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八章



 夜が更け、子供たちが眠りについてから、イリュウスたちは店の隅に集まった。居間でも良かったのだろうが、少しでもアーシェリナの部屋から離れて話したいと言う気持ちが働いたのだ。
 こうして見ると、姉も、妹も、義兄も、表情が暗い。それはきっと、卓の中央に置いた燭台の灯りが弱いせいではないだろう。
 みな一様に不安なのだ。アーシェリナの身に何が起こっているのか、判らないせいで。
「今思えば、一年くらい前から、少しずつ母さんの変化がはじまった」
 不安のあまり身動きがとれず、沈黙に包まれかけた場の空気を破ったのは、ソフィアだった。我が家の長姉は相変わらず頼もしいと、イリュウスはこっそり感心する。
「最初はね、物忘れがあるくらいだったの。私たちの名前を忘れてしまう、とか。そのうち、私たちが誰なのか、一瞬判らなくなっていたりして……今思えば、その時に医者に診せておけば良かったんだろうけど、母さんが『歳のせいで物忘れが激しくなった』なんて、恥ずかしそうにごまかすから、つい放っておいてしまって」
「まあ、俺が家に居ても、多分そうしたと思うよ。それで?」
「決定的なのは、十日くらい前かな。朝、お母さんが部屋から出てこなくて。珍しく寝過ごしてるのかなと思って部屋に行ってみたら、ああなっていたの。ごめんね説明になってなくて。でも、それ以外説明のしようがなくて……」
 ソフィアは不安げに俯く。その細い肩にランセルが手を置くと、少しだけ緊張を和らげた。
「その前にひとつ確かめていいか? あの人は、本当に母さんで間違いないんだな」
「別人説は私たちも考えたんだけど、ある日突然母さんが居なくなって、母さんが居るべき場所にそっくりの他人が居るってのも、おかしいでしょ。それに、私が誰だと思っているのか判らないけど、ときどき話をしてくれて、それが小さい頃に母さんが話してくれた事と、まったく同じなのよね……あと、腕に残ってる古傷とか、ほくろの位置とかも、同じなのよね。いくらそっくりさんでも、そこまで同じなんてありえないでしょう」
「それと、あの人がアーシェリナさんでないとすれば、本物のアーシェリナさんはどこに行ったのかと言う新たな問題がでてくる」
「う……そうですね」
 ソフィアは頭を抱え、イリュウスは腕を組み、フィアナはうなだれる。再び場を沈黙が支配しようとした時、声を上げたのはランセルだった。
「俺は以前、アーシェリナさんが魔術師として名を馳せていたと聞いた事がある。だから、魔法ではないかと考えているんだが、そう言う見た目を変える魔法はあるのだろうか」
「そう来ましたか」
 イリュウスは強く頷いた。
 見た目を変えると言われて、思いつく術は三つある。ひとつは最も簡単で、イリュウスでも使える、変身と言うより周りの者に幻覚を見せる術だ。しかし、長時間継続して使えるものではないから、これは違うだろう。
 ひとつは身体機能そのものを変化させる呪いの術で、こちらは逆に難しすぎ、高名な魔術師であった母でも使えるかどうか怪しいものだ。母は転移の術まで使えたと言うが、それより更に高位の術なのだ。
 だとすると、残るはひとつ。
「ひとつ考えられる術があります。術者の意志が続く限り、術者が意図した外見に変化させる魔法が。そこそこ高位の術ですが、母の実力ならば問題なく使えるでしょう」
「つまり、お母さんが自分の意志で若返ったって事? なんで?」
「他人が母さんに術をかけた可能性もあるけどな」
「お母さんの若い頃の姿とか古傷やほくろの位置まで詳しく知っている、そこそこ力がある魔術師が、夜から朝にかけて我が家に侵入し、母さんに変身の魔法ひとつかけるだけで去っていったって事?」
「確かに、意味が判らないな」
 フィアナの素直な疑問はもっともで、イリュウスは肩を竦め、自らが口にした意見を早々に却下した。
「結論としては、母さんが自分の意志で若返った、になるわけだ。どうしてだ?」
「それ、私がさっき言ったんだけど……んー、でも、いつでも若く綺麗でありたいって願望は、多かれ少なかれ、みんな持っているものだよね? 特に女性は」
「美を追求する手段としては極端すぎて、母さんらしくない気がするが……」
 即座にイリュウスが反論すると、フィアナは口を噤んだ。ここで、沈黙が再び場を支配した。
 フィアナも、口を出さない姉夫婦も、イリュウスと同様に考えているのだろう。元々アーシェリナはとても四十代には見えない若さと美しさを保っていたし、その美貌を父を魅了する目的以外に必要だと思っていないような人だった事を、知っていたからだ。
 イリュウスは胸元を押さえる。なぜか、気分が悪かった。
「母さんは、帰りたかった、のかな」
 頬杖をつくソフィアが、静かに目を伏せる。目じりに、かすかに涙が浮かんでいるように見えた。
「どこに?」
「場所じゃなくて、時代って言うの? 父さんがそばに居てくれた頃」
 少しだけ目を開けたソフィアは、揺れる蝋燭の炎を見つめる。眼差しは遠く、イリュウスには判らない昔の事を思い出しているようだった。
「話した事あったかな。母さんと父さんは、私が生まれた後何年か、離れて暮らしていてね」
 両親はあまり昔の事を話したがらなかったし、イリュウスもあまり問うほうではなかったので、はじめて聞く話だった。だが、言われてみれば納得だ。父は西の勇者と呼ばれる優秀な戦士で、母も優秀な魔術師だが、しかし西の勇者と共にあった魔術師は、母ではなかったのだから。ちょうどその頃離れて暮らしていたのだとすれば、自然な話だ。
「でも今の母さんくらいの頃は、私はまだ生まれていないから、ずっとふたりでいた頃のはず」
「お母さん、そんなに、お父さんと……」
「うん」
 ソフィアは短い言葉で肯定してから続けた。
「今でもはっきり覚えてる。私は母さんと一緒に居たから、父さんに会えて、父さんも一緒に暮らせるようになったのが、子供心にすごく嬉しかった。母さんが見た事もないくらい幸せそうに笑っていたのも嬉しかった。でも同時にちょっと寂しかったのよね。母さんは父さんが居ないと駄目って言うか、父さんさえ居れば生きていける人なんだなあって、思い知らされた気がして」
 聞きたくない、と思った。
 どうしてそう思うのかが不思議で、イリュウスは軽く唇を噛む。気分の悪さが増し、息苦しいほどになってきて、胸を押さえていた手で自身の胸倉を掴んだ。
「父さんと幸せに暮らしていた頃に、帰りたかったのかなぁ」
 今度はイリュウスが目を伏せる番だった。
 ああ、だからだ。だから彼女は、俺の事をセインと呼んだのだ。セインだと思って微笑みかけ、セインだと思って飛び込んできたのだ。
 容姿の点では何ひとつ父から譲られなかったイリュウスは、どこを取っても父に似ていない。それでも彼女は、背格好が似たイリュウスを、セインだと思い込もうとしている。幸せだった頃に戻り、その幸せに浸るために。
 納得はした。しかし、不可解だった。
 現在の自分や生活を忘れた彼女は、もはや正気を失っていると言っていいだろう。十年も前に失った伴侶を、どうしてそれほどまでに強く想えるのだろう。理解できない。
 しかし、何よりも理解できないのは、イリュウス自身の感情だった。
 何だろう、この、胸を支配するわだかまりにも似たものは。瞼に思い浮かぶ父の姿に、苛立つのは。変わらず慕っているのに、今でも目標であるはずなのに、どうして。
「こんな事になるなら、あの時言ってあげればよかった。もう、いいんだよって」
 ソフィアは両手で顔を覆う。けれど抑えきれない涙の雫が、こぼれ落ちてくる。
 姉がまさか自分の前で泣くなんてと、イリュウスはうろたえる事しかできなかったが、さすが夫と言うべきか、ランセルはそっとソフィアの肩を抱き、寄り添い、慰めた。
「父さんのお墓の前で、死んだような目をして、泣く事すらできなかった母さんに、あとは任せてくれていいって言えばよかった。好きにしていいんだって……父さんのところに行きたければ、行けばいいって」
「姉貴、やめろ」
「そうだよ。お姉ちゃんはそれでいいかもしれないけど、私はやだよ。それに……」
 フィアナは俯き、膝の上に置いた手を、ぐっと握りしめる。父に似た柔らかな目付きを必死につり上げて、涙を堪えているようだった。
「そんな事言っても、お母さんはここに残ったよ。そうだよ、今判った。お母さんは、自分が、母親でなくても許される時まで、待ってたんだよ。だってお母さんがおかしくなりはじめたのは、私が十五歳になってからだもん。私が、最後の子供が、成人して……しかも私、言っちゃったもん。私はもう大人だし、お母さんは無理しなくていいからねって」
 そうして母としての責任から解放されたアーシェリナの中に残ったのは、亡き片割れへの行き場のない想いだけ。心も体も想い人が生きていた時代に戻し、輝く紫の瞳にセインを映す。それがまやかしだと気付く事なく、気付こうともせず、幸せに溺れる。
 ばかばかしいと、頭ではそう思う。だがイリュウスは、アーシェリナを非難する気には、どうしてもなれなかった。
 彼女は今、本当に幸せなのだ。家族で過ごす穏やかな幸せではなく、恋情に心震わす夢のような幸せの中に居るのだ。それが誰の目からみても愚かだとしても――幸せにしてやりたいと、イリュウスは思ってしまったのだった。
「心の問題なのだとすれば、しばらく様子を見たほうがいいのかな」
 しばらく考え込んでいたランセルが、唐突に呟いたので、イリュウスは頷いたす。
「そう……かもしれませんね。俺、ちょうどいい時に帰ってきたかもしれません」
「そうなの?」
「お前も姉貴たちも、店のほう回すので忙しいだろ。でも俺は暇だから、母さんを見ていられる」
 ランセルと涙を拭ったソフィアは、一度顔を見合わせてから、再びイリュウスに振り返る。
「でも、あんた、頭いいんでしょ?」
「なんだよいきなり」
「ときどきね、学院の人たちが君が帰ってきていないかを確認しにくるんだよ。帰ってきたらすぐに連絡くださいと言われている。あと、シリウスくんも、こっちに来るたびに『まだ帰ってきてないのか』ってぶつぶつ言っているよ」
 話の中に遠方で暮らす友の名を見つけ、イリュウスは苦笑した。四つほど年下のはずなのだがとてもそうは思えない遠慮のなさと、母親――父のかつての仲間のひとりである魔術師、リアラだ――似の繊細な外見に似合わない豪胆さとを思い出すと、自然と曖昧な表情になってしまう。
「他の人ならともかく、あのシリウスくんがあんたを買ってるって事は、よっぽど有望視されてたのね。とても信じられないけど」
「ひとこと多いんだよ、姉貴は」
 拗ねた子供のような口調で返すと、ソフィアは少しだけ笑った。だからイリュウスは安堵した。このたくましい姉には、やはり涙より笑顔が似合う。
「まだ正式に任命されているわけではないから、俺はまだ生徒の立場だ。学院で働く義務はないだろ」
「そうだけど、あんたがそれだけ頭いいって言うなら、もったいないじゃない。いい歳して無職で家にこもってるって言うのも、どうかと思うし」
「確かにそうだな。じゃ、とりあえず明日にでも挨拶だけしてくるよ。あとは、旅をしていた間の事を資料にまとめるとか言って、できるだけ家にいられる状況にする」
 ソフィアは眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
「うーん……でも、正直言うと、助かる」
「たまには俺を頼ってもいいんだぞ」
「そうね。今まで散々面倒見てあげたんだし」
「だからひとこと多いって」
 イリュウスがため息混じりに呟くと、ソフィアは声を上げて笑う。フィアナやランセルの表情も、和らいだような気がした。


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