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七章



 さほど間を明けず来訪者が訪れると判っていたはずなのに、扉を叩く音が響いた時、びくりと体が震えた。
「どうぞ」
 深呼吸して震えを抑えてから、許可を出す。すると静かに扉が開き、背の高い少年が姿を現した。
 ランセルはまず一礼し、それから部屋に入ってきた。セインがあらかじめ用意しておいた椅子を示し、暗に座るよう伝えたが、すぐには座らない。寂しげな眼差しが、高い位置から一点を見下ろしていた。セインが手を置く机の上、ひどく痛んだ、赤い表紙を。
「座ってくれ」
 今度は言葉で促すと、ランセルは目を伏せて頷き、椅子に腰かける。視線が同じ高さになった事で、セインは安心して話を切り出した。
「俺は、謝る事も許されないのだろうな」
 最初に口を吐いたのは、諦め混じりの懇願だった。けれどもランセルは頷く事で、セインの願いを撥ね退ける。
「貴方に謝られてしまえば、母は不幸だった事になりますから」
「そうだな」
 今度はセインが頷いた。
 アルシラは不幸な女ではなかった。セインとてそのくらいは判っているし、ランセルにとっては、絶対に揺らがない真実なのだろう。
「お前もこの日記を読んだのなら判っているだろうが、俺は昔、ずいぶんとアルシラに世話になった。アルシラは、俺がこれまで出会ってきた中で最も強い心を持った人で、俺はその強さに憧れていたんだ――いや、今もだろうな。アルシラのように強くありたいと、今でも思っている」
「そうですか」
「だから、この日記を読んで、ひとつだけ嬉しかった事がある。アルシラは、何があっても変わらなかった。そうだろう?」
「はい」
 力強い肯定が、胸に染みる。
 アルシラは、いつでも胸を張って、堂々と笑い、生き抜いた。幼き日の自分が憧れたままで。それだけが嬉しく、変わらない強さが少しだけ切なかった。
「母はいつでも明るくて、愛情に溢れた人でしたから、俺は父親が居ない事を不幸に思った事はありません。父親が足りないからこそ、立派な母に恵まれたのかもしれないと思う事はありましたが」
「確かにな。あれほどの女を母親に持てる幸運は、父親不在の不幸と相殺してもあまりあるほどだ」
「ですから、父親の事を気にした事など、あまりないのです。旅芸人なんて特殊な環境で育ちましたから、父親が居ない事をからかわれた事などほとんどありませんでしたし……。父の事を考えるようになったのは、母が亡くなり、その日記を読んでからです」
 ランセルが縋るように日記を見つめるので、セインは日記を手に取り、ランセルに差し出す。優しい手つきで受け取ったランセルは、慈しむように表紙を撫でた。晩年のアルシラをそうして労わっていただろう事が、ありありと伝わってくる。
「自分でも、父に対する感情がよく判りません。恨めしく思っているのか――両親が本当に愛し合っていたのならば、引き裂かれた事は両親どちらにとっても辛い事だっただろうと判っているのに、俺は母を可哀想だと思っても、父を可哀想とは思えないのです。母を手放した愚かさに、怒りや呆れを感じますし、どうにかできなかったのかと罵ってやりたくもありますが――矛盾していますね。俺は父親を求めていなかったはずなのに、両親が揃っている事を望んでいたのでしょうか」
「お前はアルシラが居るだけで充分だったが、アルシラには心の拠りどころになる夫が居て欲しかったって事だろう。別に、矛盾してないさ。お前が母親想いのいい息子だってだけだ」
 ランセルは目を見開いた。第三者であるセインから見れば単純な答えをひとりでは導けなかったランセルにとって、提示された答えは驚くに値するものだったのだろう。
「いいんだよ、ランセル。お前が楽になるならば、リュクセル――お前の父親を、恨もうと、呆れようと、罵ろうと。あいつはお前が生まれた事も知らないだろうから、お前に父親らしい事など、何ひとつしてこなかっただろう? ならばせめて、そんな形ででも、役立ってもらわないとな」
 可能な限り優しい声で、セインはランセルに語りかける。静かな怒りを、腹の奥に沈めながら。
 そう、セインは今、リュクセルに対し、腸が煮え繰り返るほどの怒りを抱えていた。色々と気に入らないところがある男だったが、それでもアルシラはずっとリュクセルを想い続けていたから――だから、認め、許そうと思ったのだ。アルシラを幸せにできる男はリュクセルしか居ないのだと。
 だと言うのに、ふたりがこんな結末を迎えていたとは。
 アルシラの日記を読む限り、リュクセルも色々と複雑であったようだ。周囲の環境を含めて落ち着いて考えれば、他に選びようがなかっただろう。だが、リュクセルの周辺環境に興味がないセインは、アルシラびいきである心が手伝って、あまり理性的にものを考える事ができないでいた。
 アルシラが居たからこそ今の自分たちの幸せがあると、セインは思っている。だから、アルシラには幸せになって欲しかった。自分たちよりももっと、ずっと、誰からも羨望の目で見られるような、完璧な幸福を手に入れて欲しかった。そんなもの、この世にないと判っていても。
「ただな、どんな形にせよ、誰かの事を強く思うのは、なかなか大変だ。楽になれないなら、より苦しむだけだから、恨むなんて無駄な事はやめて、さっさと忘れてしまえ」
「そう……でしょうか」
「そうだ。これだけは自信を持って断言できる。経験者は語る、と言うやつだ」
 セインが笑うと、ランセルは少しだけ表情を和らげる。老け込んだと言っては悪いが、どこか達観した雰囲気がわずかに崩れ、少しだけ少年らしさを取り戻したように見えた。
 しかし、不思議なものだ。ランセルはついこの間まで、明るくたくましい母親に愛され、大切に育てられ、父親の不在など気にならないほど、幸せであったと言う。だがセインの目の前に居るランセルがかもしだす空気感は、本人が満足できるほどの幸せな環境で育った少年のものとは、違っている気がするのだ。
 だからと言って、ランセルが嘘を言っているようにも見えない。セインはこの矛盾した感覚を、疑問に思う事しかできない現実を、妙にもどかしく感じていた。
「父は、どんな人だったのですか」
 ランセルはひとりごとを呟くかのように疑問の言葉を落とす。
 何と返すべきだろうか。セインは必死に言葉を探した。
「真面目な男、と言うのは、共通の認識だろうな。けして裏切らない信頼の置ける男に見えたか、融通のきかない迷惑な男に見えたかは、人によるのだろう」
「セインさんの目には、後者に映ったのですね」
「すまんな。判りやすくて」
 セインは照れ隠しに、低く声をもらしながら笑った。
「いえ。父がご迷惑をおかけしてすみません」
「お前が謝る事ではない。それに、面倒見のいいところもある奴だったからな。あまり言いたくないが、俺はリュクセルに戦い方を学んでいなければ、西の勇者と呼ばれるほどの戦士にならなかっただろう」
「父は戦士だったのですね」
「相当の、な。今の俺なら勝てるだろうが」
 言って、未だ満足した表情を見せないランセルに気付いたセインは、苦い笑みを浮かべながら、静かに長い息を吐く。
「リュクセルが今も生きているか知らんが、生きていて、お前たちの事を知ったら、さぞ悔しがるだろうな」
 ランセルは表面上平然としているふりをしたつもりのようだが、膝の上の拳を握る力がわずかに強まった事に、セインは気付いていた。
「リュクセルがアルシラを愛していたのは間違いない。アルシラとの間に生まれた子供にも、同じだけの愛情を注いだだろう。存在に気付いていれば、の話だが」
「そう……ですか」
「そうだ。だからもしお前が、リュクセルの事を許し、愛したいと思うなら、それでもいいんだぞ」
 力強く言い切る事で、セインはリュクセルの話題を終わらせる事にした。これ以上話してやれる事は残っていないし、ランセルもこれ以上聞きたい事はないだろう。俯きがちの、けれど迷いが消えた表情を見つめながら、セインは確信する。
 ではそろそろ解散するかと腰を浮かせかけたところで、気になっていた事を思い出し、座り直した。
「ところでお前、今はどうやって生活しているんだ? もし仕事が決まってなければ、うちで働かないか?」
「え?」
 突然の話題変更に頭がついてこられなかったらしく、ランセルは半ば呆然としてセインを見つめる。
 唐突である事は自覚していたので、セインは少し間を空けて、ランセルの頭の中が整理されるのを待った。
「どう言う事でしょう?」
「いや、店の方がな、今日は休みだが、なかなか繁盛しているんだよ。俺が居る時はまあいいんだが、俺が仕事で離れている時は、男手が足りなくなって、色々困るらしい。ついでに、子守ができると助かるが……子守と言ってもフィアナはもう四歳だからな、意味合い的には遊び相手とか、危ない事をしないようにって見張り役みたいなもんだ」
「二ヶ月前まで所属していた一座では、力仕事も、子守も、俺の役目でしたが……」
「ああ、そうか。一座に戻るのか」
 ランセルは即座に首を振って否定した。
「いえ。母の死と共に、一座からは離れました。正直言って、あまりやりたい仕事ではありませんでしたので」
「そうなのか。さっき少し聞かせてもらったが、いい音だと思ったがな」
 もったいない、とセインがひとりごとのように呟くと、ランセルは曖昧に微笑む。
 今にも消え入りそうな、陰のある笑みを見たセインは、少年の本音は奥深くに隠れていて、言葉の表面を受け取るだけでは違うのだと理解する。同時に、言葉の裏を読めるほどに踏み込む事を、許されていないと知った。
「ならば、さっそく明日から頼めるか」
「は……」
「実は魔獣討伐の依頼が入っていて、三日後から何日か家を空ける事になる。準備もあるから、明日から帰ってくるまでの間だけでも手伝ってもらえるとありがたい。できればそれ以降もお願いしたいが、ま、無理は言わないさ」
 ランセルはセインを凝視したまま、ずっと無言だった。だいぶ悩んでいるようだ。
 複雑な仕事ではないし、長くても十日程度の期間だから、気分転換や小遣い稼ぎ程度の気持ちで受けてもらえればいい。そう軽く考えていたセインは、思いの他悩まれた事で申し訳ない気持ちになり、肩を落とし、軽く首を振った。
「嫌なら遠慮なく断ってくれていいんだぞ」
「いえ」
 静かながら短く力強い声は、撤回しようとしたセインの声を遮る。
「俺でお役に立てるなら、ぜひ」
 声や表情から無理している様子は感じられず、セインは力強く頷いて応えた。
「そうか。すまんな、助かる」
「こちらこそよろしくお願いします」
 ランセルは少々大げさな物言いで深々と頭を下げて席を立ったが、部屋を出ていこうと扉を開けたところで、数瞬何かを考え込んだかと思うと、部屋の中に振り返った。
「どうした?」
「魔獣討伐には、お仲間がいらっしゃるのですか」
「ん? ああ、国からの依頼だしな、神官や魔術師らが同行する事になっている」
「歳若い方ですか?」
「いや、詳しくは知らんが、俺より年上じゃないか。それなりの地位がある奴らだから」
 ランセルがあからさまに安堵したので、セインは声を出して笑った。
「心配してくれるのはありがたいが、無駄に歳を取った奴、若くても腕のいい奴は、いくらかいるぞ」
「それは判っていますが、今後、どんなに腕が良い人でも、十代の少年を同行させないでください」
「判った判った」
 妙に拘るランセルに引っかかりはしたものの、セインは笑いながら、軽く返事をした。
 そもそも、ランセルの忠告を、気にする必要はないのだ。名実共に西部最強の戦士となったセインは、報酬が破格なため、よほどの事でもない限り仕事の依頼は来ないし、今回のようによほどの事が起こって依頼が来ても、同行者は超一流の冒険者など、能力だけではなく実績もある者たちしか選ばれない。故にセインが二十歳にも満たない者と仕事をしたのは、アークたちとパーティを組んでいた頃が最後で、今後も機会はないはずだった。


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