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八章



 アーシェリナと同じ時間に活動しようとしていたせいで、自然と規則正しい生活が身についてしまったから、いつもより早い時間に起きて家を出るのはなかなか辛い。抑えきれない大あくびを、手で隠してみたものの、隠しきれるものではなかった。
 隣から小さな笑い声が聞こえる。深くフードをかぶっているせいで、イリュウスの位置からは鼻から下しか見えないが、形良い唇は、軽く弧を描いていた。抑えているつもりのようだが、はっきり笑っている。
 アーシェリナの笑顔の理由は、きっと、イリュウスのあくびがおかしかったせいだけではないのだろう。早朝の冷たい空気の新鮮さが、久しぶりに家を出た彼女にとって、目新しいものなのだ――いや、顔をあちこちに向けて、未だ寝静まっている町並みを興味深そうに見て回る姿は、久しぶりどころか、はじめて外に出た子供のようだ。
 もしかすると、本当にそうなのだろうか? と、イリュウスは考える。アーシェリナはこの年代まで、一度も外に出た事がなかったのではなかろうか? 以前一度だけ口にした、エイナス・ガーフェルートと言う人物に禁じられて。
 息が詰まるほど狭い世界の中で、アーシェリナはセインに出会ったのだろうか? セインだけを心の支えにして、生きてきたのだろうか?
 アーシェリナにとってセインがそんなにも特別な相手だと考えると、異常とも言える執着心を多少は理解できる気がした。しかし、認めたくない。認めてしまえば、納得してしまう。アーシェリナが、セインしか見ない理由、けして自分に振り向こうとしない現実を。勝てるわけがないではないか。幼い頃から支え続け、やがて西の勇者と称えられる、世界に認められるほどの戦士となった男になど。
「あ」
 小さな声を上げたアーシェリナは、イリュウスの手を引いて、道の端に寄った。小走りのつもりのようだが、イリュウスにとっては歩いているのと大差ないほどゆっくりだった。
「見て」
 石畳で整備された道の傍らの、むき出しになった土には、まばらに野草が生えている。中には小さな花も咲いていて、アーシェリナは目を細めた。
 取るに足らない雑草の一種であるその花が、母の愛した花である事を、イリュウスは知っていた。なぜ愛しているのか、いつから愛しているかは知らなかったけれど――きっとそれすらも、セインが関わっているのだろう。セインが好きだった花だとか、セインとの思い出がある花だとか。
 イリュウスは今は亡き父の存在が、おそろしくてたまらなかった。アーシェリナをつくる、血統を除く全てにおいて、影響を及ぼしているとしか思えなくて。
 こみあげてくる震えをごまかす意図もあって、イリュウスはかがみこんだ。そうして間近に迫った小さな花を、乱暴に手折りたい衝動に耐え、優しく摘む。音もなくこぼれるため息に、小さな花びらが僅かに揺れ、理由の判らぬ涙が出そうになった。
 見上げると、アーシェリナは嬉しそうに照れくさそうに微笑んでいる。立ち上がって漆黒の髪に花を飾ってやると、喜びはなお強くなる。
 笑みと同じだけ強くなった愛しさを、口づけに変えて伝えてみたけれど、触れる唇の温かさ柔らかさとは対照的に、イリュウスの心は冷たく閉ざされていった。
 いつからだろう、空しいと、思いはじめたのは。
 少しずつ贅沢になってしまったのだろうか。はじめは、アーシェリナがそこに居てくれるだけで嬉しかった。微笑みかけてくれるだけで嬉しかった。話しかけてくれるだけで、触れられるだけで――いつから嫌になったのだろう。セインと呼ばれる事が。自分を見てくれない事が。他の男への愛を語りながら微笑むアーシェリナを見る事が。
 そばに居たいと想う心だけは今でも変わらないけれど、そんな純粋な想いすらも、暗い何かに囚われて、醜いものに変わってしまいそうだった。
 だって、アーシェリナが愛しているのは、イリュウスではない。アーシェリナが微笑みかけるのも、アーシェリナを幸せにしているのも、イリュウスではない、セインの幻影なのだ。
 だから、愛を告げられるたび、微笑まれるたび、温もりを知るたび、心が軋む。身代わりである事など、はじめから理解していたはずなのに――どうして今更、傷付いているのだろう。
「アーシェリナ」
 言葉にしたのはただ一度。けれど、心の中では何度も繰返す。
「俺を見てくれ」
 一度でいい。セインではなく、俺を見て。
 俺を愛して。

 どれほど願っても、望みが叶う事はなかったけれど。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.