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八章



 母は家からはおろか、部屋からすらほとんど出なかったので、イリュウスは毎日母の部屋を訪れる事となった。
 不思議と、足取りは軽い。よく判らない症状に陥った母を目の当たりにしながら、ちっとも気分は落ち込まなかった。自分は薄情な息子なのかもしれないと思いながら、母の部屋の扉を開ける。
 イリュウスの気配に気付くと、アーシェリナはいつも、急いで振り向く。イリュウスをセインに見立てる事で、最上の幸福を抱く彼女は、柔らかく甘い微笑みをイリュウスに見せるのだ。
「おはよう、セイン」
 イリュウスは微笑み返す。声で答えるのは、扉を閉め、ふたりだけの空間を作ってからだ。
「おはよう、アーシェリナ」
 アーシェリナを前にしたイリュウスは、彼女を母とはけして呼ばなかった。息子として語りかけても、彼女の耳には届かないのだ。
 だが、名前で呼んだからと言って、アーシェリナの反応がおかしくないわけではない。彼女は、まず戸惑う。それから、困ったように、くすぐったそうに、けれどやはり幸せそうに、小さく笑みを浮かべる。
 どうしてそんな態度を取るのか、とは聞かない。聞いても彼女は教えてくれず、照れくさそうにしながら、「判るでしょう?」と返してくるだけだ。イリュウスは判らないから聞いているのだが、セインにとっては判って当然の事なのだろう。仕方なくイリュウスは、会話の断片から読み取るしかなかった。
 昨晩までの時点でイリュウスが予測できたのは、アーシェリナがこの年齢の頃、ふたりの関係が対等ではなかっただろう事だった。念のため昨晩姉に確認してみたところ、「はっきり聞いた事ないけど、多分そうだと思う。お母さんはお嬢様だったっぽい」と返ってきた。その隣に居た義兄が、「俺の口から言っていいか判らんが、確実にそうだ。俺の両親は、アーシェリナさんの兄に仕えていて、セインさんとは使用人仲間だったらしいから」と教えてくれた。ふたりからの情報の真偽は謎だが、とりあえずアーシェリナが主人でセインが従者だったのは、ほぼ間違いないだろう。
 そんな中で、アーシェリナはセインに惹かれた。
 だから、「アーシェリナ」と敬称を付けずに呼ばれる事が嬉しかった? 距離が近付いた気がして? さすがにその先は、想像するしかなさそうだ。
「隣」
「ん?」
「隣、座っていい?」
「どうぞ」
 即座に許可すると、アーシェリナは表情を明るくして、イリュウスの隣に腰かけた。
 腕が触れ合うかどうかも怪しい距離感。それでも、平時ではありえないほどの近さなのだろうか。アーシェリナは緊張気味な顔で俯きがちになっていた。長い睫が薄桃色に染まりつつある白い頬に落とした影が、小さく震えている。
「変な感じ」
「何が?」
「セインが、優しいから。あ、違うの。いつもすごく優しいけど……少し離れて見守ってくれる感じだったでしょう? だから……」
 イリュウスから手を重ねてみると、アーシェリナはずいぶんと驚き、言葉を飲み込んだ。きっとこの頃は、父のほうから母に触れる事などほとんどなかったのだろう。
 父は思っていたよりも凄い人なのではないだろうか、と、イリュウスは考える。こんなにも愛らしく、かつ明らかに自分に好意を持ってくれている少女を目の前にして、従者だからと言う理由だけで距離を置けるなどと、イリュウスには考えられなかった。
 温もりが混じりあう前に、イリュウスは手を滑らせる。腕まで伝うと、指先にいびつな跡が触れた。母の腕にいつまでも残る古傷だが、イリュウスが知るものよりも更にはっきりと残っているようで、白く艶のある肌の上にあるには、明らかに異様だった。
「気に、しないで、ね」
 アーシェリナは小さく呟いた。
「この傷も、貴方との大切な思い出のひとつだから」
 そしてゆっくりとイリュウスの腕に腕を絡め、寄り添ってくる。
 温もりと柔らかな頬の感触は、イリュウスの胸をかき乱し、たまらずイリュウスは、アーシェリナの小さな頭に手を回し、強く引き寄せる。甘い香りを胸に納めながら、柔らかな髪に埋めた唇を滑らせた瞬間、腕の中の少女の体が緊張するのを感じた。
「や、やっぱり……変」
 腕の力を緩めて少しだけ体を離し、アーシェリナを見下ろすと、桃色に染まっていた頬は更に色を強め、赤くなっていた。
 愛らしくて、清らかで、か弱くて、大切で――ああ、だからこそ父は、この人に触れられなかったのかもしれない。壊してしまいそうで、恐ろしくて。そうだと言うなら、少しだけ理解できる気がした。
「嘘みたい」
「酷い言い方だな」
「じゃあ、夢みたい」
 震える声で精一杯語ったアーシェリナは、今度は自ら、イリュウスの胸にもたれてきた。まるでイリュウスの心音を確かめるかのように、耳を寄せる。
「消えてしまわないでね」
「消えるわけがない」
「もう……どこにも行かないでね」
 寂しそうな声音に、イリュウスの胸は震えた。
 アーシェリナは本当は、正気なのではないだろうか。覚えているからこそ、離れる事を恐れ、そばにいてほしいと懇願するのではなかろうか。
「どこにも行かないさ」
 静かな声で、けれど力を込めて答えると、アーシェリナの手に少しだけ力がこもった。
 消えるものか。去るものか。望むなら、ずっとそばに居てやる――そばに居たいのは、自分のほうなのだ。あの、はじめて目にし、消え入りそうな微笑みを目にした日から、ずっと。この部屋に、腕の中に閉じ込めて、自分だけのものにしたいと思うほどに。
「好きよ、セイン」
 アーシェリナはイリュウスの胸の中で、他の男の名を呼びながら愛を告げる。判っていながらイリュウスは、自分に対して言われているように感じ、ただ嬉しかった。
「好きよ。ずっと。ずっと好き。ずっと、言いたかった。伝えたかった。何回でも、何十回でも、何百回でも、飽きるくらいに。嬉しい、こんなにも貴方のそばに居られて、貴方に言葉を伝えられて――」
 抑えきれない感情が、アーシェリナに回す腕に力を込めさせる。
 強く、強く抱きしめた。今度はアーシェリナも、ただ身を委ねてくれた。
「俺もだよ、アーシェリナ」
 こんな感情を、イリュウスは知らなかった。女性と共にある事で、情欲が満たされる事はあっても、心を満たされた事などただの一度もなかったから。
 きっと間違っているのだろう。今のイリュウスの胸を焼く強い感情も、腕の中の少女に触れたいと思う事も。それでも失いたくないのだと、イリュウスの心は叫ぶ。
 これが、恋なのだ。
 母を狂わせる感情に、自分もまた、狂っているのだ。


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