七章
10
「ごめんねー、そっちまかせっきりで!」
全部の席を拭き終えて、椅子を片付け、床掃除まで終えたソフィアがそんな事を言う。むしろそれはこちらの台詞ではなかろうか、と考えながら、ランセルは最後の皿を洗い終えていた。
すぐに手を洗ったソフィアは、食器を拭くための布を手にランセルの隣に並ぶと、洗いあがった皿に手を伸ばし、丁寧に拭きはじめた。申し訳ないと思いつつも、まだ手ごわい鍋をはじめとする調理道具が残っているので、そっちは任せてしまう事にする。洗うよりも拭くほうが、確実に手には優しくて、白い肌を余計に痛める事はないであろうし。
洗い物をしながら、時折隣の様子を覗き見た。ソフィアは、単純作業を続ける事を苦痛と思わない性格らしく、鼻歌など歌いながら、楽しそうに手を動かしていた。耳に届く音のほとんどは、ランセルがローゼンタール家を訪れてから披露した歌で、気に入ってくれたのだなと喜ぶ反面、少しだけ気恥ずかしかった。
気に入ってくれたものはもうひとつある。ソフィアの髪は肩ほどの長さで、仕事中はいつも結んでいるのだが、ここ最近、眩い白銀を纏めるものは、ソフィアお手製の飾り紐だった。色は、薄桃色と濃い紫。以前一緒に買い物に行った時、ランセルが選んだものだ。
同じ日にソフィアが選んだ若草色と水色の飾り紐は、時折フィアナの髪を飾っているのだが、そちらは結局布を買い足して数種類作り、気分に合わせて使い分けているようで、今日のフィアナは橙色と黄色の紐を身につけている。ソフィアとて、何色だろうと似合うのだから、フィアナのように色々と楽しめばいいのにとランセルは思うのだが、今日まで別の色の紐を使っているところを見た事がなかった――むろん、嫌なわけではない。むしろ嬉しかった。勘違いして、気恥ずかしい思いをした甲斐があると言うものだ。
「あとは俺がやっておきますから、ソフィアさんはもう休んでください」
ランセルが洗い物を追えた時、ソフィアはすでにほとんどの食器は拭き終えていたので、残りの作業はほとんどない。大して時間がかかるものではないので、ソフィアも気遣いせずにすむだろうと、ランセルは自ら申し出た。
「でも……」
しかし、やはり気になるらしく、ソフィアはためらう様子を見せた。それでも手を動かすのを止めないのは、さすがと言ったところか。
「もうほとんど残ってませんし、食器を棚に戻すのは、ソフィアさんより俺の方がむいているでしょう」
「でも」
「それに、昼間もほとんど休憩をとってなかったでしょう」
返す言葉を失ったらしく、ソフィアは口を噤む。深めの皿を拭き終わったところで僅かに手が止まった隙に、ランセルは彼女から仕事を奪い取った。
それでもまだ名残惜しそうに立っているから、ランセルはつい笑ってしまった。
「貴女は本当に、このお店が好きなのですね」
するとソフィアは、誇らしげに胸を張り、破顔し、力強く頷いた。
「うん。大好き。天職だとも思ってる」
ランセルは同じように微笑み返し、「そうですね」と返そうとした。けれど何も言えなかったのは、続いたソフィアの言葉があまりに衝撃的すぎたからだ。
「あと貴方も好きよ」
瞬時に体が硬直した。手にしていた皿を取り落としそうになり、慌てて握力を呼び戻す。何とか落とさずにすんだ事に安堵したランセルは、小さく溜息を吐いたが、そうして自分を取り戻すと、耳にしたばかりの言葉が、頭の中でこだましはじめた。
もしかすると幻聴だったのかもしれない。ランセルはぎこちなく首を動かし、ソフィアを見た。しかし少女は目があった瞬間、白い肌を上気させ、照れくさそうに目を逸らすので、やはり現実なのだと思い知る。
「ちょっと気軽に言いすぎたかもしれないけど、でもね、お父さんが好きとか、イリュウスが好きとか、そう言うのとは違うから」
ソフィアの言葉に嘘偽りはないようだった。元々ソフィアは真っ直ぐな人で、たちの悪い嘘を口にするような人ではないけれど。
ならばランセルの返事は決まっていた。こうなってしまったら、伝えなければならない事がある。今更遅いのかもしれない、こうなる前にどうにかしなければならなかったのかもしれないが、それでも。
だと言うのに、声が出なかった。何も言えなかった――言いたくなかった。結果無言でソフィアを見つめる形になり、返事を待つソフィアが、徐々に不安がっていく事が、空気を介して伝わってきた。
「ごめんなさい。私、もしかしなくても、余計な事を言ってしまったね」
俯くソフィアの声が、いつになく弱々しい。
「いえ、その」
「いいの。気にしてほしいから、気にしないでとは言えないけど……無理に返事を引き出そうとは思ってないから」
ソフィアは顔を上げた。目があった瞬間見せた微笑みはぎこちなく、精一杯の作り笑顔だと判って、ランセルの胸は軋む。
「あと、よろしくね。おやすみなさい」
踵を返し、ソフィアは家の中へ戻っていく。
ランセルは去りゆく少女を引き止める事も、呼び止める事もできなかった。しばらく呆然と立ち尽くした後、残った作業に戻ったが、頭の中はソフィアに埋め尽くされる。
残酷な人だ。
まずそう思ってから、ランセルは小さく首を振った。悪いのはソフィアではない。ソフィアが自身に好意を向ける可能性が僅かなりともあると判っていて、それでもこの店に、ローゼンタール家に、長居してしまった自分だ。
ソフィアをはじめ、ローゼンタール家の人々はみな温かくランセルを迎え入れてくれて、母を失いひとりで生きる事を余儀なくされたランセルにとって、ひどく心地よい空間だった。占いと称した未来視を強制する者が居ない事も嬉しくて――そもそもソフィア以外の者はランセルの力を知らないのだが――だから、今胸が痛むのは、居心地の良さに浸り、未来をおろそかにした罰なのだ。
食器を全て片付け終えたランセルは、戸を閉めた棚に背を預け、よりかかる。目を伏せ、肺の中に残った全ての空気を吐き出さん勢いで呼吸をし、もう一度目を開ける。
「なんだ、まだ居たのか」
目を開けた瞬間、セインの声が聞こえ、ランセルは身を竦める。
心臓が大きく鳴りだした。原因のほとんどは、誰も居ないと思っていたのに突然人が現れた事に驚いたからだが、うしろめたさも手伝っていた。この家にやって来てすぐ、「ソフィアに手を出したら命はないからな」と脅されたのを、ランセルは忘れていない。確かに手を出してはいないのだが、完全に従っているとも言えない気がして、少し息苦しかった。
「悪いな。こんな時間まで」
「いえ……」
「酷い顔をしているな」
歩み寄ってきたセインは、拳で軽くランセルの胸を叩く。同じだけ軽く浮かべた笑みと合わせて、「元気を出せ」と言われている気がして、ランセルは不覚にも泣きそうになった。
ランセルは実の父を知らない。一座には父やそれ以上の年齢の男性たちが何人か居て、彼らが父代わりだったと言えるのかもしれないが、こうも優しく接してくれたものは居なかった。彼らはけして冷たかったわけではないのだが、ランセルの力を上手く利用する事ばかり考えていたのだ。母アルシラが病床に臥してからはなおさらで、母を盾に取られては断る事ができなかったランセルは、人の死ばかりを見て毎日を過ごしていた。客は見ず知らずの他人、私腹を肥やす事ばかりに囚われて生きてきたような者たちばかりだったが、それでも、辛かった。
だからと言っては失礼かもしれないが、セインがランセルに、父性に似たものを見せてくれると、嬉しくなる。実の父が、自分の事を知っていたとして、こんなふうに接してくれたとは限らないけれど、それでも。
「何か悩みでもあるのか?」
「いえ……」
「嘘吐くな。別に、何が何でも相談しろと言っているわけじゃない。言いたくない事は黙ってりゃいいさ」
セインは笑いながら、ランセルの隣に立ち、同じように棚にもたれかかった。
「俺なんか秘密ばっかりだ。ソフィアですら、俺やアーシェリナがどこで生まれて、どうやって生きてきたか、ほとんど知らないぞ」
「話す機会がなかったから、だけではなく?」
「いくらでもあったさ。ただ、言いたくなかっただけだ。胸を張れないような生き方をしていた時期もある」
軽い口調に隠された奥に、重い感情が隠れているだろう事を察したが、ランセルは何も言わない。
ソフィアですら知らないと言うセインの過去のいくつかを、アルシラの日記を読んだランセルは知っている。セインたちが生まれ育った国がファンドリアである事、アーシェリナが薄幸の伯爵令嬢であった事、セインがその伯爵令嬢に仕えていた事。セインの立場について詳しく書いてなかったが、両親のような貴族としてではなく、使用人かそれ以下の立場であった事は、文面からなんとなく感じ取れた。
そしてふたりは、何かしらの事件を起こし、逃げるように屋敷を出る。その後の事はもちろん母の日記に書いてなかったが、色々あっただろう事を予測する事は、難しくなかった。
全てを話したいとは思わない。けれど、この人なら、胸のうちのいくらかを知られても、悪くない気がした。判ってくれるのではないかと、期待できたのだ。
「ずっと、憧れていた人が居るんです」
「女か?」
「え? ええ」
「ずっと、か」
安堵と不満が入り混じったような複雑な表情を浮かべたセインは、何か意味ありげに呟いたが、言葉を続けはしなかった。
「情けないと思われるかもしれませんが、俺は、日々弱っていく母を見守る事も、やりたくもない仕事を強要される事も、辛かった。何もかもが嫌になる時もあった。けれど、その人の笑顔を見ていると、いつも、もう少し頑張ろうと思えたんです」
「偉いな、お前」
「偉い……ですか?」
「少なくとも、お前くらいの頃の俺よりはな」
自分の事について深入りされたくないから、こちらからも深いりすまいと決めていたランセルだが、目の前の男が昔どんな人間だったのか、思わず聞きたくなってしまった。
勢いよりも理性が勝り、質問を投げかける事はしなかったが。
「その人は、近付いてはいけない人だと、判っていたつもりなんですが……」
「ちょっと待て」
セインは言葉だけでなく、手でもランセルを制した。
「頼ってくれたのは嬉しいが、申し訳ない。お前、相談する相手を完全に間違えている」
「そ、そうですか?」
「アルシラの日記を読んだなら、俺にとってアーシェリナが何だったか、知っているのだろう?」
セインが照れくさそうに笑うので、ランセルは微笑み返した。
そう、セインの言う通り、ランセルは知っている。セインが、近付いてはいけないはずの人を手に入れたからこそ、今があるのだと。
「あまり思考が偏らないように言える助言は、自分の想いや考えばかりに囚われないほうがいい、くらいだな。そうすると視界が開けて、開けた視界の先には意外と単純な答えが待っていたりする……気がする」
ランセルは店の中を見回した。
主であったはずの女性を妻とする事に、大きな葛藤があったのだろう。そうして今を選び取ったセインは、温かで安らげる、幸せな家庭を築いた。彼は正しい選択をしたのだ。きっと、一度も間違えなかったわけではないだろう。正しかったり、間違ったり、色々な選択を繰り返してきたのだろう。けれど、一番大事な選択を誤らなかったからこそ、ここに辿り着けたのだ。
「そうかも……しれませんね」
多分、今ランセルの目の前にある選択は、大きなものだ。誤っては、取り返しがつかなくなるかもしれないほどの。運命を呪う権利はない。ここまで来てしまったのは、これまであったいくつかの選択を、ほぼ全て誤ったせいだ。居心地の良さに甘えたせいで。
「ありがとうございます。少し、気が楽になりました」
自分の想いは決まっている。結論だって、ひとつしかないと思っている。
けれど、囚われるなと言うのなら――逃げずに、向かい合うべきなのかもしれない。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.