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八章



 ラバンに帰ってきたのだから、家に帰る事が当たり前だと判っているのだが、どうにも帰り辛い。はっきり宣言して家を出たわけではないが、子供の頃から「父を越える」と豪語していたので、それを達成できていない現状を情けなく思われる気がしたのだ。
 いや、イリュウスを情けなく思うのは他でもない自分自信であり、家族の皆はなんの含みもなく優しく受け入れてくれるのだろう。そう、深く考えなくともすぐに気付けたイリュウスだが、それでも、帰路をたどる足は重かった。特に行くあてもないくせに、何となく遠回りして時間を稼ぎながら、今後の事を考える。
 店で働くと言う選択肢もあるが、できれは避けたい。能力的にも意欲的にも店を継ぐべきなのは姉夫婦で、自分はその手伝いしかできないからだ。何となく姉夫婦に依存している形になってしまいそうで、とっくに成人済みの人間としてはみじめな気がする。
 やはり、賢者の学院で研究員として働くのが無難な道だろうか。イリュウスは冒険者として旅立つ前、優秀すぎる成績ゆえに、導師たちにしつこく引き止められた日の事を思い出す。彼らが今もまだイリュウスを惜しい人材だと思ってくれていれば、受け入れてくれるかもしれない。優秀な若手を見つけたからもういらないと言われても、冒険で得た経験や知識はイリュウスをはるかに成長させているから、そこを売り込めば何とかなるかもしれない。古代王国時代の遺跡を調査した時の資料は、需要があるだろう。現在よりも優れた文明を誇る時代の知識は、どこの国でも喉から手が出るほど欲しているから――だから十年前、父は未知なる遺跡に踏み込んで命を落としたのだ。
 余計なところに到着した思考を振り切るため、イリュウスは空を仰ぐ。
 どうやら、時間を潰しすぎたようだ。店に続く坂道の向こうに広がる空は、今にも闇色が橙色を飲み込もうとしていた。

 店を通らずとも家の中に入る方法はあるのだが、まだ店が開いているこの時間、家族のほとんどあるいは全員が店に出ているはずである。どうせ気まずいならばせめて堂々と帰ろうと覚悟したイリュウスは、店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃ――」
 扉を開けた瞬間、元気のいい声がふたつかかる。給仕係である妹フィアナの声と、母のあとを継いで料理人になったソフィアの声。ちょうど客に料理を出していたため入口に背中を向けていたフィアナと違い、厨房に立っているため入口を視界に納められるソフィアは、途中で言葉を飲み込んだ。
 ちょうど夕食どきで、忙しいようだ。イリュウスは軽く手を上げて挨拶すると、店の中をすり抜ける。通りすがりにフィアナの肩に手を置くと、フィアナは目を丸くして、けれど満面の笑みで「お帰りなさい!」と言った。
 厨房の横を通り過ぎる時、ランセルが静かに微笑んで「おかえり」と言ってくれた。隣に立つソフィアは仕事が大好きな人だから、客がある程度ひけるまで、放置状態かもしれない。判っているから気にならないイリュウスは、家の中に戻ろうとしたが、ちょうど作り終わった料理をフィアナに預けたソフィアが、イリュウスの首根っこを掴んだ。
「何だよ」
「あんたが家の中に入る前に、ちょっと話が」
 ソフィアはそのままイリュウスを食材置き場まで引っ張ってから手を放した。
「っと、ごめん。言い忘れてた。おかえりなさい。無事に帰ってきてくれて良かった」
「心配かけたか」
「当たり前でしょ」
 ソフィアはわざとらしく肩を落とし、深くため息を吐いてから、柔らかく微笑む。
 その笑みは驚くほど優しくて、父の死がこのたくましい姉の心をも傷付けていた事と、父と同じ道を歩んだ自分がどれほど姉に心労をかけていたのかを、強く物語っていた。
「そう言えば、母さんはどうしたんだ? 店に出てなかったけど。俺が旅している間に、完全に引退したのか?」
 空気をごまかそうとして話を変えると、ソフィアの表情が凍りつく。イリュウスの視界から逃れるように俯き、しばし考え込んだのち、重そうに唇を開く。
「母さん、ちょっと、お店に出られる状況じゃないの」
「なんでだ? 何か、病気でも」
「うう……んと、病気ではない。健康そのもの。だけど……そうでもないのかな。病気なのかなあ」
「医者には?」
 ソフィアは左右に首を振った。
「とても、他人に見せられる状況じゃなくて」
「なんだよ、それ」
 今度はイリュウスがわざとらしくため息を吐く番だった。
「なんて言うか、説明できないの。私たちも、よく判らなくて。だからできるだけ誰かがそばに居るようにしてるんだけど、今ちょっと忙しくて手が放せないし……あんた、母さんについていてくれない? 多分、説明するより、ひと目見たほうが、母さんの状態、より判ると思うし」
「判った。どうせ帰ってきた事を伝えるつもりだったしな。この頭の中には、病気や怪我をはじめとした体調不良への対策もぎっちり詰まっているし、まかせとけって」
「うん……ごめんね。よろしくね」
 姉が珍しく殊勝に、心から申し訳なさそうに謝るので、イリュウスは微笑みながら姉の肩を叩く。
 この時イリュウスは、家族がみな、当たり前のように温かく受け入れてくれた事が嬉しくて、姉の白い横顔に浮かぶ陰りや色濃い疲労に気付いていなかった。
 
 イリュウスが旅に出るまでのアーシェリナは、実に健康な人物であった。足があまり良くないらしく、走る事を苦手としていたが、それくらいだ。病気で寝込む事などほとんどなく、毎日笑顔で働き、家族の世話をしていた。
 そんなアーシェリナが店に出られないとは、よほどの事のような気がする。人生五十年と言われるこの時代、齢四十四の母がどこかを壊しても不思議ではない――が、姉は母を病気ではないと言った。
 病気でなく、おそらく怪我等でもないのに、店に出られないとはどう言う事だろう。気分が酷く落ち込んでいるだけならばいいのだが……。
 イリュウスはかつて両親のものであった、今はアーシェリナひとりの部屋の前に立つと、扉を叩く。
「母さん」
 返事はなかった。おかしいなと首を傾げる。店や居間に居ないとなれば、他に母が居そうな場所はない。普段と違うところに居るならば、ソフィアが教えてくれただろう。
「入るよ」
 もしかすると返事ができないような容態になっているかもしれず、心配になったイリュウスは、やや慌てて扉を開けた。
 まず、寝台を見る。だが、寝台はもぬけのからだった。
 代わりに、床に座りこんでいる女性の後姿があった。背の中ほどまでの長さの髪は、イリュウスと同じく黒く波打っていて、母である事は一目瞭然だった。
「母さん、ただいま。帰ってきたよ」
 やはり、返事はない。
 不気味な違和感に、イリュウスは肌が粟立つのを感じた。確かにこれは、説明が難しいが、おかしい。姉の曖昧な言葉を深く理解し、納得しながら、イリュウスは部屋の中へと足を踏み入れた。
「そんなところに座ってないで、椅子とか寝台とかに座りなよ」
 声をかけながら、イリュウスは母の背に触れようとする。もしかすると母は、自力で立てないくらいに足を悪くしたのかもしれない。それならば抱えて運んでやらねばと考えたのだ。
「セイン……?」
 触れる直前、ふわりと、黒い髪が揺れた。アーシェリナは振り返ったのだった。
 雪のように白い肌で形どる歪みない輪郭の中で、紫色に輝くふたつの宝珠が、真っ直ぐにイリュウスを見上げる。
「なっ……」
 驚愕のあまり、イリュウスは呻く。瞬時に胸中に浮かんだ、纏めきれない疑問や感情を、声に出して整理したかったが、それ以上言葉は出てこなかった。
 波打つ黒髪も、愁いのある紫の瞳も、白い頬に影を落とす長い睫も、ほどよく高く形よい鼻も、妖艶さと可憐さを併せ持つ唇も、確かに母のもの。
 だが、この人は母ではない。イリュウスは本能的にそう思った。母のわけがない。若すぎるのだ。十代半ば、だいたいフィアナと同い年くらいだろうか。年月によって刻まれたはずの小じわなどが、まったく存在していなかった。
 しかし、母でないとすれば、彼女は誰で、なぜこんなにも母に似ていて、母の部屋に居るのだ――相次いでイリュウスの中に湧きあがった疑問は、しかし少女が儚げに微笑んだ瞬間、全てが吹き飛んでしまった。
「セイン」
 少女は立ち上がり、イリュウスに駆け寄ってくる。柔らかな髪が指に絡み、ほのかに甘い香りが鼻に、数枚の布を隔てた温もりが胸に届く。するとイリュウスの鼓動は、大きく早く鳴った。
 生まれてから今日までの間、数多の女性に微笑みかけられた事がある。触れあった事だって、いくらでも。
 けれどイリュウスは、今日までこんな想いを知らなかった。
 はじめて、知ったのだ。


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