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七章



「お父さーん」
 厨房裏の食材置き場から、二階に居るはずの父を呼ぶ。満席の店内でもよく通るソフィアの声は、ここからでも家中に響くので、父の耳に届かせる事は難しい事ではない。父が昼寝でもしていない限りは、だが。
 今回も無事に届いたらしい。さほど間を空けず、階段を下りてくる足音がした。姿を現した父は、やや面倒くさそうに、「どうした?」と訊ねてくる。
「ランセルとの話は終わった?」
「ああ、とりあえずはな」
「なら良かった。ぶどう酒の樽、倉庫から出しておいてくれる? 今日明日にでもなくなっちゃいそうだから。あとね、胡椒も。お父さんこの間、一番高い棚にしまっちゃってたでしょ」
「そのふたつだけで大丈夫か?」
「うーん、多分……」
 父が居なくなる前に、特に力や身長が必要な事は片付けておきたいと考えたソフィアは、食材置き場や厨房を見回し、何か足りないものがないか探す。あまり出しすぎると今度は活動する場所がなくなるので、上手く調整しなければならない。
「何か、お手伝いできる事はありますか?」
 せっかくだから包丁を研いでおいてもらおうかなあと考えはじめた頃、背後から予想外の声が聞こえ、ソフィアは驚いた。うっかり手にしていた包丁を取り落としそうになり、慌てて強く握る。
 振り返った先に居たのは、ランセルだった。先ほどソフィアが父を呼んだ声に、何かしらの異常事態を察したのだろうか。
「大丈夫。お父さんがやってくれるから。お客様は、ゆっくり休んでいて」
「あ、こいつは客じゃないぞ」
 ソフィアに歩み寄ったセインは、並んだ包丁をひとつひとつ手に取り、刃の状況の確認をはじめた。
「どう言う意味?」
「お前、また勘ぐっているのか? 特別な意味はないぞ。お前たちが、俺が仕事で店を離れるたびに『荷物重かったー』とか『大変だったー』とか嫌味を言うから、俺が居ない間手伝ってやってくれと頼んだんだ」
「ほんとに!?」
 無意識に出てくる満面の笑みで問いかけると、ランセルは呆気に取られた様子で頷いた。
「すっごく助かる。ありがとう!」
 思わずソフィアは両手でランセルの手を握り、相手の手を振り回す勢いで握手をする。
「しまった」と思ったのは、自身のてのひらにランセルの体温がゆっくりと伝わってきた時だった。軽い挨拶の意味しかない握手だとしても、ソフィアの方から男性に触れて、良い結果になったためしがない。うかれて舞い上がるくらいならば可愛いほうで、調子に乗ったあげく抱きついてきた男も過去にいる。全員が全員そうなるわけではないと判っているのだが、自衛のためにも、相手の身の安全のため――なんせソフィアの父親はやろうと思えば拳ひとつで人を殺せる西部最強の戦士だ――にも、軽はずみな事はしないよう気を付けていたのに。
 慌てて手を放し、おそるおそるランセルの顔を覗き見る。ランセルはいぶかしむようにソフィアを見下ろしていたが、それだけで、ソフィアは胸を撫で下ろした。
 安堵の中に少しの寂しさが混ざっているように感じたのは、気のせいだと信じたい。もしかすると、心の奥底では、少年たちがみな自分に興味があると思い込んでいるのだろうか? それはあまりにも自意識過剰だ。
「合格だな」
 セインは感嘆の声を上げた。
「何が?」
「ランセルが、だよ。以前一度若い男を雇ったが、役に立たなくてすぐにやめてもらっただろう」
「そんな事もあったね。よかったね、いい人捕まえられて」
「よかったのはお前らがだろう」
「それもそっか。で、お父さん、樽はいつ運んでくれるの」
「あの、場所さえ教えていただければ、俺が……」
 ソフィアはランセルの顔の前に手を突き出し、彼の言葉を遮った。
「お父さんの居ない間に手伝ってくれるって事は、やっぱり今日はまだお客さんじゃない。今日はお父さんにやらせるからいいよ」
「ですが」
「そうだ! 貴方、ラバンに来てまだ日が浅いんでしょ? じゃ、出かけようよ! 案内してあげる。あんまり見所のある街じゃないけれど、ここで生活するにも、お仕事手伝ってもらうにも、色々知っていたほうがいいし。ちょうど今から注文と夕飯の材料買いに行こうと思っていたところなの」
「ですが……」
 困った様子でしぶるランセルの背中を、白い手が押す。
 ランセルがその場をどくと、微笑むアーシェリナの姿が現れた。
「せっかくだから行ってらっしゃい。ソフィア、ついでにリボンを買ってきてくれる?」
「いいよ。何に使うの?」
「フィアナの髪に結ぶやつ。お気に入りのをね、さっきイリュウスが、棒を振り回してひっかけちゃったみたいで」
「了解。じゃ、行こ、ランセル!」
 ソフィアがランセルの袖を掴み引っ張ると、ランセルはようやく出かける気になったらしく、ソフィアの後をついて歩きはじめる。
 店を出るよりも前に手が振り払われた。嫌われてしまっただろうかと、ソフィアは考えた。心当たりは、ない事もない。ランセルにとってのソフィアの第一印象は「門前払いしようとした小娘」だろうし、それ以外でも、色々強引だったからだ。
 けれど顔を見上げてみると、特に機嫌を損ねている様子はない。視線が重なると、目が優しい。やはり、少し暗いけれど。
「とりあえず市場から行こうか。途中で横道入るからね。そっちの方が少し近いし、人通りが少なくて歩きやすいの」
「はい」
「敬語、いらないって言ってるのに」
 くすくすと小さく声を上げて笑うと、ランセルの穏やかな笑みに困惑が浮かんだ。
「それが自然体なんだって言うなら、いいんだけどね。無理しなくても」
「はい」
 あからさまに安堵するから、ソフィアは敬語についてはそれ以上言及しなかった。

 歩いている間、たくさんの話をした。ランセルは、自ら自身の事を話すのはあまり得意ではないようだったが、話す事自体が苦手なわけではないようで、ソフィアのほうから質問すると、きちんと答えてくれる。ついこの間まで旅芸人の一座に居たランセルは、ソフィアの知らない大陸東部のほうにも足を運んだ事があるらしく、聞いた事のない話を沢山してくれた。
 本当に旅芸人だったんだと意識して見ると、ランセルが着ている服の一部は、明らかに別の地方のものだった。外套を縁取る刺繍は、詳しく調べないと判らないが、ソフィアが知る縫い方とは違っている気がする。それに腰紐。太めの糸を粗く織った二色の布を編んでできており、ラバンでは見た事がないものだ。思わず端を手に取り、「可愛いなあ」と呟くと、「とりあえず、今は取らないでくださいね」と注意されてしまった。
「言われなくても、往来で人の服を脱がす趣味はないけど」
「そこまでの意味を込めて言ったつもりはないのですが……」
 ランセルの笑顔が少し強張ったのは、見ないふりをした。
「でも、これ、本当に可愛い。男の人用に落ち着いた色合いになってるけど、もっと華やかな色合いで、もっと軽い布で作ってみたら、リボンの代わりにならないかな」
「いいかもしれませんね」
「だよね。あ、ここからだと、布屋さん近い。寄ってこ」
 ソフィアは急に方向転換し、更にわき道に入る。慌てて追いかけてくるランセルの事などおかまいなしで、この時ソフィアの頭の中は、妹のフィアナの事ばかりだった。
 まだ小さなフィアナにとって、大切にしていたリボンを駄目にされた悲しみは大きなものだと思うのだ。同じようなものを買って与えても、その悲しみを完全に癒す事は難しく、最悪「前のほうがいい」とか言って泣き出しかねない。だが、まったく違う、けれど素敵なものをあげられれば、喜んでくれるのではなかろうか。
 少し大きな通りに出てすぐのところにある店に、ソフィアは駆け込んだ。
 灯りが強いわけでもないのにふしぎと眩しく感じる、あらゆる色が散らばる店内を眺めているのが、ソフィアは大好きだった。時間に余裕さえあれば、この空間でずっと楽しく過ごせる自信がある。
 そう言えば毛糸も欲しかった。冬になる前に何か暖かいものを作りたいと考えていたのだ。フィアナはどんどん大きくなるけれど、お古ばかりじゃ可哀想だから、そろそろ新しい服を仕立ててあげたいねと話していたのもついこの間だ。それからそれから――ついつい目移りしてしまうソフィアに、「はぎれくらいでよければ、こっちにあるみたいですよ」と冷静な声で教えてくれたのはランセルだった。
 当初の目的を思い出し、ソフィアは布選びをはじめる。フィアナの容姿は父セインによく似て柔らかな面差しであるし、髪も目も色素が薄いので、優しい色合いが似合う、とソフィアは考えていた。想像し、フィアナに似合いそうな、水色の布と若草色の布を選びとる。
「こう言うの、どうかな」
 自分ではこれで完璧だと思っているのだが、思い込みの可能性もあるので、冷静な第三者の意見を聞いておきたかったソフィアは、二枚の布を重ねて自身の髪に近付け、ランセルに問う。ソフィアとフィアナは髪の色は同じなので、想像しやすいだろうと配慮したつもりだった。
「いいと思いますよ」
 しばし逡巡してから、ランセルは答えた。考え込んだ時間が妙に長く、まるきり嘘ではないだろうが、本音を言っていないようにソフィアは感じた。
「本気で言ってる?」
「え? ええ、そりゃ」
「これ以外の組み合わせで、ランセルがいいと思うの、考えてみて。参考までに」
「はあ……」
 ランセルは色とりどりの布を見下ろし、眉間に皺を寄せはじめた。そこまで悩まなくても、とソフィアは思ったが、真剣に考えてくれるのはありがたいので、黙って見守る事にする。
 薄い桃色と、濃い目の紫、紅色の三枚まで選択肢を狭めたランセルは、ようやく桃色と紫を重ね、ソフィアの髪に近付けた。
「なるほどねー」
「駄目でしたか」
「ううん。可愛い。そうだよね、こう言う女の子っぽい色の方が、喜ぶよね」
「……あれ?」
 ランセルは間の抜けた短い声を上げた。
「どなたのものを選んでいるんですか?」
「え? もちろんフィアナのだよ。さっきお母さん言ってたでしょ。フィアナのリボン買ってきてって」
「ああ」
 納得した様子で微笑んだのは一瞬で、ランセルはすぐにソフィアから顔を背けた。ひきつった顔は、心なしか赤くなっている気がする。
「ソフィアさんが選んだもののほうが、良いと思います」
「なんで? ランセルが選んだの、可愛いのに」
「その、俺は、フィアナがどんな子か知らないので」
 そこまで言われて、ソフィアはようやく理解した。ランセルはフィアナのためではなく、ソフィアのために、一生懸命考えて、選んでくれたのだと。ランセルが照れているのは、勘違いしていた事に気付いてしまい、気恥ずかしくなったからなのだと。
 胸の奥からじんわりと温かくなってきて、ソフィアは自然と微笑んでいた。それからなんとなく自分も気恥ずかしくなって、視線をずらし、布を凝視する。
「両方買う」
 妙な空気を吹き飛ばそうと、ソフィアは決意を述べた。
「いえ、ですから……」
「姉妹でお揃いにするの。いいでしょ?」
 視界の端に映るランセルは、一瞬だけ拍子抜けした顔をしてから、笑った。優しく、温かく、包み込むように。
 それがくすぐったくて、今度はソフィアから顔を逸らした。


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