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七章



 太陽の光で透けてしまいそうなほど色素の薄い白銀の髪が、風に揺れながらちらちらと光を広げる。
 その少女が市場に現れると、いつも空気が一変した。肌は雪のように白くなめらかで、ほんのりと丸みのある柔らかな輪郭も、緩やかに弧を描く眉も、艶やかな唇も、すらりと通る鼻筋も、文句が付けようにないほど美しい。長い睫にふちどられた、少し釣り上がり気味の大きな瞳は、氷色に輝いていたがけして冷たくなく、温かな人間味に溢れている。
 少女が通る道に訪れるものは、まず静寂だ。しばらくして、騒然とする。ひそひそと語られる内容は、いつも似たようなもので、「あの娘は誰だ」「知らないのか? ほら、ローゼンタールの」「ソフィアさん、今日も可愛いなあ」などと、少女の美貌に驚き、褒め称えるものばかりだ。中には、顔を真っ赤にして立ち尽くす初心な青少年を、からかうような声も混じる。
 毎日それの繰り返しだから、注目を浴びるソフィア本人は、すっかり慣れてしまった。はじめは褒められて気分が良くなっていたが、今は違う。彼らにとって自分は珍獣のようなものなのだ、と思うようになっていた。それは嬉しいわけでも、不快なわけでもない、通り過ぎるだけの、ただの日常だった。ときおり、告白してきたり手紙を渡してきたりする者たち――中には互いの名も知らないのに求婚してくる者も居る――が現れて、日常に小さな異常が発生するが、それらは未だ恋愛に興味を抱いていないソフィアにとって、申し訳なくも瑣末的な出来事で、急いでいる時などは、いつも通っている肉屋や魚屋、八百屋への道の障害物に感じる事もある。
「おばちゃーん、明日の分の注文、お願いしたいんだけど」
 昼食と夕食の間、食堂に来る客が一番少なくなる時分に市場に注文に行くのが、ソフィアの日課だった。稀に半端な時間でも客が多く手が放せない時は、父セインや弟イリュウスに任せる事もあるが、これは自分の仕事だとソフィアは思っている。大した事ではないと笑われるかもしれないけれど、母が営む店で働く者としての、誇りだった。
 以前は母の指示を待ってから注文に行っていたが、最近では在庫状況からだいたい判るようになってきた。「ソフィアはしっかりしているから助かる」と、母は笑ってくれる。とは言え母は時々、ソフィアが書いた注文書を見て、「足りないわね」とか「多すぎるでしょう」とか、口を出してくるのだけれど。まだまだ修行が足りない、と言う事だろう。
「まいど。いつも通り、全部明日の朝に配達すればいいんだね?」
「うん……あ、林檎だけ、今日もらって帰ろうかな。イリュウスたちの明日のおやつ、作っておきたいし」
「はいよっと。ええと、全部で百十二ガメルだね。端数はおまけしてやるよ、百十ガメル」
「端数オマケなら、百にしてくれればいいのに」
「言うようになったねぇ」
 八百屋の女将は豪快に笑う。母が店を開いてから十年近くの付き合い続けてきただけあって、この程度のずうずうしいやりとりはいつもの事だ。女将はしっかりした人だから、ソフィアが値切れたためしはほとんどないけれど。
「百にはできないけど、この林檎代も明日まとめてでいいや」
「ほんと? ありがとおばちゃん。お小遣い使わなくてすむわ」
「しっかりしてる」
「いつか、おばちゃんに勝てるように修行中です」
 林檎を詰めた紙袋を受け取りながら、ソフィアは満面の笑みを浮かべる。すると女将はため息を吐きながら肩を竦め、袋の中にもうひとつ林檎を入れた。
「まけないけど、負けたから、おまけしてやるよ」
「ありがとおばちゃん! 大好き!」
「だったら、うちの息子の嫁に来てくれない?」
「そうね。息子さんが、うちのお父さんに勝てたら考える」
 女将はもう一度肩を竦め、首を振った。
「ソフィアちゃんならこの店も頼りない息子も任せられるんだけどねえ……」
 去り際に女将の呟きが耳に届いたが、ソフィアは聞こえなかったふりをして帰路についた。
 いつも良くしてくれる女将を落胆させてしまうのは気が引けるが、こればかりは仕方ない。魚屋の主人や金物屋の三代目、三件隣に住むお婆さんや、坂の下の店の主人にも、同じような事をしょっちゅう言われていて、どこかひとつにだけいい顔をするわけにもいかないだろう。そもそもソフィアはまだ、結婚に対する興味が抱けないのだ。父もそれならそれでいいと言ってくれるので、求婚を断る常套句として利用させてもらっている。今では西部諸国よりも先まで名が知れている西の勇者セインに勝てる男など、まず居ないからだ。
 結婚したくないと思っているわけではなかった。それどころか、願望は人並み以上だと思っている。出会ってから二十五年、ソフィアが生まれて十六年、結婚生活九年目――計算が合わない理由は大体知っているので気にしないでおく――を経過してもなお、父のそばで幸せそうに微笑む母を常に見ているので、「結婚って素晴らしい」という想いが心のどこかにあるのだ。時々、娘に対して惚気る母に呆れる事もあるが、それはそれで、本人にとっては幸せな事だろうと思う。
 時々不安になる。母が自分の年頃には、すでにお腹にソフィアを宿していた。産んでいたかもしれない。同年代の女友達の中にも、すでに結婚して家庭を持っている子が居るし、そうでなくても、この人が素敵だの、あの人が好きだの、その人と付き合ってるだの、と言う話を皆している。そんな中で、ろくにときめきもせず仕事にまい進する自分は、心のどこかが麻痺しているのではないかと、悩む事がまれにあった。
「ま、いっか」
 だからと言って悩みこまないのが、ルウェンソフィア・ローゼンタールと言う人間だった。
 早ければ良いと言うものではないし、皆と同じである事が良いわけでもない。自分らしくあればそのうち、自分らしい想いが生まれるかもしれない。その時考えればいいではないか、と思うのだ。
 林檎が詰まった袋を抱く手に少しだけ力を込め、ソフィアは小走りに駆けていく。賑やかな市場を抜けると、王城や市街地や工場などへ続く大きな道がいくつも伸びている広場に出た。
 街中を移動する上での要とも言え、故に人通りが多いその場所に、ソフィアは長居した事がほとんどない。中心にある噴水や広場を囲う並木などの景観は、それなりに見ごたえがあるかもしれないが、毎日ここを通っているソフィアにとっては、見惚れるほどのものではない。足を止める時があるとすれば、夏場に水の流れを眺め、気分的な涼を取りたくなった時くらいだ。
 そんなソフィアが、枯葉舞い散る風に乗って届く音に引き止められ、足を止めた。
 少し懐かしさを感じる弦楽器の音はなめらかに響き、低い声と調和する。男性の歌声だ。悲しい恋の物語を綴るそれは、物語よりもずっと切ない響きで、ソフィアの胸を突いた。
 秋に似ていると思った。みずみずしく青い輝きが枯れていき、急に世界の色が変わってしまう、そんな物悲しさ。
 ソフィアは広場を見回し、声の主を探した。人ごみや喧騒がこんなにも疎ましく感じたのは初めてだった。
 やがて見つけたのは、噴水の淵に腰かける人影だった。長い外套のせいで体格は判り辛いし、目深にかぶったフードのせいで顔はまったく見えないが、楽器を奏でる手が大きい事だけは判る。
 ちょうど曲が終わったようで、最後の旋律の余韻が消えると共に、周囲からまばらな拍手を受けていた。聴衆の中には銀貨を投げる者も居て、フードの人物は何度か頭を下げる。
 どうやら次の曲を歌う気は無いようだ。楽器をしまい、今にも引き上げようと言う雰囲気だったので、ソフィアは早足で近付く。そして何十枚かの銀貨が入っている箱の中に、もう一枚銀貨を入れた。たった一曲、しかも途中からしか聴いていないけれど、胸に響いた歌声に、何かしたいと思ったのだ。
 すでに客が散った後の事なので、フードの人物は驚いたようだ。動きを止め、じっとソフィアを見ている――と、思う。逆光とフードが作り出す陰で、顔がまったく見えなかった。
「素敵な歌を聴かせてくれてありがとう」
 精一杯の笑顔で礼を述べると、ソフィアはその場を去った。はじめは早足で、広場を抜けた頃には、駆け足で。
 急いで帰らなければ。また店が賑わうまでに、弟たちのおやつを作り終えなければならない。


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