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六章



「ここで長話もなんだろう」と言って、セインはラキシエルたちを家の中に通してくれた。
 セインくらい体格のいい男では通るだけで精一杯と言った大きさの扉が厨房の奥にあり、そこをくぐると食材置き場になっている小さな部屋がある。部屋には店と反対側にもうひとつ別の扉があり、その向こうが、セインたち家族の生活空間となっているようだ。
「お店の方はいいの?」
 積みあがった箱や樽の間をすりぬけ、案内されるがままセインの背を追うラキシエルが問うと、セインは振り返らずに頷く。
「俺は戦士としての仕事で居たり居なかったりだからな。アーシェリナははじめっから、俺の事を店の方の戦力として数えていない。もちろん家に居る時は手伝うが、有名人が表に出てくると面倒だとかで、よほど手が足りない時でもないかぎり、裏方の仕事以外は手伝わないでくれと言われている。さっきはめずらしく、手が放せないから食材の注文に行ってきてくれと頼まれて行っていたんだが」
 セインの口から出る「アーシェリナ」との呼び方のさりげなさに、今日で何度目になるか判らない喜びを感じたラキシエルは、ごまかすために冗談混じりの口調で返した。
「じゃあ、セインの方が主夫なんだ」
「いや、うちには別に、おそろしいほど優秀な主婦が居る。家の中の事も手伝っているだけだな」
「つまり、戦いに出ないと立場がない」
「否定はしない」
 ひとりきり笑いあった頃に案内された場所は、椅子が六つほど備え付けられている大きな食卓が目立つ部屋だ。しかしラキシエルたちが部屋に足を踏み入れた時に使われていた椅子は、そのどれでもなく、部屋の隅に置かれた幼児用の寝台のそばにある、足も背もたれも短い小さな椅子だった。
「ただいま、ソフィア」
 セインが帰宅を告げると、座ったまま寝台の中を覗き込み、足をぶらぶらと振っていた女の子は、勢いよく振り返る。
「おかえりなさい。お父さん」
 あと五年もすれば街中の男が放っておかない美少女になるだろう。そう容易に想像できるほど、愛らしい子供だった。
 顔立ちは、アーシェリナをそのまま幼くしたかのように、欠点のない整った顔立ちをしている。しかし、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳の氷色や、床を蹴るだけで跳ねまわってしまう細く柔らかな髪の白銀は、セインと同じだ。
 アーシェリナはその美貌に髪や瞳の暗い色合いが相まって、何とも言えない艶のある存在感をかもしだしているのだが、この少女は同じ顔でもまったく逆だ。儚い色合いが美貌を際立たせ、異世界の妖精のように、触れようものならすぐに消えてしまいそうな繊細な雰囲気を漂わせていた。
「洗濯物、たたみ終わったよ」
「早いな」
「うん。そんなに量なかった。でもソフィア、箪笥の上のほう届かないから、お父さんしまっておいてね」
「ああ。後でな。イリュウスは?」
「だいじょぶ。ぐっすり寝てる」
「そうか。ひとりで留守番ごくろうさん」
 セインはソフィアと呼んだ少女の頭を、少し乱暴に見えるほどかき回す。端から見たラキシエルには、半ばいじめているように見えるのだが、表情を見る限りソフィアは嬉しそうにしているので、喜ぶ事が判っていてセインはそうしたのだろう。
 しかし、妖精のようだと思った直後に、ずいぶん所帯じみた事を口走ってくれる。ラキシエルの胸の中に、幻想を打ち砕かれたかのような失望感が生まれた。だがそれは僅かな事で、それ以上に楽しかった。きっと彼女が、先ほどのセインが語った「おそろしいほど優秀な主婦」で、かつてのセインが語った「セインとアーシェリナの間に生まれた娘」なのだ。
 目の前に広がる仲の良い父娘の図は、ラキシエルに教えてくれる。ソフィアと言う血の絆に怯えていた頃のセインは、もう居ないのだと。
「お客さん?」
 父親とのじゃれあいに満足して余裕ができたのか、ソフィアはラキシエルたちの存在に気付く。乱れた髪を整えながら、大きな目でラキシエルを見上げた。
「ああ、こいつはラキシエル。俺の――何だ?」
「ん?」
「おいラキシエル、お前、俺の何だ?」
「何だろう。友達でいいんじゃない? 何なら、義兄でも」
「昔の知り合いだ。久々に会いにきやがった」
「ふうん」
 ソフィアは胡散臭そうにラキシエルを見つめたが、それも一瞬で、すぐに態度をあらため、ぺこりと頭を下げた。
「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくり」
「あ、どうも。おじゃまします」
 挨拶を終えると、ソフィアは満足げに微笑む。ぱたぱたと子供特有の重い足取りで、部屋を出て行った。
 気を使ったか、大人同士の会話はつまらないと察して立ち去ったのだと思っていたラキシエルだが、それぞれが椅子に腰かけたころ、違うのだと察した。ソフィアは三人分の飲み物を乗せた盆を手に、再び部屋に戻ってきたのだ。
「お茶どうぞ」
「あ、ありがとう」
「ああ、いい、ソフィア。盆からおろすのは俺がやるから」
「ほんと? じゃあ、はい」
 ソフィアは父親に盆ごと飲み物を託すと、ラキシエルたちに向き直った。
「ご飯は食べますか?」
「えっ……と、でも、急にふたり分増やすの、大変じゃないかな?」
「ううん。ご飯はいつも、お店で出しているのと同じなので」
「あーそうか、そうだよね。じゃあ、せっかくだから、いただいてこうかな」
「わかりました。お母さんにそう伝えてきます」
 もう一度ぺこりと頭を下げて、ソフィアは部屋を出ていく。しばらくしてまた戻ってきたが、今度はラキシエルたちに近寄ってこず、最初に座っていた椅子の方へと向かった。寝台の中を一度確かめてから、座りなおす。
「しっかりしてるねぇ」
 感心して、思わず呟くラキシエルだったが。「ライネにも見習ってほしいよ」とは、思っていても口にしなかった。
「ああ。しっかりしなければならない状況に追いやった身としては申し訳ないと思うのだが、やはり頼もしいな」
「ところで、そこに寝てるのは……」
「去年生まれた長男だ。イリュウスと言う」
「へえ! 見てもいい?」
「さっき出かける前にようやく寝ついたばかりなんだ。起こすなよ」
「判ってるよ」
 とは言え、この部屋に入ってから普通の会話程度ならし続けているわけで、余計な音を立てない程度で大丈夫だと思いつつも、ラキシエルは精一杯足音を殺し、寝台に近付いた。
 一歳になったかならないかくらいの小さな子供が、健やかな寝息を立てている。目を閉じているし頬の線が丸すぎているので判りにくいが、おそらくアーシェリナ似だ。だが彼はソフィアと違い、髪の色や質感もアーシェリナと同じだった。
「かわいいねえ」
 同様に子供を覗き見たライネが、目を輝かせて呟く。それを聞いたソフィアが、嬉しそうに何度も頷いた。
「君も子供をかわいいと思う心を持っているんだね」
「ラキシエルは、ボクの事を何だと思ってるの?」
 何、と問われると困る。ライネが普通の女の子のような反応をした事に、安堵しつつも純粋に驚いただけだ。
 返すべき言葉を探して考え込んでいると、ライネがみるみる不機嫌になっていく。何か文句を言いたくなったのか、大口を開けた――ところで、ソフィアが人差し指を唇に押し当てた。多少の冷静さを取り戻したライネは、無言でソフィアに誤ってから、食卓の方へ戻る。
「俺の近況は見てもらった分と話した分でほとんど全てだが、お前の方はどうなんだ?」
 三人が席に着くなり、セインは話を切り出した。
「どうって聞かれてもね。僕は変わらないよ。戻った、と言った方がいいかな。最近までは、あの村で医者をやっていたんだけど」
「なるほどな。お前の旅は、まだ続いているのか」
 ラキシエルは苦笑した。
「終わるわけがない。君だって――君が一番、知っているはずだろう?」
 目を細め、手元を見下ろす。無意識に震えていたのか、茶の表面に僅かな波紋が生まれた。
 旅は、ラキシエルにとって贖罪だ。だから終わらない。フィアナに許されたと思えるその日まで。そしてラキシエルは、どうすればフィアナに許してもらえるのかが判らないから、旅はこれからも長く続くのだ。ラキシエルが力尽き倒れるその時まで。
「終わらせ方が判らないんだよ。あの村で暮らした三年間、こんなに長く休憩していていいのかと、不安を抱え続けたくらいにね」
 セインはひと口だけ茶をすすり、器を食卓に戻す。乾いた音が小さく響くと同時に、セインの、ラキシエルを見下ろす視線が変化がした。
 優しさや穏やかさがどこかに消えた、冷たさを感じる瞳。けれどそれはかつてのセインが見せていた、拒絶するような眼差しではなく、怒りをたたえたものだった。
「ラキシエル、お前は誰のために旅をしているんだ?」
 落ち着いた声音で発せられた問いかけは、ラキシエルの気に障るものだった。
 他の誰が疑問に思い、質問してきてもいい。けれど、セインだけは。セインだけは、その答えを判ってくれていると信じていた。
「誰、って……」
「フィアナランツァのためだと言うのなら……いや、他の誰のためでも、フィアナランツァが関わっているのならば、今すぐやめろ。お前に罪などないのだから」
「は?」
 思わず失笑をもらしたラキシエルだが、それを謝ろうと言う気にはなれなかった。
「よりによって君がそんな事を言うなんて、フィアナが可哀想だ」
 フィアナランツァが若くして亡くなったのはラキシエルのせい。誰が何と言おうと、それは真実で、現実だ。
 もしかするとセインは、判った上で許そうと言ってくれているのかもしれない。それはとてもありがたい事だと思うが――絶対に許してはいけない事が、この世にはある。
「フィアナランツァが可哀想な理由は、お前に恨み深い女だと思われている事だろう」
「……!」
 ラキシエルは無言で唇を噛んだ。手が、勝手に拳を作る。
 そんな事、言われなくても判っていた。
 華やかな世界から急落し、けして明るくない人生を歩みながらも、フィアナランツァは純粋な優しさや思いやりを失わずに生きていた。そんな彼女が、ラキシエルが見殺しにした事で短い人生を終える事になったからと言って、ラキシエルを恨んだり憎んだりしないだろう。微笑んで、なかった事にしてくれるだろう。
 けれど。
「君なら、判ってくれると思ってた」
 突き刺すようなセインの視線から逃げるために俯いたラキシエルは、喉の奥から声を絞り出した。
「許されるべきではない事を許される事が、どれほど辛いか」
 判るはずだ。セインなら。ラキシエルと共にあった頃のセインは、それで苦しんでいたはずだから。アーシェリナに、ソフィアに、許される事など望んでいなかったはずだ。
 今のセインは、ふたりの許しを受け入れたのだろう。だから平気で、ラキシエルにも同じ事をしろと言うのだろうか。
 けれど、自分とセインは根本的なところが違っている。アーシェリナたちには未来があるのだ。セインはアーシェリナたちと家族になり、温かな未来を築き、ふたりを幸せにした。これからも、幸せにするだろう。それは謝り続けるよりもずっと素晴らしい事で、セインは良い選択をしたと、ラキシエルは思う。
 だが、ラキシエルにはできない事だ。フィアナはもう居ないのだ。何をしたって、フィアナを幸せにする事はできない。
 ならば、謝り続けるしかないではないか。
「僕は、弱いんだよ、セイン。フィアナに恨まれていなければ、生きていけないくらいに」
「ラキシエル……」
 セインはラキシエルの名を呼んでくれたが、それ以上は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 ラキシエルも何も言えなかった。ただ背中を丸め、握りしめた拳を震わせる事しかできなかった――細い指が、ラキシエルの手にそっと触れたその時まで。
「泣かないで」
 いつもの乱暴だったり小馬鹿にしたりする声とは違う、優しい声。
「馬鹿だな。泣いてなんかないよ」
 きっと声と同じだけ優しい目で自分を見つめているだろう少女に振り返ってしまえば、本当に涙をこぼしてしまいそうな気がして、ラキシエルは俯いたまま、小さく首を振った。


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