六章

１０

「これで気がかりがひとつ片付いたな」
　長い下り坂の先にふたりの姿が消えるのを見守ってから、セインは呟いた。
「まだ何か気がかりが残っているの？」
　独白のつもりだったが、声をひそめもしなかったので、アーシェリナは聞き止めたようだ。ゆっくりと首を傾けセインを見ると、問いを投げかけてくる。
「旅の間出会った人々の中で、それなりに親しくなった奴らが、いくらかいるからな。そいつらが別れた後どうしているか、全員が全員判明しているわけじゃない」
「あ、そう言えば」
　アーシェリナは手を打ち合わせる。ぽん、と軽い音がなった。
「ごめんなさい、すっかり忘れてた。セインが先月仕事で家を離れていた間に、手紙が届いていたの。アークくんから」
「は！？」
「来月遊びに来るって書いてあったから、今月ね。もうそろそろ来るのかしら」
　とぼけた口調で語る様子は、とても謝っているようには見えない。いたずらを成功させた子供のように、無邪気で嬉しそうなものだった。
　アーシェリナにそんな顔をさせるのは、自分のせいでもあるのだろうと、セインは予想する。自身の口元に手を運んでみると案の定、無意識に笑みを浮かべていた。そのまま覆い隠してみるが、今更意味はないだろう。
「アークくんはお願いしなくても、しょっちゅう遊びに来てくれそうね。だから嫌でも判るわよ。今どうしているのか」
「そうだな」
「心配するのは止めないけど」
「誰が心配するか。殺そうと思っても死なないぞ、あいつは。したたかだし、他人に取り入るのが上手い」
「そうかもしれないわね。ソフィアに手紙を読んであげたら、貴方の事すっかり忘れて、『アークお兄ちゃんいつ来るんだろ』ばっかり言っていたもの」
「……ほほう」
　セインが微笑みに僅かな殺意を混ぜ込むと、アーシェリナは小さく吹き出した。
「どうする？　アークくんがうちの息子になってしまったら」
「ソフィアといくつ離れていると思っているんだ」
「そうねぇ。ラキシエルさんとライネさんの歳の差の、半分くらいかしら？」
　アーシェリナの口調も、表情も、明らかにからかっているだけなのだが、一気に現実味が増した気がして、セインは言葉を失った。
「さ、もうすぐ開店時間ね」
　ゆるく吹く風にひとつに纏めた黒髪をなびかせながら、アーシェリナは振り返り、店の中に戻っていく。
　セインも後を追おうとしたが、いったん足を止め、目を細めて坂の下を見た。
　当然、ラキシエルたちの姿は見えなかった。ふたりは旅に出たのだ。いつまで続くか判らない、長い旅に。
　けれどいつか、手紙が届くかもしれない。どこかに定住してのんびりくらしている、なんて書かれた手紙が。そこにはもしかすると、若い嫁をもらったとも書いてあるかもしれない。
　ただ静かに、その日を待とう――雑踏を見つめながら、セインは決意する。
　必ずその日が訪れる事を信じて。

Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.