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五章 episode1



 冷たい空気で冷やされた肌にふりそそぐ、木漏れ日の温もりに誘われるようにセインは顔を上げた。
 周囲にはセイン自身の倍以上の高さがある大木が立ち並んでおり、茂る青々とした葉が幾度も重なり合っている。それによって視界は制限され、ずっと高くにあるだろうよく晴れた青空は、セインの目にほとんど映らなかった。
 薄暗い世界だった。小動物やら鳥やらの気配をいくつか感じるだけで、人の姿はまったくない。気分転換のつもりで、わざとそう言う道を選んだ――ラキシエルと共に旅していた頃は馬車があったため、大きめの道しか通れなかったので、違う道を進んでみようと思った――のだが、あまり良い選択ではなかったのかもしれない。静けさが、ひとりで歩く身にしみるのだ。
 四歳の時に家を失ってからこちら、色々な境遇を経験したが、自分は本当の意味での孤独を知らなかったのだろう、とセインは思う。自ら心を閉ざし、ひとりきりになりたがった頃もあったが、自分のそばにはいつも必ず、優しい誰かが居てくれた。姉のフィアナランツァであったり、アルシラであったり、ラキシエルであったり――アーシェリナであったり。
 今セインは、本当にひとりだった。心理的にひとりになってしまった頃に比べて悲しくはないのだろうが、どうにも寂しい。耐えられないほど辛いわけではないのだが、わざわざこの道を選び取った事は愚かに思えた。
 一昨日降った雨で未だ湿った土を交互に踏みしめる足の動きが、少し早くなった。無意識に、空が見えるところに行きたがっているのかもしれない。
 だがセインは、すぐに足を止めた。耳にかすかに届く喧騒によって、張りつめていた空気が歪み、引き裂かれたからだ。
 音がした方向を睨み、セインは走り出す。何やら自分でも判らない強い不安が、胸を支配した。状況が、思い出したくない過去に似ているからかもしれない。雪山の道を進み、妖魔の爪によって倒れ、大切な人と遠く離れてしまったあの日に。
 走ったのはさほど長い距離ではなかった。少し開けた場所に出ると、まだ幼いと言って良いかもしれない少年を、二匹のゴブリンが襲う光景が目に飛び込んできた。
 細い、いかにもひ弱そうな体つきの少年は、すっかり怯えきっているようだ。腰を抜かし、地面に座り込んでいる。もはや全てを諦めたのか、両目を固く閉じていて、その姿はまるで安らかな眠りを神に祈っているように見えた。
 セインは武器を振りかざし、惨劇によって終結を迎えようとしている小さな世界に飛び込んだ。
 一年ほど前に立ち寄った街の武器屋で見つけ、以来愛用しているルーサーン・ハンマーと呼ばれる武器は、槍と斧、それに槌の機能を兼ね備えた武器で、長く、重く、かなりの力がないとふるう事ができない。その代わり絶大な威力があり、セインが一撃、鋭利な刃を脳天に食い込ませると、一匹のゴブリンは大量の血を撒き散らし、あっさりと昇天した。
 仲間が一瞬にして肉塊と化した事に怒りでも覚えたのか、残されたもう一匹のゴブリンは、もはや少年になど見向きもせずに、セインに向き直る。牙を剥き、爪を見せつけ、唸りながら飛びかかってくるが、セインは片足を軸に軽く回転する事で避けた。
 こんな相手に苦戦し、命を落としかけた日は、たった数年前の事だと言うのに、遠い過去のように思える。
 次の一匹は一撃で倒す事はできなかったが、斧で切りつけ、槍で喉元を突くと、それで終わりだった。下品な咆哮は耳に痛かったがそれだけで、乱暴に振り回される爪も、不潔なよだれにまみれた牙も、一度としてセインを傷付ける事なく、地に落ちた。
 ひと息つくとセインは、少年に向き直る。
 あまり目つきが良いとは言えないが、なかなか整った顔立ちをしていた彼は、すでに恐怖の対象が消えているはずなのに、地面に座り込んだまま動こうともせず、髪と同じ青灰色の大きな目で呆然とセインを見上げている。あれほど恐れていた魔物を、ひと振りで叩き切った武器を持つ男が、新たな恐怖の対象になった――と言うわけでもなさそうだ。
 よく見ると、少年の耳は、エルフの血が混じっている証として、少し尖っていた。ハーフエルフは迫害されると聞くが、それ故に他者への対応のしかたが判ず、戸惑っているのだろうか?
 理由はどうあれ、セインはおとなしく彼の反応を待つ気はなかった。セインは、腹を立てていたのだ。迫りくる魔物を前に、何もせずただ目を閉じ、来るべき最後を待っていた少年に対して。
「立て」
 冷たい声でセインが命じると、少年は反応し、足に力を込める。だが上手く力が入らないらしく、立ち上がれなかった。
「立て、と言っているだろう」
 仕方なくセインは少年に歩み寄り、首根っこを掴むと、引き上げる。そうして近付いた少年の顔を覗き込み、目を細めて睨みつけた。
「俺はな、自分から死にたがる奴は大嫌いなんだよ」
 率直に言葉を吐き出し、少年の足の裏が地面に触れた事を確かめてから手を放したが、少年は未だ立ち方を思い出していなかったらしく、再びその場に座りこんでしまった。
 少年が死を目前に怯えていたのはついさっきの事だ。年長のものとして、もう少し労わってやるべきなのかもしれない。だがセインは、そうしてやれないほどに苛立っていた。
 少年は足も手も、意識も失ってはいなかった。ならば、ほんの少しでも、ゴブリンに対抗できたはずだ。それなのに、ただ目を伏せていただけ、などと。
 何の力もない少年に、勝てと無理を言うつもりはない。かつてのセイン自身のように、負けて当然だと判っている。けれど、それでも。どうせ同じ結果なのだとしても、力の限り刃向かって欲しかった。ただ結果を待つだけなどと――自分のように情けないではないか。
「聞いているのか?」
 少年は目も口も丸くしてセインを見上げていたが、声をかけてみても反応はない。
 何やら気持ちが悪く、その場を立ち去りたいと思ったセインだが、それはできなかった。ゴブリンに対して何もできない無力な少年を、このままひとり置いていくのは、あまりに危険だろう。次に現れる別の魔物なり獣なりに襲われて、彼の短い人生が終わってしまう未来がたやすく想像でき、それはあまりに寝覚めが悪く、かつ、わざわざ助けた事が丸きり無意味だった。
 仕方なくセインは、少年が立ち上がり、言葉が紡げるようになるまで待つ事にした。ただ待つのも退屈なので、荷物から布を取り出し、愛用の武器についた血を拭い取る。
 しかし、この少年はなぜ、こんなところに、ひとりで居るのだろう。武器の手入れをしながら、セインはふと考える。ここから一番近い村でも、数時間は歩かなければならないはずで、明らかに成人を迎えていない少年がひとりで歩くには、相応しくない距離に思えるのだ。
 少年が、この近くにある、地図にも乗らないような隠れ里で暮らしていた可能性は否定できないが、もしかすると家出かもしれない。セインにはまったく身に覚えがないが――何しろそんな事を考えられる状況ではなかったものだから――成人前の、この少年くらいの年頃の子供は、何かと親反発したがるものなのだと言う。あるいは、伝承に残るような英雄に憧れて――
「お前は、この近くの村の者か?」
 呆れまじりに訊ねると、少年はゆっくり肯いた。
「判った。そこまで俺が送ってやろう。だから、そろそろ立て。これ以上は待つ気はない」
 少年はようやく落ち着きを取り戻したのか、ひとりで立ち上がろうとする。その流れの中、膝を着いた状態で動きを止めると、再びセインを見上げ、声を上げた。
「僕を、弟子にしてください!」
 あまりに突然の申し出に、セインは即答していた。
「断る」
 と。


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