乱しているせいか、その魔法にどんな効力があるのか、判別できたのは力が働いた後だった。
 アーシェリナは消えたのだ。イリュウスの手を汚す血液以外の何ひとつ残さず、この場から。
 イリュウスのそばから、消えたのだ。
「あ……ああああああああああああ……!」
 言葉にならない声で叫び、イリュウスは赤く染まった手を伸ばす。しかし手は空気にしか触れられず、代わりに自らの胸ぐらを掴んだイリュウスは、蹲った。
 もう声も出なかった。立ち上がる気力も湧いてこなかった。
 ただ惰性で流れ続ける涙が、床にこぼれ落ちていくだけ。


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