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六章



「ライネ」
「なんだよ」
 美女から目を反らせないまま、ラキシエルはライネに話かける。
 返ってくる声音はけして明るくはなかったが、機嫌が回復している事が判る程度には優しくなっていた。ラキシエルがアーシェリナを凝視しながらも、けして見惚れてはいないから、だろうか。
「名前、知ってる? 西の勇者の」
「あれ? 言ってなかった? ごめんごめん。セイン、だよ。西の勇者セイン」
 ああ、やはり、そうなのか。
 ラキシエルはこみあげてくる喜びに胸が詰まって熱くなり、何も言葉にできなくなっていた。
 アーシェリナと言う名は、何度も聞いた事がある。傷付いた繊細な心を守るため、排他的にならざるをえなかった少年が、心の中で慈しんでいた女性の名。その名を語る時だけ、かの少年の声は特別優しくなったものだ。
 誰よりも愛情を求めていた少年を、誰よりも愛してくれる人。セインが、もっとも必要としていた女性。その女性が今、彼と同じ姓を名乗り、幸せそうに微笑んでいる――その事実が何を意味するか判らないほど、ラキシエルは愚鈍ではなかった。
「セイン……」
 喜びのあまり涙が出そうだ。けれどラキシエルはその本能的な欲求に耐えた。もし泣いてしまうとしても、今ここでは相応しくない。どうせ涙するならせめて、二度目の偶然、もう一度会える事を信じて待っていてくれた、セインの前で。
「よかったね、ライネ」
「何が?」
「けっこう格好いいよ、西の勇者。噂は完全に嘘じゃなかったね。すっごい、がつくほどの美形ではない気がするけど、綺麗な顔をしているよ」
 気持ちを紛らわそうと、冗談混じりに言ってみるラキシエルだが、ライネは訳が判らないと言った様子で、反応に困っていた。
 ラキシエルとて、半分はそうだ。突然訪れた現実に対処しきれず、混乱している自分もいる。夢かもしれないと思う心があるのだ。
 だが、そんな迷いも、耳に飛び込んできた声によって、完全に払拭された。
「ただいま」
 それは帰還を告げる言葉。帰るべき場所がある人間のみに許された言葉。ラキシエルが知るかつての彼は、その言葉を紡ぐ事を許されていなかった。
 声も少し変わっている気がする。優しさは、アーシェリナについて語っていた時によく似ていたけれど、それ以上に違うのは、明るさだ。暗くくぐもっていた声に、希望が宿ったよう。
 そこから伝わってくるのは、幸福や、充足感。
 失われたのは、闇色の絶望感。
「お帰りなさい、セイン」
 入口に振り返ったアーシェリナは、そう言って夫を迎え入れた。
 だがラキシエルは、振り返れなかった。周辺環境も、声も、セインの今の幸福を伝えてきているけれど、希望が克ちすぎてそう感じるだけで、本当は違うのかもしれないと、確かめるのが怖くて。
 縋るように、ラキシエルはアーシェリナを見上げる。視線に気付いたアーシェリナは、見る者に安心感を与える微笑みを浮かべた。
「ラキシエル?」
 懐かしい、けれど知らない声で、名を呼ばれる。
 だからラキシエルは、恐怖を乗り越えて振り返る事ができた。
 ずっと望んでいたのだ。ラキシエルも、フィアナも――彼が幸せである事を。だから、振り返った先に立っている青年の冷たい色合いの瞳に、温かみだけが存在している事が判ると、歓喜のあまり息が詰まった。
 眼差しだけで判る。彼は今、間違いなく、幸福の中で生きている。生きる支えを、希望を、理由を手に入れた彼は、代わりに死を望んでいた頃の陰りを失い、生き生きとした人間味を取り戻している。三年前、突き放す事を恐れていた頃が、嘘のように。
「久しぶり、セイン」
 ラキシエルは涙をこらえ、微笑んだ。
「久しぶりだな、ラキシエル」
 お返しとばかりに、セインも微笑む。
 その笑みがあまりにも優しくて、ラキシエルは戸惑った。
 久しぶりと口では言っているが、雰囲気が変わりすぎていて、まるで初めて出会った人物のようだ。それでいて心地よい懐かしさを感じるのは、フィアナランツァに似た空気を感じるからだろうか。
「元気そうで何よりだよ」
「お前もな」
「ちょ、ラキシエル、知り合いなの? 西の勇者と!」
 状況を理解できていないライネが、ラキシエルの袖を引き、耳元で疑問を囁いた。
「うん。だって彼は……」
 どうやらライネは、関係性の説明を求めていたわけではなく、はっきりと肯定して欲しいだけだったらしい。安心しきった顔でラキシエルの隣に陣取り、憧れの戦士である西の勇者との距離を縮める。セインを見上げる瞳は熱っぽく、まるで恋をしているようだ。
 今日まで耳にしてきた噂が大きく外れていない事も、ライネを興奮させる要因のひとつになっているようだった。目の覚めるような美女を隣にしては霞んでしまうが、充分綺麗と言っていい顔をしているし、服の上からでも見てとれる鍛え抜かれた体躯や、西の勇者と言う名に恥ずかしくない堂々とした雰囲気は、人を引きつける魅力がある。ライネのような戦士志望でなくとも、若い少女が憧れる対象として、相応しい存在だとラキシエルは思った。
「西の勇者を、こんな間近で見られるとは思わなかった」
「まったくだよね。僕に感謝してもいいんだよ」
 ラキシエルが得意げに胸を張ると、ライネは呆れた様子で息を吐く。
「ラキシエルも、このくらい格好良ければなあ」
「え、何それ。酷くない? だいたい、身長とか顔は僕のせいじゃないから、親に言ってもらわないと」
「身長と顔以外は怠慢だって認めるんだ」
「ライネに格好良く見られるよりも大切な事のために頑張って生きてきたつもりなので、認めません」
「ははっ……!」
 放っておけばいつまでも続いたかもしれない、子供っぽい言い争いを止めたのは、セインの笑い声だ。セインはすぐに口を押さえて止めたので、笑い声がしたのは僅かな時間だったが、ふたりの声を奪うには充分だった。
 憧れの人に笑われてしまったライネは、恥ずかしそうに俯く。対してラキシエルは、セインが声を上げて笑った事に驚いて、セインを凝視した。
 そうか。君は、声を上げて笑えるようになったのか。
「すまん。つい、おかしくてな」
「いいよ。今のは、笑われて当然な会話だった。子供みたいだったよね」
「そうだな。俺と旅していた頃よりも、はるかに」
「僕って意外と、同行者に影響されやすいのかもしれないね。あの頃の君は彼女に比べてはるかに物静かだったから――っと、そうだ、セイン、彼女の事覚えてる? 三年前、はしゃぎ回って木登りしたあげく、落ちて大怪我したあの女の子だよ。名前はライネ」
 嫌味をたっぷり込めて紹介すると、ライネはさっきまでの可愛らしい表情を瞬時に消し去り、憎々しげにラキシエルを睨んできた。
「ああ、あの時の」
「そう、結果的に僕が後の世で西の勇者と呼ばれるほどになる優秀な戦士の護衛を失うきっかけになった事件の主犯だよ」
「……歩けるのか?」
「僕の治療と歩行訓練の甲斐あって、将来の夢に『最強の女戦士』って掲げられるくらいにはね」
「そうか。良かったな」
 セインは視線をライネに移し、力強い笑みを浮かべる。
「ならば、ラキシエルの一番格好良い部分を、一番近くで見てきたんじゃないか」
 憧れの人に見つめられ、話しかけられたライネは、みるみるうちに頬を上気させた。どうしていいか判らないのか、救いを求めるような目でラキシエルに振り返ったかと思うと、瞬時に現実を見つめなおしたらしく、しらけた様子でラキシエルを再び睨むのだった。
「格好良かったかなあ……」
 聞こえよがしに、ぼそりと呟くライネ。
 恩を着せるつもりはなかったが、命の恩人に対してそれはないんじゃないかと、抗議の意味を込め、ラキシエルは盛大なため息を吐いた。


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