八章
3
父の死を告げられてから数日間の記憶は、ひどく曖昧だ。
だが断片的に覚えているいくつかの事は、強く印象に残っている。表情を完全に失った、母の横顔の白さ。父の死を告げる少年を、「嘘吐き」と罵りながら、力いっぱい殴った事。そんな自分を止めるため、姉が背中から抱き締めてくれた事。うなだれる少年の顔を見た時の、衝撃を受けた義兄の表情。父がもう二度と帰ってこないと説明された妹の、耳障りな鳴き声。
「嘘だよ。父さんはどっかで休んでるだけだよ。少ししたら、帰ってくるよ」
そうしてイリュウスはずっと、少年の証言を否定していた。だから、素直に信じて受け入れた義兄や姉にも当り散らした。今思えばこの時の姉夫婦は実に立派だったと思う。放っておけば父を追って遺跡に突入しかねなかった母を家にとどめ、やつあたりする弟やただ泣くだけの妹を慰め、ローゼンタール家を支えてくれたのだから。
誤報だったと言う連絡を、どれほど待ち続けた時だろう。けれど、望んでいた報告はこなかった。仮にこの時、父たちが遺跡の中で生存していたとしても、「西の勇者ですら帰ってこられなかった遺跡」の中に入って救助に行こう考える者は誰ひとりいなかったのだ。遺跡の入口まで行った部隊が、数日経っても誰も出てこない事を確認し、生存者は皆無と判断されて終わった。
抜け殻のようになった母は、葬儀の時すら涙を流せなかった。普通に感情を出せるようになるまでに、何日かかっただろう。父の訃報に駆けつけてくれたアークがある晩、アーシェリナがひとり、中身のない父の墓の前で泣き崩れていたと教えてくれた時、姉夫婦は安堵のあまり微笑みあっていたくらいだ。
最後まで引きずったのは自分だったのかも知れないと、イリュウスは考える。
母や姉夫婦が店を開くようになっても、ひとり膝を抱えてふさぎこんでいた。いつも剣の修行――と称した戦士ごっこだ――を一緒にしていた友人たちが、イリュウスを慰めようと誘いに来てくれた時でさえ、泣いて叫び散らして追い返してしまったのだ。
「やだよ。父さんが居ないのに、そんな事したくないよ! 俺はもう、戦士になんかならない!」
イリュウスを気遣ってくれた者たちに対して吐くには、あまりにも心無い言葉だった。深く傷付いていたから、子供だからと、許されていいものではなかったのだろう。
この後イリュウスは立ち直るため、賢者の学院に入ってひたすら魔術師を目指して勉強をする道を選んだので、彼らとはそれきり縁がなくなってしまった。結局一度も謝罪できなかった事を思い出すたびに、イリュウスの胸は小さく疼く。
「ねえ、お兄さん、ちょっと聞いてよ。ひどい話なのよ」
しなだれかかってくる女性の、実に魅力的な肉付きの太腿や胸元がちらりと覗き見えるのは、やはりわざとなのだろう。自分の体が男に対して強力な武器である事を自覚して利用している女性に、イリュウスは心から感心していた。
数日同じ馬車に乗っているだけの彼女が、そうして寄ってくると言う事は、遊び相手として誘われているのだろうか。彼女は旅芸人の一座に所属する色気を売りにした踊り子で、いかにも刹那的な恋愛遊びを楽しみそうな女性だった。
選ばれた事は男として光栄なのだと思うイリュウスだったが、誘いに乗ってやれる気分ではない。どうせ、選ばれた理由は、母によく似た美貌なのだ――イリュウスは自分の顔が嫌いではなく、むしろ好きだったし、損する事より得する事の方が多かったためにありがたく思っているが、とにかく今は、顔で自分を選ぶ人物にあまり近付きたくなかった。
「前の街であたしの事を気に入ってくれたお客さんがね、指輪をくれたんだけど、それがすっごくつまらないの」
踊り子は指輪を取り出して、イリュウスの目の高さまで掲げる。その動作の中でさりげなく、イリュウスとの距離を更に詰めてきた。
つまらないと言い捨てられた指輪は、確かに装飾品としての魅力は低い。太めの、鈍い銀色で、宝石のたぐいはひとつもはまっていなかった。
「何考えてんのかしら。あたしにはこれくらいがお似合いだとでも言いたかったのかしらね。失礼しちゃう」
多分、何か褒め言葉を言って欲しかったのだと思う。貴女にはこんなものよりも似合うものがありますよ、と。たとえば大輪の薔薇だとか、大粒の紅玉だとか。判っていながらイリュウスは、面倒くさいあまり、指輪をじっと眺めながら、まったく違う事を口にした。
「これ、凄い指輪ですよ」
すると踊り子は、目を丸くした。
「この汚い指輪が?」
「ええ。よく見てください。指輪の内側に、古代王国時代の文字が彫り込まれているんです。配置や文字になかなか複雑な意味合いが込められていて――まあ、いわゆる、魔法の品です。身に付けた人を守ってくれますよ」
「そうなの?」
「見た目は地味ですが、かなりの値打ちものです。これをくれた人は、よほど貴女を大切に思っていたのでしょうね。ですから貴女も、どうぞ大切にしてあげてください。指輪も、その人も」
「ふ、ふうん」
踊り子はまんざらでもない様子で指輪を見つめ、少しイリュウスから離れる。一度中指にはめてみたが、やはり装飾品としてはあまり良いものではないため気に入らなかったのか、考え込んだ末に外して、色んな角度から指輪を眺めはじめた。
踊り子の興味を指輪に移す事に成功したイリュウスは、馬車の中を移動し、御者台に近付く。
「お、ちょうどいいところに。もうすぐラバンだよ。お城のてっぺんが見えはじめた」
御者を勤めている、旅芸人の一座の中で一番歳若い青年が、イリュウスの気配に気付くと、そう教えてくれた。
「悪いな。ここまで乗せてもらって」
「別にいいよ。俺たちはどうせラバンに行くつもりだったし。ただで乗せたわけじゃないしな」
気のいい青年のようだ。豪快な笑いかたに嫌味がなく、ついついつられてイリュウスも微笑んだ。
「ラバンには、仕事でなのかい?」
眩しさに目を細めた青年は、街道の先に見える尖塔を眺めながら、イリュウスに話しかけてきた。
「いいや。違うけど。なんでそう思ったんだ?」
「あれ? あんた冒険者じゃなかったのか? 杖持ってるし、魔術師なんだと思ってた」
「残念、それもはずれだ」
「完全にはずれではないけどな」と相手に聞こえないように呟いたイリュウスは、馬車の隅に置かせてもらっている、自らの身長よりも長い杖を横目で見ながら、静かに苦笑した。
十一歳の冬の終わり、本格的に魔術師を志したイリュウスは、賢者の学院に所属する講師たちが一様に驚くほどの速度で知識を吸収し、念願叶って魔法が使えるようになる。見習いを卒業すると、冒険者の店で仲間を集い、パーティを組んだ。そう、イリュウスは一時的には、青年の言う通り「冒険者」で「魔術師」だった。
しかしイリュウスは、早々に挫折する。魔術師として高度な魔力を誇ったものの、多くの魔法を使いこなす力は持っていなかったのだ。ちょっとした攻撃魔法や援護魔法を使うだけで限界が来てしまい、倒れてしまう事もままあり、それではいくら魔法が強力でも、あまり役に立たなかった。
魔法で役に立たないならばせめてと、勉強に力を入れてみたものの、こちらも冒険の最中では大して役に立てなかった。薬草や魔法の品に対する知識、数多くの言語を使いこなす点で、完全な役立たずではなかったと思うのだが、命がけで戦っている仲間たちから、「知識をひけらかすだけで仲間を盾にする男」と思われても仕方がない。なまじ顔がいいがために女性の人気だけはちゃっかり集めていた点も、不満を買ったのだろう――つまりイリュウスは、冒険者としても挫折したのである。仲間たちに捨てられる事によって。
別れ際は強がってみたものの、ようは「お前はいらない人間だ」と言われてしまったわけで、気分はかなり落ち込んでいた。人生で二番目くらいだろうか。一番はもちろん、父が死んだ直後だ。
「じゃあ、どうしてラバンなんだい? わざわざ行くような街じゃないだろ」
「言ってくれるなぁ。人の故郷に」
イリュウスが微笑むと、青年は再び豪快に笑った。イリュウスがあまり気を悪くしてないと判り、安心したのかもしれない。
「ああ、里帰りか。そりゃ悪かったな」
「まぁしょうがない。色々な街を回ってみて、本当にラバンって大した街じゃなかったんだなと、俺も思ったから」
「オレが言うのもなんだが、自分の地元をそんな風に言うなよ。なんか、あんだろ、地元民だけが知っているような、些細なもんでもさ。上手い食いもんとか、名物な……有名人とかさ」
「さあなあ」
本当に思いつかなかったので、イリュウスは肩を竦める。
もしかすると、「かつては街中の男たちを魅了した美女たちが経営する食堂」とやらは地元の名物になりえるかもしれないが、実家について詳しく語るのは、面倒くさかった。
「えー、ラバンって、なんか有名な戦士が住んでなかった? 西の勇者だっけ?」
急に口を挟んできたのは、さっきの踊り子だ。かなりの値打ちものとは言え、飾り気がまったくない指輪を眺める事に、もう飽きてしまったようだ。
「何言ってんだよ。西の勇者はもう死んだだろ」
青年は、軽い口調で真実を告げた。それがイリュウスの胸にどれほど重く響くか、気付く事もなく。
「そうなの? よく名前聞くけど」
「そんだけすごい戦士だったんだよ。会った事はないけど、オレも憧れたなあ。な、あんたもそうだろ? 西部生まれでオレたちくらいの年の男は大抵、ガキの頃、一度は西の勇者に憧れるよな?」
「あ、ああ……」
イリュウスはできうる限り自然に微笑むよう勤めながら頷いた。
嘘ではない。イリュウスも小さい頃、確かに西の勇者に憧れた。憧れなんて生易しいものではなかったし、子供の頃だけの話でもないけれど。
「懐かしいなあ、西の勇者。死んじゃってから、もう何年経ったっけ」
「十年」
イリュウスは短く言い切った。
「十年、前だよ」
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