INDEX BACK NEXT


六章



 セインとアーシェリナに挟まれて立つ小柄な少女の瞳は、薄暗く曇っていた。
 恵まれた幸運への喜びも、快活さも、勝気さも、明るささえも覆い隠され、見て取れるのは悲哀のみ。自分が背を向ければその瞬間、大粒の涙がこぼれ落ちそうで、ラキシエルは目を反らせないでいた。
 だが、ずっとこのままでいるわけにはいかない。ラキシエルは薄く微笑みながら、別離の言葉を述べる。
「それじゃあ、元気でね、セイン。アーシェリナさんも、よろしくお願いします。それから、ライネ」
 最後に名を呼ぶと、怯えたように目を反らしたライネの体が、小さく跳ねた。
 間違っていたのだろうか。この選択は、ライネの望まないものだったのだろうか――何が正しいのか、ラキシエルにはもう判らなくなっていた。
 だからこそ、これでいいのだと諦めがついた。ラキシエルには判らないが、ライネには判るはずだ。これがどうしようもない間違いだと言うのなら、判っているはずのライネが黙って受け入れるはずがない。ラキシエルを殴り飛ばしてでも、道を修正するはずだ。
「頑張ってね。君の夢が叶う事を祈ってる。旅先で、君の名前が聞ける日を待っているから」
 するとライネは、硬直気味だった腕を必死に伸ばし、ラキシエルの袖を掴む。震える指は力の加減ができないようで、きつい皺が生まれた。
「ラキシエル」
 呼ぶ声に、意志が宿っていた。
 深呼吸を挟んで、ライネは顔を上げる。瞳に宿る感情にほとんど変化はなかったが、ひとつだけ、新たな輝きが生まれていた。勇気や決意と言った、強い力だった。
「どうしてボクが戦士になりたいと思ったのか、気付いてないよね」
「う……うん」
 突然の問いは予想だにしていなかったもので、困惑したラキシエルは、少し上ずった声で答える。するとライネは、納得したような、落胆したような、複雑な表情を見せた。
「ラキシエルがいつも、とある戦士の話をしてくれたから、だよ」
「とある戦士」が誰の事を示しているのか、ラキシエルはすぐに理解した。一瞬だけ視線をセインに移してから、またライネに戻す。
 確かにライネの言う通りだった。セインの話をしようと思っていたわけではないが、怪我が治るまでの間、寝台で寝てばかりいた彼女がせがむのは外の話ばかりで、ラキシエルが知る外は、セインと旅した世界が主だった。必然的に、同行していた戦士の話を沢山する事になっただろう。
「その人の話をしている時のラキシエルが、一番楽しそうだったし、落ち着いた顔してた。だから、ボクは思ったんだ。村で三年も過ごしながら、なんとなくよそ者だったラキシエルが、仲間として一番信頼していたのは、その戦士なんだろうって」
「それは……」
 否定はできなかった。
 旅を続けるために村を離れる時を見計らっていたラキシエルは、村人たちに本当の意味で心を開かず、距離をおいていた。仲間に、村の住人になる事を、恐れたが故に。
「だからボクは戦士になりたかったんだ。ラキシエルの話の中に出てくる戦士に。ラキシエルに信頼されて、ずっと一緒に旅をする戦士になりたかった」
 潤んだ瞳が、ラキシエルを見上げる。
 痛かった。いつも見上げてくる少女の瞳が、どうして今こんなにも胸を刺すのか、ラキシエルには判らない。自身が動揺する理由と、ライネの言葉の意味、その双方を理解しようとしたが、上手く思考できなかった。
「でもね、違った。違ってた事に、今更気付いたんだよ、ボクは」
 ライネは微笑んだ。柔らかく、消え入りそうなほど儚く。
 言動に年齢以上の幼さが残る少女が、急に大人びたように見えて、ラキシエルは戸惑った。
「ボクは戦士になりたかったんじゃない。ボクは……本当は、フィアナランツァになりたかったんだ」
 ライネの指から力が抜け、ラキシエルの袖にかかる力が消えた。
 手を離す事が、ライネなりの決別の儀式だったのかもしれない。そう感じた事が妙に物悲しくて、物悲しいと感じる事が不思議で、ラキシエルの手が震えた。
 フィアナランツァを知らない少女が、フィアナランツァを語る。
 目を伏せずとも蘇る面影は――けしてライネに重ならない。
「君は、フィアナにはなれないよ」
 思わず呟く。見て取れる表情から、ライネが傷付いた事が伝わってきたが、ラキシエルは撤回も謝りもしなかった。
 だってフィアナランツァは、すでに失われたひとりだけ。誰もフィアナランツァにはなれないし、とって代わる事もできやしない。
「フィアナになる必要なんて、ないんだよ」
 ラキシエルにとってフィアナランツァは、過去の象徴だ。
 対してライネは、未来の象徴なのだと思う。
 だから、ライネはライネでいいのだ。彼女がライネだからこそラキシエルは、想像できる気がした。過去の罪を忘れ肩の力を抜いて生きる日々などと言う、けして許されない未来に、彼女が導いてくれる事を。
 だがそれはあくまで想像だ。現実であってはいけない。
 フィアナランツァと出会う事で生まれ変わったラキシエルの心は、フィアナランツァと共に眠りについたのだから。
「ラキシエル」
 ため息混じりのセインが、ライネの背中を軽く押す。
 体勢を崩したライネは、一歩分だけラキシエルに近付いた。
「悪い。俺の稼ぎが悪いせいで、うちの生活、意外と厳しくてな。やっぱり預かれそうもない」
 西部一の戦士と言う肩書きや、繁盛する店を見せつけておきながら、よく言えたものだ。呆れすぎたラキシエルは、何も言えなかった。
「俺が許すよ、ラキシエル」
 セインがつまらない冗談の次に口にした台詞は、あまりにも痛くて、ラキシエルは硬直した。
 あれほど言ったのに。許されるのは辛いと。
 セインだけは判ってくれると思っていたのに。
「上手い言葉が見つからないから、お前の言葉を引用させてもらう」
 セインはひとつ咳払いを挟んでから続ける。
「お前がどんなにお前を責めようと、俺も、フィアナランツァも、とっくにお前を許しているんだ。お前が自分を責め続けているところを見るのは、辛いからな」
「セイン」
「だから、もしお前が、自分自身が幸せになる事を許せなくても、許してやってくれ。俺やフィアナランツァのために、救われてくれ」
 別れの日、確かにラキシエルは、似たような事をセインに言った。「忘れないで」との願いを伝えながら。
 忘れないでいてくれた事が嬉しくて、送った言葉を返された事がくすぐったくて――それでも確かに救われている自分がここに居る事が、情けなくて、幸せだった。
 ラキシエルは目を伏せる。あの日のセインのように涙はこぼれなかったが、瞼の裏に残り続けるフィアナの残像が、少し掠れたような気がした。
 失う事が恐ろしくて、慌てて目を開ける。そこには心配そうに見上げてくるライネが居て、ラキシエルは微笑む事でごまかした。
「そう言われてもなあ。ボクは急に生き方を変えられるほど、器用でも若くもないんだよ」
「ラキシエル……!」
「でも」
 やや声を荒げるセインを諌めるため、自分自身に言い聞かせるため、ラキシエルはすぐに言葉を続ける。
 無意識に拳を固く握りしめていた。
「もしかしたら、少しずつならば、変わっていけるかもしれないね」
 ラキシエルとセインは、どちらからともなく微笑んだ。とても静かで、穏やかな気持ちで。
 そうしてようやく、ライネも笑った。心からの笑顔は、ラキシエルが別れを告げた夜以降、はじめてのものだ。
「ライネ」
「うん」
「僕なりに努力はしてみるつもりだけど、頑張ったからって、変われるとは限らないんだ」
「うん」
「だから、貴重な時間を無駄にする事になるかもしれないよ、とか言っちゃうと、自惚れすぎなのかもしれないけど」
「うん」
「それでも良ければ、僕と一緒においで」
 ライネは数瞬顔を強張らせて、それから大粒の涙を次々と溢れさせた。くしゃくしゃの泣き顔を見られたくないのか、手や腕で隠しながら、頷く。何度も何度も、呆れるくらいに。
「うん」
 涙声で短く答えると、とうとう耐え切れなくなったのか、ラキシエルに飛びついてきた。
 胸の中で泣きわめく姿は、やっぱり幼子にしか見えなくて、ラキシエルは苦笑しながら長い息を吐くのだった。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.