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八章



「たくさんの人が動く時は、色々準備がいるんだ」と、父が言っていた通り、準備には時間がかかったらしく、結局調査隊が出発したのは、冬のはじまりだった。
「お守りよ。ちゃんと返してね」
 そう言いながら母が父の首にかけたのは、細い鎖だ。鎖には、銀色の土台に複雑な文様が彫られ、中心に紫色の石がはまった指輪が通されている。母が冒険者時代、魔術師として名を馳せていた頃、常に身につけていた指輪で、「氷の魔女の加護は心強いな」と、家族にしか聞こえないように言った父は、柔らかく笑った。
 ひんやりとした空気の中、そうして調査隊の人々の旅立ちを見送ったのは、七日前の事だ。
 遺跡は片道二日とかからない場所にあるから、すでに探索ははじまっているだろう。もしかすると、今頃調査は佳境に入っているかもしれないと、北の空を眺めながらイリュウスは考える。
 どんな魔物が出るのだろう。どんな罠がしかけられているのだろう。それらの障害を、父はどうやって乗り越えていくのだろう。
 イリュウスは楽しみでしょうがなかった。父は戻ってきたら、吟遊詩人の歌や本の中の物語ではない、現実の冒険譚を、誰よりも早く自分に語ってくれるだろうと思うからだ。友達はみんな羨ましがるかもしれない。一緒に聞かせてあげたい気持ちもある。けれど、やっぱり最初は、父を家族だけで占領したいと言うのが本音だった。
 白い息を吐き出しながら、今日もイリュウスは模造剣を振るう。不思議と、寒さや疲れは感じなかった。いつか父のように、危険な調査を真っ先に任されるような立派な戦士になるためだと思えば、いつまでも頑張れる気がした。
 しかしさすがに、空から舞い降りる白がちらつきはじめると、素振りの手を止める。動く事をやめると、途端に寒くなった。
「イリュウス、雪が降りはじめたから、中に入りなさいよー!」
 姉の声がかかる。「言われなくても判ってるよ」と呟きながら、イリュウスは家の中に戻った。だからと言って、家の中でおとなしくするつもりはない。寒くならないよう外套をはおり、温かくして、もう一度外に出ようと思っていた。ラバンで氷の精霊力がここまで強まる日はそれほどなく、雪は年に数回降るていどの珍しいものであったので、せっかくだから遊びたいと思ったのだ。
 だが考えが甘かった。今日の雪は、年に数度降るものではなく、数年に一度の大雪だったのだ。雪も風もあっと言う間に強くなり、家を一歩出ようものなら目の前が真っ白で、油断すれば街の中で遭難などと言う間抜けな事になりかねない勢いだった。
 イリュウスは諦めて家の中に戻る。幸いなのは、この吹雪のせいで、店に居た客は早く帰り、新しい客がほとんど来ない、開店休業状態になった事だろうか。いつもなら家に居ると妹の相手をしろと言われて面倒なのだが、今日は暇をもてあました母や姉夫婦がフィアナの面倒を見てくれるので、好きにできる。
 暖炉の前と言う一番暖かい場所に椅子を運んだイリュウスは、本を読む事に決めた。父のような戦士に、母のような魔術師に――といつも言っているが、やはり体を動かすほうが楽しいので、実際のところ魔術師としての勉強はほとんどしていない。剣を振るえないこう言う時くらい、勉強をしておこうと思ったのだ。
 勉強は退屈なので、好きではないが、けっこう得意だった。一歳になったばかりの娘イリアを寝かしつけた姉が、背後からイリュウスの読む本を除きこみながら、「よくこんなの読めるわね。何語?」などと呟いている。魔術師や魔術師を志す者にとっては基本である、古代王国時代の文字だが、あくまで一般人であり続けるソフィアには縁のない文字なのだ。
「今度さ、倉庫の奥で埃つもってる箱の中の本、読んでいい?」
 訊ねると、母は微笑みながら頷いた。
「いいけれど、難しいものよ。古代語で、複雑な魔法理論が説明されているから」
「大丈夫だよ。下位古代語はだいたい判ったし」
「そうね。イリュウスは頭がいいから、本気で勉強すればすぐに読めるようになりそうね」
「ちなみに母さんは、何歳くらいで読めた?」
 褒められて得意になったイリュウスは、母に質問してみたが、母は曖昧に微笑んで答えをはぐらかした。
 なるほど、母は、今のイリュウスと同じ十一の歳――この冬に、イリュウスは誕生日を迎えた――にはもう古代語を理解していたのだろう。息子の自尊心を傷付けないよう黙ったのかもしれないが、そのくらい察せないイリュウスではない。
 やっぱり勉強も真面目にやろう。イリュウスは心の中で誓い、読書に戻る。
 暖炉の中で薪が燃える音が、頬を撫でる熱気が、妙に心地よかった。

 雪は降り積もる一方で、母たちは諦めて店を締める事にした。「明日も休みかしらね」なんて呟きながら、入口を閉める。
「イリュウスもお片づけ手伝って」
「えー」
「フィアナやイリアの面倒みるのと、どっちがいい?」
 姉に笑顔で二択を提示され、イリュウスはしぶしぶ、片付けを手伝う事にした。妹や姪は、可愛いとは思うけれど、やっぱり面倒くさい。女の子だから、どうしてやれば喜ぶか判らず、難しいのだ。勢い余って殴ろうものなら、姉に怒られるし。
 仕方ないので濡れ布巾を片手に机を拭いていく。椅子も拭いておくと、乾いた頃に、義兄ランセルが椅子を片付けてくれた。
 自分と、母と、義兄とが、黙々と作業を続けると、店の中は静かだ。作業をしているので、足音や椅子を引きずる音、食器が触れ合う音や水音などがしているのだが、ローゼンタール家は家族も店も賑やかなのが基本なので、妙に静かに感じた。
 だから、突然入口の戸が強く叩かれた時、イリュウスはひどくびっくりした。悲鳴を上げる事だけはなんとかこらえたが、思わず一歩あとずさり、入口を凝視してしまう。
「お客さんかしら」
「ですが、閉店の札は下げてますよね」
 ランセルが扉に歩み寄り、鍵を開ける。
 扉を開くと、雪の混じった冷たい風が勢いよく吹き込んできた。室内との温度差にイリュウスは震え、己の体を抱いて熱を保とうとする。
 扉の前には、毛織の外套に身を包み、フードを深くかぶった背の高い人物が立っていた。温かそうな格好だが、全身が震えている。頭や肩には雪が積もっていて、彼がそれなりに長い時間、外にいたのだろう事は明白だった。
「どちら様です?」
 ランセルが声をかけるが、フードの人物は答えない。立っているのもやっと、と言った様子だった。
「とりあえず、どうぞ、中に」
 ランセルはフードの人物を店の中に入れ、すぐに扉を閉めなおす。入口から一番遠い、比較的温かい席に座らせると、家の中に向かっていった。大声でソフィアを呼んでいる。温かい飲み物を用意するつもりなのだろう。
「お腹空いてます?」
「は……」
「食べる余裕があるなら、残り物で申し訳ないですが、シチューでもどうですか、と思って。ちょっと前に火を止めてしまったので少し冷めているかもしれませんが、体を温める役には立つと思います」
 フードの人物は首を左右に振った。そしてフードを外し、外套を脱いだ。どさり、と雪の塊が床に落ちる。まだ床掃除をする前でよかったと、イリュウスは思った。
 フードの人物は男性だった。イリュウスの目には立派な大人に映るが、おそらくまだ十代半ばから後半だろう。よく見れば整った顔立ちだと判るが、少々やつれている上に汚れていて、綺麗な印象はあまりない。切れ長の目で弱々しくアーシェリナを見上げ、震える薄い唇から、声を絞り出す。
「貴女が、西の勇者様の、奥様ですか」
「え? ええ」
 母が肯定すると、少年の目に宿る弱々しい輝きが歪み、よりいっそう弱いものとなる。なにごとかと気になったイリュウスが凝視していると、やがて少年の両の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 その姿は、イリュウスにとって衝撃的だった。男は大人になればよほどの事がない限り泣かないものだと、疑いもなく信じていたからだった。泣いてしまうほど辛い事が、少年の身に起こったのだろうか?
「申し、訳、ありま……せん。まさか、こんな事になる、なんて……」
 少年は深く頭を下げる。アーシェリナが「顔を上げてください」と何度言っても従おうとせず、ひたすら肩を振るわせ、謝り続けた。
 外の寒さよりずっと強い悪寒が、イリュウスをも振るわせる。それはアーシェリナも同じだったようで、紫色の双眸を見開き、右手で左手を強く握りしめる事で震えを抑えながら、少年の次の言葉を待っていた。
「全……滅、です。調査隊は、俺を、抜かして、全員……」


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