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七章



 階下からかすかに届く懐かしい旋律に、セインは振り返る。
 家の中だから声を抑えて歌っているのか、声はあまり聞こえてこないが、おそらくランセルだ。セインがかつてアルシラに習ったこの歌を、ランセルも習い、歌える事は、不思議ではない。
 それに、音の優しさが、アルシラのものとよく似ている。同じ音を出そうと爪弾いているはずなのに、弾き手によって曲の雰囲気が変わるのが音楽の難しいところで、ただの弟子であったセインには、アルシラと同じ音を出す事はけしてできなかった。ここまでアルシラと同じ音を出せるのは、彼がアルシラのそばで育ち、アルシラの心を受け取りながら育った証なのだろう。
 セインは小さく微笑み、机の上に置いた古びた日記に向き直る。
 赤い表紙を再び開くためには、勇気が必要だった。
 アルシラの日記は、一応は本の形をしているが、紐で綴じてあるだけの簡素なもので、つくりが脆いのは致し方ない。だからと言って、二十年足らずの年月が経過しただけでここまで、と思ってしまうほどに、日記は痛みが激しかった。表紙などは半分取れかかっているし、少しでも乱暴に扱おうものなら、あっさり分解されてしまいそうだ。
 きっと、何度も、飽きるほど、この日記は開かれたのだろう。過去を懐かしがるアルシラの手によってか、母を想ったランセルの手によってかは判らないが、おそらく前者だろうとセインは思っている。
 呆れた事にセインは、アルシラがリュクセルと幸せになっているだろう事を、今朝ランセルが現れるまで疑問の余地もなく信じていた。けれど、それが何の根拠もない思い込みだったと、ランセルによって示された今、永遠の別れとなったあの晩の後、彼女がどんな人生を送っていたのか知る事は、好奇心よりも恐怖が勝る。
 恐怖に勝ったのは、義務感だった。自分は知らねばならない。なぜアルシラが、リュクセルのそばで生きる事を諦めたのか。それはきっと、セイン自身が関わっていると思うのだ。
 日記を労わりながら、表紙をめくる。最初に書かれた日付から、この日記はアルシラが二十四歳、セインが十五歳の頃からはじまっていると判った。ごく日常的な事が羅列される中、時折エルローへの愚痴や、リュクセルを労わる想いや、セインを気にかける様子が混じっている。やがてアルシラは、セインと再会した。セインやアーシェリナの事を、ずいぶん心配してくれたようだ。リュクセルとセインの、十日に一度の訓練が再開すると、自分の事のように喜んでいた。どうやらしょっちゅう覗き見に来ていたようだ。セインは、リュクセルの訓練が厳しくて、周りを見ている余裕がなかったため、気付かなかったが。
 先に進むにつれ、アルシラの環境がめまぐるしく変わりはじめる。妹たちの結婚、リュクセルの婚約者との出会い、ガーフェルート伯エイナスの病死によりエルローが新当主となった事、セインとアーシェリナの逃亡――文章は簡素で事務的だが、記憶を呼び起こすには充分で、生々しく蘇ってくる。セインは一度深呼吸で気持ちを整えてから、先に進んだ。
 予想していた通りの部分もあった。ガーフェルート伯の死は、病死として片付けられ、真相は公にならなかった事。新当主であるエルロー・ガーフェルートが、私兵を追っ手として差し向けた事。だがその私兵がアルシラただひとりであった事は、セインにとって予想外だった。
 セインたちを捕まえてリュクセルの元に戻るか、リュクセルと永遠に別れるか。
 エルローからその選択肢を引き出したアルシラは、迷わず後者を選び、旅に出る。ガーフェルートともフォスターともラシードとも縁のない、けれど安息の地もない、不安定な自由の中で、彼女は旅芸人の一座に入り、歌で生きていく事にした。
 不思議だった。悲しかったのかもしれない。日記のどこにも、セインやアーシェリナ、ラシード家やフォスター家への恨みが、綴られていない事が。彼女は残されたリュクセルの幸せを願い、旅立ったセインやアーシェリナの自由や幸せを願っていた。やがて愛する男の子供を宿している事に気付くと、己の幸福を喜び、生まれてくる子への愛に溢れるようになった。
 毎日書かれていた日記は、ランセルの誕生を前後してまばらになり、誕生してすぐに終わっている。最後に書いてあった文章は「子育ては大変だけど楽しい」だったので、それが日記を書く事をやめた理由なのだろう。
「アルシラ……」
 読み終えた日記を閉じたセインは、目頭を抑えた。
 日記の中のアルシラは充実した日々を幸せそうに過ごしていた。彼女は現実から目を反らしたりせず、現実を愛して生きていける強さを持った人だったから、本当に幸せだったのだろう。
 けれどセインは悔しかった。アルシラは、セインが知る人々の中で、最も幸せになるべき人だ。誰もが羨むような、一点の染みもない、掛け値なしの幸福の中、生きていくべき人だった。
 だが、実際は違う。アルシラは他の者たちの幸福のために犠牲になっていた。そして犠牲にした当人のひとりであるセインは、犠牲にした事にすら気付かず、のんびりと幸せに浸っていたのだ。こんなおかしな話があっていいものだろうか。
 せめて生きているうちに会いに来てくれれば、足りないだろうけれど、自身の全てで報いたのに。悔やむセインが思い出すのは、日記を受け取る時にランセルが口にした言葉だった。
 母も自分も、セインを恨んでいないと、ランセルは言った。そうだろう。アルシラなら、きっとそう言う。それどころか、「言い訳にしてごめんなさい」と謝ってきそうな人だった。だから彼女がセインに何かを求める事などありえず、贖罪の機会を求めても、意味はないのだろう。
 俯いたままでは上手く呼吸ができなくて、セインは天井を仰いだ。目に映るのは木目のみだが、ガーフェルートの庭でアルシラと過ごした日々が、脳裏に色鮮やかに蘇ってくる。優しい思い出であるはずのそれらは今、優しさのぶんだけきつく、セインを責める。
 セインは自嘲した。そうやって少しでも己を責め、楽になろうとする弱さが、滑稽でたまらなかったからだ。
 いつになったら、本当の意味で強くなれるのだろう。
 歳を重ね、人の親になり、少しは安定したと思っていたが、そんなものただの思い込みだった。いつでも誰かに支えられ、ようやく立っているのが現状だ。
「ここがお父さんの部屋。多分今、ここにこもってると思う」
 もの思いに耽っていると、扉の向こうから、ふたり分の足音とソフィアの声が聞こえてきた。
 どうやらソフィアはようやくランセルを客間に案内する気になったらしい。歌が終わってからずいぶん経っていて、これまで一体何をしていたんだか、とセインは呆れた。
「で、貴方の部屋は、一番奥ね。隣がイリュウスの部屋だから、時々うるさいかも。そしたら言ってね。注意するから」
「大丈夫です。部屋があるだけでも、贅沢なほどなので」
「あ、そうか。旅芸人の一座にいたって言ってたもんね。じゃあ、イリュウスがどれだけいびきをかいても平気ね」
「かかねーよ!」
 どうやらイリュウスは部屋に居たらしい。乱暴に扉を開ける音と叫び声が、ほぼ同時に響く。その勢いのまま、「かくじゃない」「そんなにはすごくねーよ!」などと言った、くだらない言い争いがはじまった。
「まったく、しょうがないな」と、セインは小さく呟く。本気のいがみあいではなく、気心を許しているがゆえのやりとりで、父親としては微笑ましく思えるのだが、客に見せるものではないだろう。何より今の心情では、自分の幸せの象徴をランセルに見せつけている気がして、いたたまれなくなるのだ。そんな想いを抱えていると知ったら、アルシラは怒るだろうけれど。
 セインは立ち上がり、廊下に一歩踏み出した。
「あ、お父さん」
「とーさん」
 扉を開ける音と気配でセインに気付いた子供たちは、口論をやめて振り返る。
「元気なのはいい事だが、大切な客人相手に、情けないところを見せないでくれるか」
「今更見栄張ってもしょうがないと思うけど」
 肩を竦めてぼやくソフィアを無視し、セインはランセルに向き直った。
「さっき預ったやつな、だいたい読んだ。あとで少し、話できるか?」
 ランセルは真摯な瞳で頷いた。
「今からでも」
「そうか。じゃあ、荷物を置いたら部屋に来てくれ」
「はい。少々お待ちください」
 一礼して客間に向かうランセルの背中を見送ってから、子供たちに軽く手を振り、セインは部屋の中に戻る。
 椅子に腰かけると、ぎしり、と軋む音が鳴った。続けて、自身が長い息を吐き出す音。
 逃げ出したいと思わないだけ、昔の自分よりましになっているかもしれない――と思ってしまったのは、自分に甘すぎるからだろうか。


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