INDEX BACK NEXT


七章

12

 ランセルの母は、明るく、芯が強く、元気に笑う人だったから、はじめて死の未来を見た八歳の時も、自身の能力に確信を持つようになってからも、この人があと数年で死ぬなんておかしいと思ったものだ。
 だが、時が流れていく中で、まず伸びやかな歌声が失われた。この時までランセルは、自分の力のほうを疑うようにしていたが、そうもできなくなった。「俺は貴女があと一年と少しで死ぬ未来を見ています」などと、母に言えるわけもなく、ランセルはひとりで怯えた。他の人に相談する事も怖くてできなかったのだ。どこからか、ランセルが見たものが母の耳に届いてしまう気がして。
 手の力を失い、弦を爪弾く事もできなくなったのは、更に数ヶ月後。徐々に痩せ衰え、病床から起きあがれないほど酷くなったのは、残りの時間が四ヶ月となった頃。それでも息子に笑いかける事だけは忘れなかった母の弱々しい笑顔が、息苦しく感じる事もあった。できる限り笑い返すようにしていたけれど、上手く笑えていた自信はない。
 そんな日々の中でランセルの支えとなったのは、ひとりの少女の存在だった。
 はじめて見た時は、あまりにも人間離れした美貌に現実味を感じられず、妄想の産物だと思ったものだ。
 だがやがてランセルは、彼女が大切に取っておいたおやつを盗み食いした弟に怒鳴りつけたり、可愛がってくれた近所の老婆の死に涙したり、怖い思いをして泣き喚く妹を抱きしめ慰めたり、歳若い父親をからかって大口を開けて笑ったりする、実に人間的で実在する少女だと知る。母とは別種の明るさや優しさやたくましさを持つ少女はとても魅力的で、心細さが慰められるようで、惹かれるまでに大して時間はかからなかった。
 だからランセルは思ったのだ。どこの誰かも判らない彼女に、けして会ってはならないと。
 そう、少女はランセルが見る未来視の中に登場する人物で、直接顔を合わせた事は一度もなかった。
 通常ランセルの未来視は、ランセル自身より先に死を迎える人物を目の当たりにした時、その人物の死の様子が見れるものだったが、彼女だけは特別だった。将来的にランセルにごく近い存在になる可能性が強いから、より強く、詳しく、見る事ができたのかもしれない。母の死を、他の人々よりも細かく見てとれたように。
 ランセルは少女の事を忘れようとした。母の死の悲しみと、それによって引きずり出された父親への好奇心が胸の大半を占めた時、忘れられると思った。
 だから、驚いた。父の事を知るために西の勇者セインに会おうと決意し、ラバンを訪れたはいいがすぐに会いに行く覚悟ができず、噴水のある広場で時間を潰すために歌っていたあの日。もう切り上げて宿に帰ろうと思った時、少女はランセルの前に現れた。ランセルが知る通りの声でしゃべり、ランセルが知る通りの笑顔を見せてくれた。
 話しかけたかった。けれど耐えた。去りゆく少女を呼び止めたかった。それも耐えた。ほんの一瞬だけでも現実の少女に会えた喜びを胸に秘め、二度と交わらない別々の道を歩んで行くべきだと、自分に言い聞かせた。
 だのに少女は、再びランセルの前に現れる。今度は、西の勇者の家の前で。
 彼女は西の勇者の娘だった。つまり、父親への興味を抱いた時点で、ランセルが少女に会う事はほぼ決定していて、忘れられると思っていた自分が甘かったのだ。
 泊まっていけと言われて、強く断れなかった。自分が歌う事で少女が喜んでくれる事が嬉しかった。セインに、自分の代わりに数日店を手伝ってくれと言われて、引き受けてしまった。セインが帰ってきてからも、出て行く機会を完全に失っていた。
 本当は、全部、受け入れてはならなかったのだ。大切な人を守るためには。
「どうして貴方は私の前に現れたの」と、彼女は言った。そんな事を責められても困る。彼女がセインの娘だなんて知らなかった。会ってしまったのは、偶然だ。事故のようなものだ。
 けれど、その後の事は、責められて当然だ。ランセルは一日も早くローゼンタール家を離れなければならなかったのに、長々と居座ってしまった。ローゼンタール家の温かさが幸せで。気軽に話せる事が、笑いかけてくれる事が――少女の、ソフィアの心が近付いてくる事が、嬉しくて。
 よくもまあ、ソフィアの事を残酷な人だと、一瞬でも思えたものだ。
 残酷なのは自分のほうではないか。悲しい未来を語って突き放す日がくる事が判っていて、ここに残っていたのだから。
 自分ひとりで幸せを貪って、ひとりに戻る寂しさから逃げるためだけに。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.