七章

９

　冬が近付きつつある秋の夜空の下は、冷たい風が容赦なく流れる。
　だからだろうか、空に輝く無数の星たちの光が、温かそうに見えるのは。
　部屋の窓を全開にして空を見上げてから、どれほどの時間が過ぎただろう。気分でごまかすにはどうしようもないほど冷えた己の肩を抱いたソフィアは、諦めて窓を閉めようかと考えた。けれどこんなに天気が良く満天の星を眺められる日は久々で、もったいないような気がして、上着を羽織る事で寒さを緩和させた。
　しばらく眺めていると、どこかから扉が開く音が聞こえて、ソフィアは下を覗き見る。ソフィアの部屋の真下には、家の中から庭に出るための扉があるので、そこから誰か出てきたのだろうと思ったからだ。
　予想通り、扉から出てきた人影は、庭に出てくる。昼ならば父と弟が戯れるそこに立つのは、セインでもイリュウスでもなく、ランセルだ。ひとり佇み夜空を見上げる物静かな様子は、星の中でだったひとつ青白く輝いている、月のような物寂しさがあった。
　気付けばソフィアは、部屋の外へ飛び出していた。階段を下り、庭への扉に向かう。そっと扉を開けると、二階から見下ろしていた時から微動だにしていない、ランセルの背中が見えた。
「何してるの？」
　声をかけると、ランセルは振り返る。ソフィアの姿を見つけると、目を細めた。
　ソフィアも庭に出て、ランセルに並んで、同じ空を見上げた。背の高いランセルとはずいぶん身長が違うから、同じものは見えていないのかもしれないが、ひとり窓から見上げた夜空より、ずっと温かく、ずっと綺麗なものに見えた。
「あ、そうか。ランセルって、占いするんだよね。星の並びとか見てるの？」
「そう言う占いもあるようですね。俺はなんとなく、冷たい空気を吸いたかっただけなのですが」
「まあ、あるよね、そう言う事も」
　嘘を言っているとは思わないが、話を反らそうとの意図を感じ取り、何となく気になったソフィアは、話を元に戻す。
「ねぇ、ランセル。私の未来を占ってくれない？」
　ランセルは何も言わず星空を見上げるだけだった。
「私は将来どんな人とどんな風に生きていくのかなーって。軽い気持ちで」
　もうひと押ししてみるが、ランセルは静かに目を伏せるだけだ。まるで、答える事を拒んでいるように。
　未来など知らないほうがいいと、以前ランセルが言っていた事を思い出す。それは真理だろうとソフィアも思う。本当に知ってしまえば、生きていく意味を失うほどに、つまらないだろうから。
　だが、これはたかが占いではないか。当たったらおもしろい、外れたらそんなものだと笑って流せる、それだけのものではないのか。なぜランセルは、こうも頑ななのか――
「未来はひとつではありません」
　沈黙を破ったのは、ランセルの掠れた声だった。
「俺に見える貴女の未来は、いくつかあります。だから貴女は、俺に見えない未来を選ばなければならない」
「よく判らないけど、普通占い師って、見える未来の中から一番いいものをおすすめしてくれるものじゃないの？」
　率直な疑問を述べると、ランセルは静かに首を振る。
　そうして見せたランセルの目は、今までの比ではないほど暗く、冷たく、ソフィアは咄嗟に両手を硬く組み合わせていた。胸元で、何かに祈るように。
「俺に見えるのは、悲しい未来だけなんです。ですから……そうですね。できるだけ早く、どなたかと、幸せな家庭を築いてください」
「どなたかって、誰でもいいの？」
「いえ――」
　ランセルは紡ぎかけた言葉を一度飲み込んだ。
　見上げる横顔は、苦い。何か、強い苦痛に耐える目だ。
「そうですね。誰でも大丈夫です。たったひとり、気を付けたほうがいい相手がいますが、たとえ貴女がその人物を選んでも、その人はけして貴女を受け入れませんから」
　力強く断言され、ソフィアは俯く。
　つまり、絶対にふられる相手がひとり居ると、ランセルは言っているのだ。将来ソフィアがその相手に本当に恋するかは判らないが、すでに失恋した気になって、少し気持ちが沈んでしまった。
「あと……ごめんね、しつこくて」
「いえ」
「さっきから未来が見えるって言ってるけど、どう言う事なの？　貴方には、現実に起こる未来がはっきり見えているって事？　ちょっと、信じられなくて」
　ランセルは迷っていた。
　迷い、悩み、やがてソフィアを見下ろす眼差しに宿る感情に捉えられ、ソフィアは声も出せなくなった。
　この時、生まれて初めてソフィアは知ったのだ。人は涙を流さずとも、こんなにも痛々しく泣く事ができるのだと。
「俺は」
　喉の奥から絞り出した声は、風にかき消されそうなほど弱々しかった。
「母に与えられた命の残りを数えながら生きてきました」
　どんな大根役者よりも感情のない、呆れるほど冷たい声は、切り裂かれる心から溢れる悲しみに溺れ息を詰まらせないようにと、精一杯自衛した結果に聞こえる。それこそが穏やかさとか優しさとかで幾重にも覆われたランセルの根本的な部分で、どこか陰りのある悲しげな雰囲気の原因だと、ソフィアは感じた。
「人の未来をはじめて見たのは八歳の時、俺が十六の年に母が、病で死ぬ未来でした。はじめは、ただの幻か、白昼夢だと思っていた。けれどその未来は日々鮮明に浮かんでくるようになり、十を過ぎた頃には、何月何日の何時に死ぬまで、はっきり見て取れるようになっていました。それでも俺は信じたくなかった。母以外の、何人も、何十人も、何百人もの死に様を見て、その通りに命を落とす結果を見続けても、ただの悪夢だと信じようとしていた」
　顔を覆い、縮こまって震えるランセルは、まるで子供のよう。
「けれど母は結局、俺が見たものと同じように死にました」
　ランセルはこれまで、数ヶ月前に亡くなったばかりの母親の事を、ソフィアの前ではあまり話そうとしなかったが、それでも判る事がある。母アルシラはランセルにとって一番、もしかすると唯一、大切な人だったのだと。
　その人と幸せな生活を築いていて、けれどその幸せが終わる日を数えながら生きねばならない事は、どれほど辛いものなのだろう。幸福の中に居る大抵の人は、愚かにもそれを永遠のものと信じ、更なる幸福に酔いしれる者が多いだろうに――ランセルは、永遠を信じるどころか、夢見る事すら許されなかった。
「未来なんて……俺は見たくなかった」
「ランセル」
　ソフィアはそっとランセルに寄り添う。震える腕は、夜風になぶられて、冷たかった。温かいのはただひとつ、滲みはじめた涙だけだ。
　ソフィアは固く目を伏せ、こみ上げるものを堪えた。泣いては駄目だ。可哀想とか、簡単に言っては駄目だ。幼少の頃から心が砕け散らないように戦い続けて、結果少しずつ感情を殺していったランセルの悲しみなど、本当の意味で理解できるわけがないのだ。安っぽい同情なんてしたくないし、していると思われたくもない。
　だからソフィアは代わりに、腹の奥で静かに怒りを抱え込んだ。無神経に心の中に立ち入り踏み荒らした自分の愚かさが悔しくて。無神経にランセルの力を利用してより彼を傷付けてきた者たちの存在が憎らしくて――ランセルは何も言わないけれど、多分、そうなのだ。でなければ、あんなに綺麗な歌を歌える人が、旅芸人の一座から抜ける必要も、望んでもいない力による占いを本職にする必要もないのだから。
「ごめんなさい」
　情けないけれど、今のソフィアにできるのは、謝る事だけ。
「もう何も聞かない。何も知らずに生きていくから。だからもう、悲しい未来なんて見なくていい」
　ランセルの震える拳に手を重ねる。びっくりするほど冷たい手は、温もりを取り戻すと共に、震えが少しずつ治まっていった。
　忘れたい事を思い出させて、今も疼く傷あとを抉ってしまったけれど、少しは力になれたのだろうか。

　もっと、力になりたい。支えてあげたい。叶うなら、傷を癒してあげたい。
　この日生まれた願望の名にソフィアが気付くのは、もう数日後の事だ。

Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.