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六章



「しばらくはラバンに滞在するのだろう」と問われ、ラキシエルは肯定した。
 次に「部屋は余っているから泊まっていくか?」と聞かれたが、ラキシエルは断った。すでに宿を取っており、そこに荷物などを置いてきているから――と言うのは建前で、胸の奥で未だ生々しく血を流し続けている、見ないようにしていた傷を、セインに暴かれたような気がして辛かったからだった。少なくとも今日はもうセインの顔を見たくない、と思ってしまっている。
 旅など、やめてしまえばいいのだろうか。どこかの街や村にとどまって、医者として小さな世界を守りながら、慎ましく生きていけばいいのだろうか。それでいいのだと、フィアナの弟であるセインが言ってくれているのだから。
 だがラキシエルは、どうしても許せない。フィアナにした事を忘れて普通に生きていく自分を想像するだけで吐き気がするほどだ。
「フィアナ」
 記憶の中にいる大切な人の名を呼びながら、倒れ込むように寝台に転がったラキシエルは、小さく灯る燭台の明かりを眩しく感じ、両腕で目元を覆った。
「フィアナ」
 名前を呼んでも返事はないと判っていながら、もう一度呼ぶ。
 その掠れ声に、外から扉が叩かれる音が重なった。ラキシエルは首を傾けて扉を見たが、気だるくて返事をする気にはなれなかった。
 沈黙のまま時が流れる。扉の向こうの人物は、もう一度扉を叩くでも、声をかけてくるわけでもなかったが、しかし立ち去る事もしない。待っているのだ。ラキシエルが何かしら反応する事を。
「ライネ?」
 予想される人物の名を呼ぶと、ゆっくりと扉が開く。しかしライネは、部屋の中に入ってこようとせず、隙間から部屋の中を覗くだけだ。その表情は珍しい事に、落ち込んでいると言うか、申し訳なさそうにしていて、あのライネにそんな顔をさせてしまうほど今の自分の状態が酷いのだと、ラキシエルは自覚せざるをえなかった。
「そんなところに立ってないで、入っておいで」
 自然と浮かび上がる自重気味な笑みを噛み殺してから、ラキシエルは上体を起こし、ライネに向けて手を伸ばした。
 ライネの表情が少しだけ明るくなる。けれどいつもの元気は取り戻せないままだ。ライネはおそるおそると言った様子で部屋の中に足を踏み入れ、ラキシエルの前に立った。
「西の勇者になんか、会いに来なければよかった?」
 訊ねられたラキシエルは、できるかぎり優しく微笑みながら首を振った。
「そんな事はないよ。僕は村で暮らしていた時からずっと、彼がどうしているか気になってたから、会わせてくれたライネに感謝してる」
「本当に?」
「もちろん」
 力強く肯定してもなお、ライネは明るさを取り戻さなかった。涙を堪えているようにも見える――ラキシエルがライネに気を使い、無理して嘘をついているとでも思っているのだろうか。たとえそれが真実でも、ライネが気にする事ではないと言うのに。
「あの、ね。あのね、ラキシエル」
「ん?」
「訊いてもいい?」
「うん」
「フィアナって、誰?」
 ライネの小さな唇からこぼれ落ちた問いかけは、あまりにも予想通りだった。やっぱりな、と、思わず呟いてしまう。ライネに聞こえないように、かすかに。
 ラキシエルは俯いてライネから目を反らしたが、現実から目を背けるつもりはなかった。心と脳を落ち着かせるためにゆっくりと呼吸を繰り返してから、自身の傍らを軽く叩く。
「話すよ。少し長くなるかもしれないから、座りな」
「う、うん」
「君には、いつかは話さなきゃいけなかったんだ。一番の犠牲者なんだから」
 ぽすっ、と軽い音を立てて腰かけるライネは、覗き込むようにラキシエルを見上げた。
 生意気で、小馬鹿にする事が多いライネだが、根本には自分を慕う心があるのだと、ラキシエルは知っている。普段のラキシエルがどれほど頼りなく情けなくても、彼女にとっては命と夢の恩人だから、だ。
 けれどラキシエルがライネを救った事に、別の魂胆があったのだと知った時、彼女はどう感じるのだろう。
 胸が疼いた。それはやがて心臓を握り締められるかのような痛みへと変わっていく。
「フィアナはね、セインのお姉さんなんだ。本名はフィアナランツァ・ローゼンタール」
「綺麗な名前だね」
 ライネが羨ましそうに呟いた。
「そうだね。でも、彼女は名前だけじゃなくて、姿も心も綺麗だったよ。汚く貧しい通りの中で、フィアナだけが嘘みたいに輝いていて――僕は彼女に出会ってすぐ、心を奪われた」
 恋のはじまりがいつだったかなんて決めても無意味だろうけれど、あえて決めるのならば、出会ったあの日。苦痛が身と精神を執拗に責めていただろうに、それでも微笑んでくれたフィアナに、ラキシエルは恋をした。
 忘れられない、忘れたくない、あの日から抱いた感情。自分の中にそんな綺麗な部分があるとは思っていなかった頃の事。
「フィアナには婚約者が居たけれど、僕は彼女がどうしても欲しくてたまらなかった。フィアナが婚約者の事を愛していたら引き下がれたかもしれないけれど、違うって思いはじめたら止められなかった。彼女が僕を愛してくれていると判ってからは、なおさらね」
 十年近い時が過ぎても、昨日の事のように思い出せる。腕の中に居たフィアナの温もりも、白い頬を流れた涙の輝きも、嫌いだと繰り返す震えた声も。全ての記憶がいとおしく、今に続いていない現実が悲しかった。
「それまでの僕は、貧しい人たちを診て賞賛を浴びる事を生きがいにしていた小さな男だったんだけど、その日から金の亡者に変わったんだ。金持ちだけを診察して、いちいち大金ふんだくって、そりゃもう必死でお金を貯めたよ。大切なフィアナに見向きもしないでね。だから僕はちっとも気付かなかった。彼女が生まれつき肺が弱かった事にも、それを悪化させていた事にも。気付いた時には、ロマール一の天才医師と呼ばれていた僕にさえ手の施し用がない状態だった」
 微笑みながら永遠の眠りについたフィアナを思い出すたび、胸が熱くなり、涙が出そうになる。
 けれど失った直後は、ずっとフィアナの事ばかり考えて、涙を流していたはずだ。時が流れると共に涙は乾き、凍りついた表情はほぐれはじめ――寝ても覚めても思考を支配していた女性の面影を、片隅に避けている事もしばしばだ。
 忘れてはいけない、この熱さを。
 フィアナは死んでしまった。だから、彼女が生きられるのは、記憶と想いの中だけなのだ。ラキシエルが忘れてしまえば、フィアナランツァは本当に消えてしまう。
「だから、旅に出て、世界中の色んな人を治療してあげたの? 助けられなかったフィアナの代わりに救ってあげようとして? ボクもその中のひとり?」
 ラキシエルはしっかりと肯いた。
「そうだよ。以前僕は言っただろう? 僕が君を助けたのは、君のためではなく僕のためだって。君はたまたま僕の目の前で重症を負ってしまったせいで、僕の贖罪に巻き込まれてしまったのさ」
 語るたびに増すものは、罪悪感。
 結果的にライネが救われたのは事実だ。しかし、自身の都合に付き合せただけだと言うのに、純粋な感謝を受ける事が正しいと、ラキシエルには思えなかった。
「そうだ。お詫びと言っては何だけど、僕からセインに頼んでみようか? 君を弟子にしてくれるように」
「え、何で?」
「何でって、君は戦士になりたいんだろう? 強い戦士に弟子入りするのは、その近道じゃないか」
 驚いたライネはしばらくの間、大きく口を開けたまま固まっていた。
「ラキシエルはこれからどうするの? ラバンに住むの?」
 ようやく動き出した時は、怯えた小動物のような雰囲気を漂わせていた。問いかける口調は、少し早口になっている。
 ラキシエルは小さく首を振った。
「そんなわけないだろう。僕の贖罪の旅はまだ終わっていないからね。僕はひとりで旅に出るよ」
「でも」
「こんな、戦士を目指す人なら喉から手が出るほど欲しい機会、二度とないと思うよ。知らない人の中で暮らすのは、はじめは寂しいかもしれないけど、君ならすぐに慣れるよ」
 ライネは答えない。唇を固く引き締めたまま、大きな瞳でラキシエルを見つめる。
 憧れの戦士に師事できるかもしれない、と言う事態の大きさ気付いていないのだろうか。気付いた上で、受け入れるのに時間がかかっているのだろうか?
「ライネ?」
 いぶかしんだラキシエルがライネの名を呼ぶと、大きな双眸は大粒の涙をこぼしはじめる。表情から読み取る限り、嬉し涙ではなさそうで、ラキシエルはまずうろたえた。
「え、ライ……」
 ラキシエルが再びライネの名を紡ぐよりはやく、ライネの右手が動いた。ライネは枕を手に取ったかと思うと、それをラキシエルの顔面に叩きつける。
 痛みはさほど強くない。けれど肉体的にも精神的にも衝撃は大きく、ラキシエルは言葉を失った。
「ばか!」
 現状を受け入れられないまま呆然としているラキシエルに、ライネは更に言葉でたたみかける。
「ラキシエルは、何も判ってない!」
 吐き捨てるように叫んだライネが部屋を飛び出そうとしたので、何とか自分を取り戻したラキシエルは咄嗟に手を伸ばし、その細い腕を掴み取った。逃れようと暴れる力は思いの他強く、彼女が戦士を志している事実が疎ましいほどだった。
「僕が何を判ってないって?」
 訳がわからなかった。ライネが癇癪を起こしている理由も、ライネの言葉も。理解できない苛立ちにラキシエルは、大人げない言動に走った末に、ライネを怒鳴りつけてしまった。
「君は戦士になりたいって言ってただろう? 西の勇者に憧れて、最強の女戦士になりたいって。僕はその夢を叶える手伝いをしたいと言っているだけなのに、どうして馬鹿にされないといけないんだよ!」
「放せよ!」
「それとも、戦士になりたいって夢は嘘だったって言うのかい? 僕は今まで、君の嘘に付き合わされていたって?」
 ライネの動きが止まり、手にかかる負荷が軽くなったのは、突然だった。
 静かになると同時に冷静さを取り戻しはじめたラキシエルは、まず息を飲んだ。じっと床を見下ろすだけで何も言わないライネを見下ろしながら、ついさっきまでの己を思い返し、急激に恥ずかしくなった。十以上も歳の離れた女の子相手に、なぜ感情的になってしまったのか。馬鹿にされるなんていつもの事だったし、枕を投げつけられる程度の暴力なら、むしろいつもよりかわいいくらいだ。
「えっと、ライネ。その……」
「だから」
「え?」
「だからラキシエルは大馬鹿だって言うんだ!」
 ライネは振り向く勢いまでも利用し、ラキシエルの頬を力任せに叩いた。
 ひきつるような頬の痛みと、耳元に響く音に驚いて、ライネを掴んでいた手の力が緩む。その隙にライネは身を離し、数歩分の距離をおいた。
「っつ……」
「びっくりした。本当に判ってないとは思わなかった。でも、結局同じだよ。判ったふりをする、ずるい大人と」
 ライネは目を、顔を、朱に染めていた。目じりには僅かに、輝くものが。
 それでもライネは、ひとつ大きな深呼吸を挟むと、微笑んだのだった。
「ごめん。困らせたかったわけじゃないんだ。いいんだ。多分、それも、嬉しいんだと思う。西の勇者の弟子なんて、なかなかなれるもんじゃないしね」
「ライネ……」
 ライネは呼びかけにはけして応じず、ただ一呼吸挟むのみで続ける。
「ありがとう、ラキシエル」
 最後にそれだけ言って、ライネは再び駆け出す。
 今度は引き止める気にならず、ラキシエルはただ見守った。開け放たれた扉も、徐々に遠ざかっていく足音も。
 やがて動く気力を取り戻し、扉を閉めるついでに通路を覗いてみたが、ライネの部屋の扉は固く閉ざされていて、ラキシエルに開かれる事はないだろうと思えた。
「おやすみ、ライネ」
 届かないだろうと判っていて、ラキシエルは語りかける。ただ言いたかっただけだった。声に出す事で満足して、自身の部屋の扉を閉ざし、ライネが訪ねてくる前のように、寝台の上に戻った。
 僕は間違っているのかな、ライネ。
 間違っているとして、それはもう、取り返せない過ちなのかな。愛する人を見殺しにした時のように。
 ラキシエルは目を伏せる。静けさは耳だけでなく、心にも僅かな痛みを残した。


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