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八章



「イリュウス」
 姉が、誰かを呼んでいる。けれども誰も返事をしない。
 すると姉は、不満を露にした乱暴な足音で近付いてくる。
「イリュウス!」
 耳元で怒鳴られ、イリュウスは顔をしかめた。何するんだと怒鳴りかけ、声を失う。
 姉は今、自分の――イリュウスの事を呼んでいた。それを自分は無視していたのだ。姉が苛立つのも当然と言えば当然で、イリュウスは小さく「悪い」と謝罪を述べた。
「そんな、謝ってくれなくてもいいけど……あんた、大丈夫なの?」
 曖昧に問われ、返す言葉が見つからなかったイリュウスは、ただ姉を見つめるだけだった。
 他の名で呼ばれる事に慣れすぎて、危うく自分の名すら忘れてしまいそうな状況は、大丈夫とは言えないのかもしれない。だがその事実を、イリュウスは家族の誰にも話していなかった。
 イリュウスとて、母親が息子を夫に見立てているなどと、誰が聞いても不健全な関係だと判っている。それでも、このままでいたいのだ。まっとうに生きている姉たちは、知れば反対し、イリュウスたちを引き離そうとするだろうから、絶対に知られてはいけなかった。
「母さんの事で、気が滅入っている?」
「いや別に。大丈夫だよ。心配性だな、姉貴は」
 疑いの目を向ける姉を安心させようと、イリュウスは微笑みかける。
「でもあんた、最近少し変だよ? 考え込んでいる時多いし、呼んでも返事するの遅いし」
「そりゃ考え事がたくさんあるからだ。『できればしばらくはのんびりと在宅の仕事がしたい』って俺が言ったら、誰も読めなくて困ってた古文書押し付けてきたんだぞ、学院の奴ら」
「そんなもの、あんた読めるの」
「時間かければ多分、な。魔術師になってから仲間を集うまでの空き時間に、導師と一緒に研究していた言語なんだよ。文字自体は古代語と同じなんだが、文法がまったく違っていて、動詞の変化形を掴んだところで仲間が揃ったから旅に出る事に――姉貴、自分から聞いておいて、興味ない顔しないでくれ」
「別に文法がどうのとか聞いてないでしょ、私は」
 確かにそうだったかもしれない。イリュウスは肩を竦めて、話をなかった事にした。イリュウスらしい事をつらつらと述べたせいか、姉も少し安心したようだし。
「他にも簡単な翻訳の仕事とか頼まれていて、頭の中で複数の言語が飛び交っているんだ。だから、話かけられても頭がすぐに西方語に切り替わらないんだ。無視しているわけじゃないから、あんまり気を悪くしないでくれ」
「なるほどねぇ」
 言語が変わろうと個人名が変化する事は少ないので、無理な言い訳かと思ったが、ソフィアは頷いてくれた。眉間に皺が全部消えたわけではないので、完全に納得しているかどうかは怪しいが。
「私が言うのも何だけど、たまには気分転換に、外の空気吸いに出てみたら? 余裕がありそうなら、母さんも一緒に」
 長椅子に座りなおし、深く腰かけたイリュウスは、目を丸くして、仁王立ちしたままのソフィアを見上げた。
「母さんを外に出していいのか?」
「人目につかないように、だけど。面倒だと思うから、無理しなくていいわよ。何なら、私が今度、早朝にでも」
「いや。聞いてみるよ。外に行きたいって言うなら、連れてってみる」
 イリュウスはさっそく立ち上がった。まだ何か言いたげな姉から逃げるために。
 良く言えば気使いができて優しい姉は、悪く言えばおせっかいな部分がある。あまり一緒にいると、気付いてほしくない事に気付かれ、余計な事を問われてしまいそうな気がして怖かった。余計な事を、口走ってしまいそうで。

 アーシェリナの部屋に向かいながら、イリュウスは考える。彼女は外に出たがるだろうか、と。
 イリュウスが閉じ込めようとしているわけではないのに、アーシェリナは家の外どころか、部屋からもほとんど出ようとしない。少女時代の彼女は、部屋の中に居るのが好きだったのか、部屋の中に居るのがあたりまえだったのか――何やらアーシェリナには、複雑な事情がありそうだった。
 しかしアーシェリナは、事情を「セイン」に説明しようとしない。「セイン」は説明されなくとも知っている、と言う事なのだろう。
 だが、「イリュウス」は判らない。その上、彼女の言動に、推理のとっかかりになるようなものが見つからない。苛立つ自分に気付いたイリュウスは、深呼吸する事で気持ちを落ちつけてから、アーシェリナの部屋に入った。
 些細な苛立ちなど、すぐに霧散した。アーシェリナは「セイン」に気付くと、とろけるような笑みを見せてくれるからだ。それだけでイリュウスの心は、いつも幸福に満たされる。自分でも驚くほどに。
「何を読んでいるの?」
 イリュウスがいつものようにアーシェリナの隣に腰を下ろすと、アーシェリナはイリュウスが小脇に抱える本に目を止め、指さした。
 しまった、と思ったが、もう遅い。イリュウスは普段、個人の持ち物、とくに「セイン」が持たなそうなものを、この部屋に持ち込む事をしていなかった。できる限りアーシェリナに違和感を与えないためだ。イリュウスとセインを混同できるほどの彼女が、多少の事で現実に気付くとは思えないのだが、念のために。
「文字は、下位古代語よね。ルガ、ウェ、ロアウ……?」
 アーシェリナは上目遣いでイリュウスを見る。
「違う文字? 意味が通じないわ」
「どうだろう。それをこれから読み解いていくんだ」
「セインは難しい本を読めるのね」
 アーシェリナは膝を抱えて縮こまる。拗ねたような口調と、少しだけ尖らせた唇が、可愛らしかった。
「セインは本当は、こんなところに閉じこもっているのは、もったいないのよね」
 言ってアーシェリナは、イリュウスの服の裾を強く掴む。まるで、離れていく事を恐れているかのように。
「一緒に外に出ようか?」
 イリュウスは部屋に来た第一の目的を思いだし、問うた。
 するとアーシェリナは顔を上げ、輝いた目でイリュウスを見つめる。しかしその輝きはすぐに伏せられ、暗いものへと変化した。
「駄目よ。そんな事をしたら、エイナス・ガーフェルートは、ひどく怒るのではないかしら。私もだけど、貴方はもっと……どんな罰を受けるか」
 アーシェリナが聞き慣れない名を口にした事より、その名を紡ぐ声に潜む淀んだ感情に驚いて、イリュウスはアーシェリナを見つめる。柔らかい声なのに、ひどく冷たく感じた。
 それに、怒られると言った割には、怯える様子が見えない。単純に嫌っている、憎んでいる相手なのだろうか?
「見つからないように外に出て、見つからないように帰ってくれば大丈夫だよ」
「でも……」
「嫌か?」
 アーシェリナは戸惑いを見せてから、強く首を振った。
「嫌なんかじゃない。嬉しいの、すごく。でも、セインが傷付くのは嫌。私は……セインがそばに居てくれるところが一番いい。セインがここに居てくれるなら、一生ここでもかまわないの」
 服の裾を掴む手が、小さく震える。潤んだ大きな瞳は、今にも涙ぐみそうで、イリュウスの心を鷲掴みにした。か細い手で守ろうと思うほどに、大切に想ってくれているのだと感じた。いじらしい想いに、胸が震える。
 けれど同時に、彼女がその想いを向ける相手は自分でなくセインなのだと理解したイリュウスは、逃れられないほど強烈な感情に胸中を支配され、衝動的にアーシェリナの細い腰を引き寄せていた。
「セイ……」
 アーシェリナの声で紡がれるその名を聞きたくなくて、悔しくて、イリュウスは可憐な唇をやや乱暴に奪う。
 急な事に驚いたアーシェリナは、反射的に身を捩って逃れようとしたが、はじめだけだ。すぐに緊張をほぐし、体重を預けてくれた。
 ああ、そうだ。俺だけだ。今、こうして、アーシェリナのそばに居て、アーシェリナに触れられるのは。
 俺だけなのだ。


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