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五章 episode2



 灰色の空間の中に、セインは立っていた。
 灰色と言っても、全てが同色に塗りつぶされているわけではない。一面の乳白色に、ときおり闇が混じりる事によって、まだらな模様が灰色に見えるのだ。
 その中で、セインはひとりきりだった。
 セイン以外の人物はおろか、生物と言えるもの、かすかな音すら存在せず、心細さによる不安に胸を締めつけられた。自身の胸倉を掴みながら、「いくつになっても俺は孤独に慣れる事ができないのだな」と自嘲ぎみに呟くと、乾いた笑みを浮かべながら、周囲を見回した。苦しみから開放してくれる拠りどころが何かないか、捜すために。
 唐突に、背後に光が生まれた。強いものではないが、それでも縋れるものを見つけた気がして、セインは振り返る。
 光の中には影が生まれていた。そこから何かが生まれるのかもしれないと、セインは目を細めながら眩しさに耐え、じっと影を見つめる。
「ああ……夢か」
 影を眺めているうちに冷静になったのか、ふとセインは、その事実に気が付いた。
 気付いたからには、光から生まれようとしているものが何であえるのか、すぐに予想できた。夢に見るのは、いつも同じだ。ずっと心の中心にいるけれど、けしてそばには居ない、何年も捜し求めている女性。
「……誰だ?」
 しかし、やがて現れたのは、どうやらアーシェリナではなさそうだった。逆光によって顔はまだ判別できないが、銀色の髪の持ち主のようなのだ。アーシェリナの持つ、艶かしく波打つ黒髪ではない。
(何を捜しているの?)
 影の線を見る限り、年頃の少女のようだ。セインが知る銀髪の少女と言えば、レンシアか姉のフィアナランツァくらいだが、発する声はそのどちらのものでもなかった。不思議な声だ。懐かしいようでもあり、はじめて聞くようでもあり、そのふたつが混じりあったようでもあり。そもそも、耳から伝わる声とは、少し違っているようにも感じた。
「誰だ」
 セインは再度問うた。
(私の事、忘れちゃった? それとも、判らないのかな。しかたないかもしれないけど)
 光がゆっくりと消えていく。セインはようやく、少女の姿をはっきりと捉える事ができるようになった。
 セイン自身と同じ、白銀の髪と氷色の瞳。けれど顔立ちはアーシェリナによく似ていて、美貌は輝かんばかりだ。
 そんな容姿を持つ少女を見た事はない。けれどセインは、自分はこの少女を知っていると直感し、あまりにも自然に少女の名を呼んでいた。
「ソフィア」
 呼ぶと、少女は満足そうに微笑みながら頷く。
 やはりこれは夢なのだと、セインは確信した。会えない時間に見違えるほどの成長をしているだろうが、それでもソフィアはまだ六歳だ。目の前の少女のようになっているはずがない。
(そうよ、お父さん)
 ソフィアを模るものが、自分を父と呼ぶ事実に、セインは息を飲む。押さえ込んでいた感情が、胸中で渦巻きはじめた。
 ソフィアは、その誕生を無条件で祝福された子ではない。彼女の誕生を望んでいたのは、母親であるアーシェリナだけだからだ。
 セインは望まなかった。ソフィアの存在によって、アーシェリナと自分の間にできる更なる絆を恐れ、ソフィアが生まれてくるその日まで、毎日、何度も、生まれてこなければよいと願った。
 アーシェリナが自分をどう想い、自分がアーシェリナをどう想っていようと、セインはアーシェリナと主従であり続ける事を望んでいた。そうして守りながら、美しい主が彼女自身に相応しい相手を見つけ、幸せになる日を見守りたかった。その日のため自由であり続けるべきアーシェリナが、よりによって自分との間に子を成し、血の絆を形成するなどと、セインにとっては絶対に認められない事だった。
 罪の意識と逃亡生活に追いつめられていたとは言え、正常な判断力を失っていた過去の自分が腹立たしい。そもそも自分には、あの美しい人に触れる権利などありはしないのに、柔らかな唇に、甘い吐息に、理性を奪われた日の自分自身が恥ずかしく、呪わしいほどだった。
 だが、生まれてきてしまえば、その小さな生命は、確かに愛しい我が子だった。
 小さな生命を産み落とした少女は、誰よりもセインを愛してくれる人で――セインが、誰よりも大切に想う人だった。
 だから、後悔したところで遅いのならば、大事にしたかった。それまで以上に守り、支え、愛し、慈しみたかった。
 けれど。
「ソフィア」
 けれど、そばに居る事すら、今のセインにはできない。
 それが今まで自分が犯してきた罪を償うための罰なのだとすれば、仕方がないと思う。苦しむのが自分ひとりならば、受けて当然の罰だ。
 だがもし、アーシェリナとソフィアが、セインを必要としてくれるのならば。
 そんな贅沢な事を願う権利すら自分にはないと思っているセインだが、心は勝手に望んでいた。
「どうしてお前が出てきたんだろうな」
(私がお父さんに会わなければいけなかったから)
「そうか」
(でも本当は、お父さんになんて会いたくなかったのよ?)
 ソフィアは笑顔のまま、セインの心を抉る言葉を吐き出した。
(お父さんがあまりに酷いから、会いにこなければいけなかったの。お父さんのせいでお母さんはすごく苦しんで、何度も泣いて……それなのに、よくもそう、平然と生きていられるなって思って)
 目の前の少女は、本物のソフィアではない。
 むしろ、セインそのものだ。セイン自身が思っている事を、ソフィアの姿を借りて言っているにすぎない。
 だが、どうしてこれほど胸が痛むのか。姿が、声が、違っているだけだと言うのに。
(うぬぼれないでね。私にもお母さんにも、貴方なんて必要じゃないから)
「……そうか」
(万が一の奇跡なんて、信じないでよ。だいたい、誰が貴方なんかを必要とするのよ。馬鹿みたい)
 言われなくても、そんな事は判っている。誰より自分自身が思っている事だから――だからこそ、このソフィアが言うのだ。
(お父さんなんて、いなくなっちゃえばいいのに)
 瞬間、セインは表情を失った。ざわつく心は、奇妙な静寂に包まれた。
 唇が、体が震えだす。「やめろ」と呟く言葉は空気に溶けたのか、ソフィアどころかセイン自身の耳にすら届かなかった。
 お前も、その罪を犯すのか?
 背中から赤黒い液体を溢れさせた男の体が床に倒れ込み、その向こうに、アーシェリナが佇む。手を、赤黒く染めて――脳裏にちらつく、思い出したくもない光景を振り切ろうと、セインはしきりに首を振った。
 お前も、母と同じ方法でその手を汚すのか?
「やめろ、ソフィア!」
 それだけは駄目だ。それだけは止めねばならない。
 アーシェリナは気付かぬうちに汚れていた。レンシアも、止める事はできなかった。だから、今度こそ。
 せめてお前だけは。
(死んでしまえばいいのよ!)


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