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五章 episode1



 ラキシエルと共に過ごした日々の中では、あまり夢を見なかった。医療に従事する彼の手伝いは忙しない上に、意外にも肉体労働が多く、大抵夜には疲れ果てており、夢を見る隙がないほど深く眠ってしまっていたからだ。
 それでもときおり夢を見る時には、必ずと言っていいほどアーシェリナが登場した。幼少の頃の何も考えずに笑いあっていられた日々であったり、ソフィアを抱きながら見せる母親の穏やかな笑みであったりと、アーシェリナが見せる姿はいつも違っていたが、セインが思い詰めた時、自分を詰りたいほど落ち込んだ時に見る彼女は、二種類しかなかった。セインの手によって切り裂かれた白い肌から血を滲ませて涙をこぼすアーシェリナか、白い手を鮮血で汚すアーシェリナか――そう、まさに今見ている夢のように。
 夢の中のアーシェリナは、セインを見つけると、つつましく、けれど華やかに、微笑む。その美しさは、彼女の手を赤く染めるものと相反していて、人血の醜さを余計に際立たせる結果となっていた。
 夢の中のセインは、アーシェリナの手を取り、顔を埋める。そうする事でセイン自身も汚れたが、けれどアーシェリナの手が綺麗な白に戻る事はなかった。
 セインは悲しかった。自身の弱さが憎らしかった。意志でもいい、腕っぷしでも。自分がもっと強ければ、生にしがみつき、自分の手で生を掴みとり、自分だけが汚れる事で終わったはずなのに。

 夢から覚めたセインは、目に映る空がすでに薄明るくなりはじめている事に気付く。
 慌てて身を起こし、火を挟んだ向こうがわに居るはずのアークの姿を探した。アークは膝を抱えたまま眠っていた。火はほとんど消えかけていて、アークがそれなりの時間眠っていた事に安堵しつつ、人里はなれた場所で見張りもなく眠っていた事実にぞっとした。自分も、アークも、無事でよかった。
 とりあえず火の世話をして勢いを取り戻すと、セインはひと息つき、アークの様子を確認する。かぶっていた毛布が半ばずり落ちていて、寒そうにしていたので、そっとかけなおしてやった。しかし、よくもこんな体勢で熟睡できるものだ。よっぽど疲れているのだろう。つい昨日まで家庭と言う温かな場所で庇護されていた少年が、外の世界に出、長時間歩き続けたのだから、当然と言えば当然だった。
 従順なのかわがままなのか、考えなしなのか賢いのか、単純そうに見えて意外に複雑なこの少年の、背中を押したもの。それは色々な要素が混じりあっているのだろうが、一番大きいのは、勇気であり、つまりは彼の強さだとセインは感じていた。
 なれるだろうか、自分も。この少年のように、大切な人を迷いなく守れるほど、強く。
 ――なりたい。今度こそ、守りたい。
「うわっ!」
 突如、びくりと体をはねさせて、アークは跳び起きた。寝ぼけた目に、すでに起きて活動をはじめているセインを映すと、慌てて立ち上がろうとして、けれど上手く立ち上がれず、膝で歩くようにしてセインに近付いた。
「すみません、寝てしまいました!」
 セインはわざと聞こえるようにため息を吐いた。
「馬鹿か、お前は」
「す、すみません! ちゃんと起きているつもりだったんですけど」
「そっちの意味ではない。見張りは交代でして当然のものだろう。眠くなったのなら、どうして俺を起こさなかった」
「いえ、弟子として、雑用をこなすのは当然の事かと」
「俺の足に、徹夜でついてこられると思っているのか?」
 アークは返す言葉を失ったようで、何も言わず縮こまった。丸まった肩が、どうしようもないほど悲しげだ。よほど落ち込んだらしい。
「まあ、朝まで眠りこけていた俺も悪いがな。運良く魔物も獣も出なくて本当によかった」
「すみません……」
「もういい。とりあえず俺は顔を洗うついでに水でも汲んでくるから、お前は朝飯でも食ってろ」
 セインは立ち上がると同時に、保存食が入った袋をアークに投げた。まだ寝ぼけているのか、一度顔面で受けてから手にしたアークは、まだ落ち込みから立ち直っていないようだが、少しだけ嬉しそうに微笑んでいた。許されて安堵したのか、セインが気を使った事に喜んでいるのか――昨晩の食事と比べてしまえばお世辞にも美味いと言えない保存食に、急ぎぎみでかじりついているあたり、単純に空腹で、何か食べられる事が嬉しかったのかもしれない。
「まずいだろう」
「そうでもないですよ」
「朝は仕方がないが、夜はましなものが食いたい。何を作るか、考えておけよ。いくら美味くても、同じものを続けて食うのは飽きるからな」
「はい!」
 元気の良い返事を聞き届けたセインは、アークに背中を向け、近くを流れる小川に向けて歩き出す。
 アークから再び声がかかったのは、三、四歩進んだ頃だろうか。
「あの、師匠」
 寝起きの頭にしては意外に早く気付いたな、と、アークに聞こえないように呟いてから、セインは振り返る。青灰色の大きな瞳が、朝日を受けて輝いていた。
「お言葉ですが」
「なんだ?」
「次の村まで、確か、四半日もかからなかったと思うんですけど」
「それくらいの事、お前に言われずとも知っているつもりだが、それがどうかしたか?」
「だって、確実に、夕食よりも、前に……」
 セインは微笑んだ。昨日までの、頑なにアークを拒否していた自分とは違う事を、言葉にせずとも伝えるために。
「出発の準備をしておけよ」
 確信を得たアークは、顔中を喜びでいっぱいにして、しっかりとした足取りで立ち上がると、敬礼した。
「はい、師匠!」


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