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七章



 ソフィアが店の入口近くに戻った時、すでにセインとランセルは対面していた。
 並んでみると、やはりランセルの方が少しだけ背が高いようだ。セインはランセルを見上げながら、懐かしいものを見るかのように、目を細めている。
 その温かな眼差しは、ソフィアたち家族に注がれるものと、何ら違いはないのではないか?
 懐かしそうにしているのは、懐かしい人の面影を、少年の中に見つけたからではないのか?
 疑ってかかるときりがない。ソフィアはふたりに気付かれないよう壁に身を隠し、耳をそばだてた。
「お前がランセル、か」
「はい。ランセル・フォスターと申します。はじめまして」
 ランセルは深々と頭を下げた。
「父親によく似ているな」
 嬉しそうに語る父の様子と言葉に、ソフィアは胸を撫で下ろした。セインがランセルの父親を他人として語った事と、セインとランセルがまったく似ていない事によって、ランセルが腹違いの兄か弟であると言う最悪の可能性から、免れたからだ。
「父親……」
「まあ、とにかく入れ。長い話になりそうだからな――ソフィア」
「え!?」
 隠れていたつもりだったのに名を呼ばれ、ソフィアは悲鳴に似た声を上げる。
「気付いてたの?」
「気付かないわけないだろう。聞き耳立てていた理由は聞かないでおいてやるから、茶でも入れてくれ」
「はーい、判りました」
 ここは素直に従おうと決め、ソフィアは元気に返事をする。父親と、「おかまいなく」と遠慮するランセルに微笑みかけてから、台所へ向かった。
 湯を沸かし、戸棚から茶葉を取り出す。手持ち無沙汰なせいか、壁に寄りかかりながら、色々と考えてしまう。今気にかかるのはやはり、ランセルと言う名の少年の事だった。
 生真面目で愛想は悪くないが、どことなく暗い空気が漂う少年だ。ソフィアが微笑みかけても笑い返してくれる事はなく、本来内向的な性格である父セインと比べても、陰気そうに見えた。それも人間の個性のひとつだとソフィアは思っていて、生来の気質であるなら悪い事ではないと思うのだが、何か理由があって心を閉ざしてしまったとすると、少し気になる。
 後で愛想笑いのしかたでも教えてあげようかな、などと考えながら、ソフィアは父とランセルが待つ部屋へ茶を運ぶ。ランセルの前にそれを出すと、会釈とお礼の言葉が返ってきた。
 うん、この人はきっといい人だ。暗いけど。
「どうして三人ぶんあるんだ?」
「え? 私のぶんだけど。駄目なの?」
 セインがランセルに目配せすると、ランセルは首を左右に振った。駄目ではない、と言う事だ。
 ソフィアが勝ち誇った笑顔で隣に座ると、セインは「しかたないな」と、ため息混じり呟いた。
 茶を出すだけで去るわけにはいかない。フォスター姓の人物が父セインにとって何なのか確かめるのが使命だと、ソフィアは感じていた。ランセルの母親が、父の前妻だとか、手を出すだけ出して捨てた婚約者や元恋人ではない事だけは判明したが、だからと言ってローゼンタール一家に害のない人物だと決まったわけではない。
「何をしに来たのだと、お思いでしょうね」
 小さく立ち上る湯気を見つめながら、独白するように語るランセルに、ソフィアは心の中で頷き、セインは左右に首を振って応じる。
「理由なんて何でもいいんだ。来てくれて嬉しい」
「本当は、来るつもりなどなかったのですが」
 言葉を途中で切ったランセルは、持ってきた荷物のうちひとつの中を探り、赤い表紙の本を取り出すと、そっとセインの前に置いた。
 表紙に何か書いてあるわけではない。けれど何か感じるものがあったのだろう、セインは神妙な顔で手に取り、表紙を開く。
 ソフィアは少しだけ父に身を寄せ、本の中身を覗き込んだ。書いてあるのは、日付や短文の羅列。どうやら、誰かの日記のようだ。
「母の日記です。俺を産んだ頃から止まっていますが」
「アルシラは今どうしているんだ?」
「ふた月ほど前に永眠しました。病気です」
「……そうか」
 父の口から知らない女性の名が出てきた事は、ソフィアにとって複雑だったが、しんみりとした空気と、悲痛に耐え切れずに伏せられた目を見てしまうと、責めたり問いただしたりする気にはならなかった。
 父にとって、大切な人だったのだ。その、アルシラと言う女性は。
「母の死後、遺品を片付けている時に、大事にしまいこまれたその日記を見つけました。母が一番幸せだった頃から、幸せが終わった時までが、綴られています」
「幸せの、終わり?」
「だから俺は、貴方に会いたくなったんです」
 ランセルのセインを見つめる目つきが、少しだけ厳しくなる。
 一番幸せだった頃、その幸せの終わり――終わらせたのが父でない事を祈る事が、今のソフィアにできる全てだ。父を見る限り、終わりを知らないようなので、少なくとも自覚を持って他者の幸せを壊したわけではないようだが。
「気にしないでください、と言っても、今更かもしれませんが……母も俺も、貴方を恨んでなどいないのです。貴方がどうしようと、母が迎える結末は同じだった。むしろ、誰かのためにと踏ん切りがついた事は、母にとって幸運だったと思います」
「ちょ……っと、待て、ランセル」
「俺は確かめたかったんです。母が大切にしていたものが、今どうなっているのか。母が望んだ通りの、幸せな結末を迎えているのか。それで、もしよければ、母がけして語ろうとはしなかった父の話を訊かせていただければ、と……貴方以外に、父の事を知っていそうな方が、思いあたらなかったので」
 セインは困惑を色濃く表したまま硬直し、何も言えなくなっていた。制止すら振り切ったランセルが語った事は、そう多くないが、セインに衝撃を与えるには充分すぎるほどの情報量だったようだ。
 何も知らないソフィアにも、ひとつだけ判った事がある。ランセルの暗い瞳が、母親の事を語る時だけ、優しく輝く事。その輝きから、彼の母親への愛情の深さと、愛する母を失った絶望から浮上するのにたった二ヶ月では時間が不足している事が、切ないほど伝わってくる。
 愛する母親を失った彼は、父を知らないせいで、寄る辺ない孤独の中に居るのだろう。だからこそ、母の生前にはさして抱かなかった父を知りたいと言う欲求に、突き動かされたのではなかろうか。
「アルシラたちのその後を何も知らない状態で、語ってやれる事はない」
 セインは頭を抱えながら、ようやくと言った体で、言葉をひねり出した。
「まず、この日記を読ませてもらっていいか?」
「はい。そのつもりで持ってきました。俺がここに現れ、両親の話をする事で、貴方は罪悪感を抱いてしまうかもしれないけれど、そんな必要はないのだと、その日記を読んでもらえれば判ると思って」
 無言で日記を見下ろす父の横顔を見上げながら、もう遅いのだろうな、とソフィアは思った。共に過ごしたのは十年程度だが、十六年間娘をしているソフィアは、父が基本的には自虐的な考えかたをする人間だと、よく知っていた。今も、小さく笑みを作る唇に、自責の念が見て取れる。
 それでも、家庭崩壊にならなかった事で満足していたソフィアは、ランセルを責めようとは思わなかった。日記を読む事で父が気落ちするなら、それでもいいと思う。きっと父や、もしかしたらローゼンタール家のために、必要な事なのだ。
「悪いが、俺はこれから部屋にこもる。ソフィア、客間の準備をしてくれるか」
「うん、判った」
「いえ、それは……!」
 日記を小脇に抱えて立ち上がるセインを呼び止めるため、ランセルは腰を浮かせる。
「そこまでしていただくわけにはいきません」
「気にするな。俺がこれを読み終えるまでに、どれほどかかるか判らんからな。俺が引き止めておきながら、宿に泊まらせるわけにもいかん……ただし」
 セインはランセルに歩み寄り、肩に手を置く。唇を耳元に寄せ、低めの声で囁いた。
「ソフィアに手を出したら命はないからな」
 思いのほか真剣な父の眼差しと声音に、ソフィアは吹き出す。部屋中にソフィアの笑い声が響く事で、妙な緊張に包まれていた部屋の空気がほぐれた。
 父が部屋から出ていくと、未だ戸惑いを隠せないランセルが、救いを求めるような目でソフィアに振り返ったので、ソフィアは満面の笑みで返した。
「ちなみに、お母さんに手を出したら、骨も残らないと思うから、気を付けてね」
「はあ……」


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