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七章



 客間の準備をしろと言われたが、父の知り合いは前触れもなく現れる事がたびたびあるので、常に綺麗にしてある。ソフィアが今やるべき事は、毛布など足りなかったり痛んでいる備品はないかを確認し、ランタンの油を補充し、窓を開けて新鮮な空気や日光を取り入れるくらいだ。念のため、戸棚の上に指を滑らせてみるが、埃が積もっている様子はまったくない。
 よし、完璧だ。たぶん。
 満足したソフィアは、ランセルが待つ部屋に戻るため、階下へ向かう。
 記憶を呼び覚ます音が聞こえてきたのは、ちょうど階段を下りきった時だった。
 廊下と応接間――と言うほど立派な部屋ではないのだが――を遮るはずの扉が、少し開いている。出ていく時に締め忘れたのだと気付いたが、反省する気も起こらないほど、ソフィアは漏れ聞こえてくる音楽に聞き入っていた。
 蘇るのは、遠い昔の記憶ではなく、ほんの二日前の事。昼は吟遊詩人が、夜は母が鼻歌で歌った曲が、今もソフィアの耳に届くのだ。
 吟遊詩人の声とよく似ている。同じだと言い切れないのは、人前で浪々と歌い上げる時の歌声と、軽く口ずさむ程度の歌声での、張りや響き方が違いすぎて、比べきれないからだ。しかし感情を突き動かすもの悲しい印象は、まったく一緒だった。
 その声は、応接間にソフィアが把握していない人物が居るのではない限り、ランセルのもの。
 ソフィアが短い距離を走り、扉を大きく開けて応接間に飛び込む。同時に、歌は止まった。驚いて呆けた様子のランセルは、ソフィアを見上げたまま、硬直しているからだろう。
「今、歌ってたの、貴方?」
 大股で歩み寄り、掴みかからん勢いで訊ねると、ランセルはまず謝罪した。
「き、聞こえてましたか。すみません。つい……」
「謝らなくていいから。もしかして、一昨日、噴水のところで歌ってたの、貴方!?」
「はい、そうです。その節は、銀貨をどうもありがとうございます」
「え、私の事覚えてたの? あ、そうか! だから、さっき店の前で声かけた時、反応が変だったんだ!」
「それは――はい、そうです」
 ソフィアはひとりで勝手に満足し、頷いて、ランセルの正面の席に腰を下ろした。
 本当なら、すぐにでも客間に通すべきかも知れないが、この少年にがぜん興味が湧いたのだ。中途半端な時間だし、少し話をするくらいいいだろう。
「ところで、貴方、歳はいくつ?」
「十六です。もうすぐ十七になりますが」
「じゃあ、同い年ね。と言っても、私は十六になったばかりだから、貴方のほうが少しお兄さんかな」
 ソフィアが微笑みかけると、ランセルは静かに頷いた。
 なかなか新鮮な反応だ。これまでソフィアが会話してきた同年代の少年たちは、ソフィアがそばで笑いかけようものなら、照れて慌てはじめたり、その気になって迫ってきたりする。どちらでもないランセルは、過剰に気を使う必要がなく、一緒に居て心地よい存在だった。
「だから、私にまで敬語使わなくていいのよ。お父さんとかも、気にする必要はないけど、貴方礼儀正しい人みたいだから、そっちは好きにして」
 はあ、とランセルは、消え入りそうな声で返事をした。
 体は大きく逞しいのに、本来それに比例して強いだろうはずの生命力が、まったく伝わってこない。失礼かもしれないが、闇に溶けて消えてしまっても、驚かないような影が彼にはある。
 ずっと苦労したのだろうか。悲しい想いばかりを抱えて、苦しんできたのだろうか。
 ソフィアの中で、単なる興味本位ではない、使命感のようなものが膨らみだした。それを人はお節介と言い、特にイリュウスあたりが「好きにさせてくれよ」などと言って迷惑がっているのを知っていたが、だからと言って放っておけないのが、ソフィアだった。
「あの日ね、たまたま通りがかっただけだから、貴方の歌、最後のほうしか聴けなかったの。もし良ければ、最初から聴かせてくれる? どんな物語なのか、気になるし」
「セインさんから聴かせてもらった事はないんですか?」
 どうやら敬語を止めるつもりはないらしいが、それについてソフィアは特に言及しなかった。他に気になった事があったためだ。
「お父さんが歌える事、知ってるの?」
「セインさんと俺は歌の師が同じで、俺の母親です。だから、当然知っているものかと」
「あ、そうなんだ。まあ、そうなのよ。お父さんも歌えるらしいんだけど、楽器の手入れしてないとか言い訳して、歌ってくれないの。照れちゃってるみたい」
 ソフィアがわざとらしく肩を竦めると、ランセルは小さく笑う。満面の笑みとはいかなかったが、それでも初めて見るランセルの笑顔は貴重で、ソフィアはなんとなく嬉しくなった。
「セインさんの気持ちは判ります。俺も未だに戸惑いがありますから。俺みたいな図体のでかい男が歌うような歌かと」
「どうして? とても素敵よ? 貴方の声によく合ってると思ったもの」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、少し自信がつきます」
 ランセルはとっくに冷たくなっている茶を飲み干した。そうして顔を反らす事で、照れ隠ししているようにも見えた。
「ご迷惑でなければ、今晩お世話になるお礼に、歌わせていただきます」
 言ってランセルは、荷物袋のひとつから楽器を取り出す。
 何本もある弦の上をすべる大きな手は、一昨日見た手と確かに同じだった。比例して長く太い指は、しかし器用に細い弦を選び取り、美しい音を響かせる。
 紡がれるのは、貧しい生まれの踊り子と、醜い顔に生まれたがために忌まれた王子の、偶然の出会いからはじまる恋の物語。互いの傷を埋めあうように惹かれあったけれど、ふたりの想いは誰にも許されず認められない。やがて踊り子は、ふたりの仲をよく思わない何者かの画策によって、舞の途中で果てる。曲の終盤、徐々に振るえが増し弱っていく弦の音は、愛しい人の亡骸を抱く王子の慟哭だ。
 胸が痛むのは、終わり方が悲しかったからではない。そう遠くない別れの日を覚悟しながら、それでも惹かれあうふたりの心を、美しい調べに乗せた低い声が、まるで目の前の現実であるかのように、伝えてきたからだ。
 歌が終わり響く音が全て消えても、ソフィアはしばらく余韻に浸っていた。落ち着く前に何かしたら、泣いてしまいそうな気がして。けれど、無反応なソフィアにランセルが戸惑いはじめている事に気が付くと、手の痛みや痺れを顧みず、力いっぱい拍手をした。
 ランセルはあからさまにほっとした顔をする。意外にも、表情がよく変わる人だ。
「ありがとう。すごく素敵だった」
「こちらこそ、ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
「お父さんに聴かせてもらわなくてよかった。やっぱりこう言うのは、本職の人の方が臨場感あるし、感情もよく伝わってくるもんね」
「本職、と言うほどでは」
 ランセルは小さく手を振って否定した。
「あ、そうなの? 一昨日もけっこう稼いでいたみたいだし、歌がお仕事なのかと思ってた。本当の仕事は別にあるのね?」
 するとランセルは、両目を硬く閉じた。体も少し縮こまったように見える。「余計な事を言ってしまった」とでも言い出しそうなそぶりだ。
「その……占いを」
「は?」
「占いです。似合っていないのは自覚しています。どうぞ、笑ってください」
 半ばやけになっているようにも聞こえる口調でランセルは言い捨てたが、ソフィアは少しも笑わず、目を輝かせた。
 ランセルの歌は繊細な情感が伝わってくる、人の心を掴む歌だ。それよりも占いが本職だと言うのなら、よほど当たるのだろう。ならば、聞いてみたい事があった。
 悩みと言うほどではないけれど、同年代の女の子たちと少し違う自分を、まったく不安に思わない自分に、「これでいいのだろうか」と思う事が時々ある。誰かに否定されたところで、すぐに生き方考え方を変えられるわけではないけれど、変えていくきっかけになるかもしれない。
「占いは、してもらえるのかな。私、知りたい事があって」
「それは……」
 ランセルは伏目がちにソフィアを見下ろし、やがて首を振った。
「未来など、知らないほうがいいです」
 そう呟いたきり、ランセルはぐっと唇を引き締め、薄く微笑みを浮かべたまま、何も言わなくなった。
 占い師が言うべき言葉ではない、とソフィアは思う。けれどランセルがそう言うので、ソフィアはもう訊くのをやめた。
 けれど、気になった。自分の未来が、ではない。ランセルの、己の仕事を否定するかのような言葉や、何かを諦めたような微笑みが、だ。
 けれど、聞いてはいけない気がした。少なくとも、今はまだ。


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