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七章



 開店前の仕込みの時や、閉店後の片付けの時など、客が店に居ない時に限ってごく稀に、母アーシェリナは鼻歌を歌う事がある。
 大抵は、ソフィアの知らない歌だった。「その曲何?」と訊ねた事もあったが、「この辺では流行ってない曲なのかしら。そもそも、流行ってないのかしら?」などとはぐらかされたので、それ以降聞かないようにしている。
 母の歌う歌は、母あるいは両親の出自に関わるのだろうと、ソフィアは予想していた。そしてソフィアは、両親がこの街の出身でない事は知っていながらもどこで生まれ育ったかを知らず、それは言いたくないか言ってはいけない事なのだろうと、おぼろげに理解していた。単純だが、駆け落ちか何かだろうと予想している。そう考えれば、若いふたりがものごころつく前の幼いソフィアを連れて旅をしていた理由が、しっくりくるのだ。両親が見知らぬ誰かに迷惑をかけただろう事が予測できてしまい、余計に気になってしまうのだけれど。
 そう言うわけで、母の鼻歌を耳にしても、いつものソフィアならば聞き流していたのだが、今日だけは違った。耳に届く旋律と、昼過ぎに聞き入った旋律とが、よく似通っていたからだ。
「その歌、今日、聴いたよ」
 ソフィアが話しかけると、母は食器を拭く手を止めて振り返った。
「どこで?」
「注文から帰ってくる時に、広場で。噴水のところで、吟遊詩人さんが歌っていたの」
「そう。じゃあやっぱり、有名な曲なのかしら」
 アーシェリナは納得した様子で、食器を拭く作業に戻った。
「お母さんはその歌、誰に習ったの?」
 ソフィアはおそるおそる訊ねる。何となく怖いので、一度でもはぐらかされたらもう訊かないようにしよう、と、変な決意をしながら。
「習ったわけではないのよ。昔よく、セインが聴かせてくれたから、覚えているの」
「お父さんが? どうやって?」
「どうって……楽器を弾きながら歌うに決まっているでしょう」
「え? お父さん楽器弾けたの? 歌えたの?」
「知らなかった? ああ、そう言えば、ソフィアが生まれてからは歌ってくれてないかもしれないわね」
「待て。お前ら、何の話をしている」
 ひょっこり顔を出したセインが、母子の会話を遮る。こころなしか赤面しているように見えるのは、気のせいだろうか。
「あらセイン。ちょうど良かった。ソフィアに歌ってあげれば?」
「嫌だ」
「なんでー! 聴いてみたいよ、お父さんの歌!」
「無理だ。歌うのをやめてから、楽器の手入れをしていない」
「曲、なくてもいいよ?」
「冗談じゃない」
 セインは早々に話を切り上げて、家の中に戻ってしまった。おそらく片付けを手伝いに来てくれただろう手を失ってしまったのは手痛いが、仕事はそれほど残っていないので、良い事にしておく。それよりも、照れた父を見た事実の方が、よっぽどおもしろくて貴重だった。

 ソフィアにとっての毎日は、穏やかで、単調で、けれど楽しく充実した日々。
 だが、この日はいつもと少し違っていて、店が久しぶりに定休日だった。当然客は来ないから、のんびりできる。けれど習慣と言うものはおそろしく、ソフィアは箒を手に、店の前の掃除をしていた。放っておくと、どこからか飛んでくる枯れ葉が、積もってしまう季節なのだ。
 通りかかるご近所さんや、今日が休みである事は知っているはずなのに訪れる常連客に挨拶をしながら、とりあえず掃除を終わらせたソフィアは、ふと気付く。店の入口の近くに立ち止まる、人影を。
 少年――だと思う。身長は父セインよりもいくらか高そうに見え、体格も良かったが、顔つきにはやや幼さが残っていて、同い年くらいだろうと予想できた。しかし、漂う雰囲気はどこか枯れていて、いくつか年上にも見える。
「うちに何かご用ですか?」
 閉じたままの店の入口を見つめる少年は、ソフィアが声をかけると、慌てた様子で振り返った。僅かに目を見張り、ソフィアを真っ直ぐに見つめたかと思うと、そのまま硬直する。
 ぶしつけなほど見つめられる事はよくある事だが、そうしてソフィアを見る青少年たちとは、少し違う気がした。何が違うかと問われると返答に困るのだが、あえて言うならば、彼がソフィアを見る瞳の中に、はじめて見るものへの興味や驚きと言ったものが、見つけられないのだ。それはソフィアにとって、嬉しい事なのだけれど。
「どうしました?」
 客に向けるものと同じ、満面の笑みで訊ねると、少年はようやく口を開いた。
「セインさんにお会いしたいのですが、こちらでよろしいでしょうか?」
 落ち着いた、けれど悲しい声だと思った。初めて言葉を交わした相手の声に感想を抱くのは、ソフィアにとってあまり経験がなく、自分の事ながらソフィアは少し驚いた。
 もしかすると、初めてではないのだろうか。何となくだが、この声には聞き覚えがあるような――
「何か?」
「いえ、何でも。ええ、ローゼンタール家がここなのは間違いはありませんけど……」
 そこまで語ってから、ソフィアは口を噤んだ。
 セインが冒険者としての第一線を退いてから何年も経過しているが、「西部諸国最強の戦士」の座は、未だに他の人物に譲っていない。だから、一時期よりは減ったものの、今でもセインに憧れ訊ねてくるものは多く、人付き合いがさほど得意ではないセインは、いつも困っていて、ソフィアは「そう言う輩が訪ねてきても追い返せ」と言われているのだった。
「父は、会わないと思います」
「それは……困りますね」
「そう言われると、私も困るんですが」
 率直に想いを述べると、少年はしばし俯いて考え込んでから、何か思いついたのか顔を上げた。
「俺の名前を伝えてもらえますか」
「はい?」
「俺の名は、ランセル・フォスター」
 ソフィアは戸惑い、家の中に逃げ込んでしまおうかと考えた。しかし少年の眼差しがあまりに真剣で、どうしても無視できなかった。
「その名を聞けば、会っていただけると思います。それでも駄目ならば、諦めます」
「わ……判りました。ここで待っていてください」
 ソフィアは踵を返し、家に飛び込む。
 最初に見つけたのは、アーシェリナと、四年前に生まれた妹のフィアナだった。たまの休みに、ここぞとばかりに幼い娘と戯れる母に訊いてみたところ、セインは庭でイリュウスの相手をしていると返ってきた。
 いっそ出かけていてくれれば「父は居ません」で済んで楽だったのに、とぼやきながら、ソフィアは庭に向かう。歩きながら、そうでもないかもしれない、と思いなおしはじめていた。「帰ってくるまで待ちます」などと言われるほうが、はるかに面倒で、それを言いそうな空気を、あの少年はかもしだしているからだ。
 庭に出ると、母に言われた通り、セインとイリュウスが戯れていた。とは言え、こっちの戯れかたは少々乱暴だ。互いにそこそこの長さの枯れ枝を手にしており、イリュウスはそれを両手で高く掲げてセインに跳びかかり、片手で巧みに操るセインに軽くかわされている。ふたりが遊ぶ時はいつもこれだ。よくもまあ飽きないものだと、ソフィアは常々感心しているのだが、イリュウスは遊んでもらっているつもりなどなく、戦士としての稽古をつけてもらっているつもりなので、飽きる飽きないの問題ではないのだろう。
「お父さん」
 割って入ると、イリュウスが恨みがましい目で睨んでくる。本気で修行しているつもりのイリュウスにとって、ソフィアは邪魔者なのだろう。気持ちは判るが、ソフィアのせいではないので、恨むなら訪ねてきた客の方にしてほしいものだ。
「お父さんに会いたいって人が来てるんだけど」
「知らない奴なら、断っておいてくれるか」
「断ったんだけど、それじゃ困るって言うの。名前を聞いたら会ってくれるはずだって。ランセルって言ってたけど、知ってる? 大柄だけど、多分私と同じくらいの歳の男の子」
 セインは眉を顰めた。明らかに、名前に覚えがなさそうだ。
 やっぱりな、とソフィアは思った。そもそも、ソフィアと同年代の少年とセインが知り合う機会など、そうそうないだろう。どうしてもセインと会いたくて、もっともらしい嘘をついたと考えるほうが自然だ。
 そこまで考えた直後、嫌な発想に辿り着いてしまい、ソフィアは身震いした。
 若かりし日の両親が駆け落ちした、と言うのは、ソフィアの中でほぼ決定事項だ。つまり、ふたりが結ばれる事を反対している何者かが居た、と言う事になる。大抵は、どちらかあるいは両方の、家族だろう。あの少年は、それなのではなかろうか?
 彼が本当にソフィアと同年代ならば、セインと直接面識があるとは考えにくい。ならば、甥か――いや、考えようと思えば、もっと最悪の状況も考えられる。結婚を反対される理由として一番ありそうなのは、結婚すべき相手が別にいる、ではなかろうか。婚約していたり、すでに結婚していたりと言った可能性も、なくはない。だとすると彼は――彼が伝えたかった名は、ソフィアが口にした方ではないのでは?
 穏やかな日常が、ローゼンタール家の幸福が、今日で崩壊してしまうかもしれない。けれど現実から逃げるわけにもいかないのだろう。自分の今の幸せが、両親の身勝手の結果なのだとすれば、両親と共に償わなければ。
 ソフィアは勇気を振り絞るために深呼吸をした。
「ランセル・フォスターって……言ってた」
 その名に過剰に反応し、居ても立ってもいられないと言う様子で走り去っていく父の背中を眺めていると、不安がより強くなる。
「あーあ、父さん行っちゃったじゃないか。なんで来るんだよねーちゃん」
 イリュウスがたいそう不満げに文句を言うが、ソフィアの耳には届かなかった。そのくらい、ソフィアの胸も頭も使命感でいっぱいだった。
 この憎たらしいけど可愛い弟や、楽しそうに過ごしている母や妹に代わって、自分が真相を確かめよう。
 そしてできる事ならば、この家の平和を守るのだ。


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