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七章

13

 少し遠くから、乱暴に扉を開く音がする。
 間髪入れず、階段を駆け下りてくる音がした。誰だろう? と一瞬考えたランセルだが、どう考えたところで、答えはひとつしかない。二階に居た可能性があるのは、ソフィアだけだからだ。
「ねえねえねえねえ」
 転がりこむように、ソフィアは部屋に飛び込んでくる。しつこく、気軽に、ランセルを呼んだ。気まずい別れかたをしたのはついさっきの事なのだが、まるで何事もなかったように、ランセルに近付いてくる。
 無意識に、ランセルは身構えていた。しかしソフィアはそんな事お構いなしで、ランセルの正面の椅子に座りなおす。大きな目は見開かれていて、無邪気な子供のように輝いていた。笑みを浮かべているように見えるのは、気のせいではないのだろう。
 いくらなんでも気持ちの整理が早すぎやしないかと、ランセルは僅かに呆れ、僅かに羨み、僅かに悔しがった。けれど一番は、ソフィアが再び笑いかけてくれた事への喜びで、そう感じる自分が滑稽だと思いながら、誇らしくも感じた。
「ねえランセル、私、天才かもしれない」
「は……はあ……」
「すごい事思い付いちゃった。聞いてくれる?」
 ソフィアは食卓に手を着いて、身を乗り出してくる。
「やっぱりね、私、早死にはしたくないのよ。でも、貴方のお嫁さんに離れなくて、独身でも駄目で、だからって他の人、なんて、やっぱりすぐには考えられないの。でね」
 一生懸命語るソフィアを真っ直ぐに見る事ができなくて、ランセルは目を細める。
 日に日に細り、弱っていく母との生活に差し込んだ光。眩しさは時に痛みを感じる事もあるけれど、ソフィアの幻想は、ランセルにただ安らぎを与えてくれた。永遠に手に入れられたらと望むほどに。
 どうしてだろう。どうして、この人の手を掴む事が許されないのだろう。
 ただそばに居るだけで、苦しい思いをするのは、どうしてなのだろう――
「貴方がうちにお婿に来ればいいんじゃない?」
 度肝を抜かれるとは、この事だろうか。
 まるで時間が止まったかのような感覚だった。混乱していたのかもしれない。考えていた事や抱えていた気持ちが全て吹き飛んで、うろたえたランセルは、間抜けな声を上げる事しかできなかった。
「……は?」
 すると、ソフィアの自身満々だった表情が崩れ、慌てだす。
「だ、駄目なの? でも、貴方言ってたじゃない。私がルウェンソフィア・フォスターになってるって。それは駄目なんでしょ。で、独身も駄目なんでしょ。でも、貴方がお婿に来れば、私は独身じゃないし、ルウェンソフィア・フォスターでもない。大丈夫そうじゃない?」
 不意打ちで盲点を突かれた気がした。腰が抜けるほど驚いた。椅子に座っているから良かったが、もし立っていたら、へたりこんでいただろう。
 なぜか、息が苦しくなる。考えようとしたが、上手く頭が回らなかった。
 大丈夫なのか? いや、確かに、ソフィアが語る未来は見えない。ならば、大丈夫なのか? 本当に?
 そんな簡単な事だったのか?
「嫌? でも、なんて言うか、もうそんなようなものじゃない? 私の家族もみんな貴方の事気に入ってるし、あとは、名前だけの問題なのだけど」
「いや……嫌なわけじゃ……ですが、そんな……」
 行き場なく食卓の上に放り出した手に、ソフィアの手が重なった。
「貴方が大変だった事は、頭で判ってるし、しょうがないと思ってもいる。でもね、ランセル。やっぱり、人生を悲観的に考えるのは、貴方の悪い癖だと思うのよ。不幸から逃れる方法は、必ずどこかにあるものなの」
 ソフィアの言う事が本当だとして、だからって、考えつきもしなかった。
 考え方が柔軟と誉めればいいのか、むちゃくちゃだと笑うべきなのか。とるべき表情が判らず、自然にまかせたランセルは、込み上げてくる笑いを抑え切れず、俯いた。目じりにかすかに浮かぶ涙を、見られないよう隠すために。
「あ、違うの。先走るのは、きっと私の悪い癖よね」
「はい?」
「そう言う事だから、余計な全部忘れてしまって。それで、貴方の素直な返事が聞かせて?」
「はい?」
「それでも駄目なら、頑張って諦める。すぐには無理かもしれないけど、仕方がないもの。だから……」
 ソフィアはランセルから手を放し、元通り座り直す。俯いて、固く目をつぶった。何が起こっても耐えられるよう、構えているようだった。
 そうか。自分はまだ、一番大事な事を、伝えていなかったのか。
「多分、笑われると思いますけど」
「笑う余裕なんてないけど」
 ランセルはソフィアに気付かれないよう、声に出さずに小さく笑った。
「俺は、貴方に出会う前から、ずっと――」


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Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.