四章外伝
19
「何の冗談だ?」
それが、長い沈黙の果てにエルディがようやく紡ぎ出した言葉だ。
言葉の中に潜むエルディの心理を判断しかね、シーラは返答ができなかった。エルディは、何を冗談にしたいのだろう。彼がベルダインの王子である事、だろうか。それとも、マルクスの息子として生きていこうと言う、誓いにも似た決意を聞いた直後に、本当の親元に帰れと言い切った、シーラの神経を、だろうか。
もちろん、どちらも冗談ではない。シーラは迷った末に、首を振った。
「真実に気付いていなかったとは言え、私のこれまでの非礼の数々、許される事ではないでしょう。心よりお詫び申し上げ……」
「そうじゃなくてな!」
叫ぶエルディは上体を起こし、視線の高さをシーラに近付けようとする。痛みに顔をしかめ、体勢を崩したので、シーラは支えようと手を伸ばしたが、伸ばした手は当のエルディに振り払われ、行き場を失った。
「どう見ても、俺は王子ってがらじゃねえだろ。違うって」
「いいえ。双子のご兄弟であられる、エルリック・カーナニスさまに、面差しがよく似ておいでです」
印象と雰囲気は、容姿がほぼ同一である事を忘れさせるほどに異なっていたが、それは仕方ない事なのだろう。エルディは自分が何者かを知らないまま、市井で育ってしまったのだから。
「エルディラーン王太子がご帰還なさる事を、エリーシア殿下は強くお望みです。貴方の亡き兄君、エルリック様も、最期の時にそう願っておりました。殿下、どうぞ、ベルダインにお帰りください。微力ながら私が、ベルダインまでご案内いたしますゆえ」
受け入れてほしいと、シーラは強く願った。
それがエルリックの望みだった。エルディラーンがシーラの望むものになると、だから連れ戻せと、最期の時にエルリックは言ったのだ。
だから、どうか――
「いやだね」
シーラの願いも空しく、エルディは静かながら強い口調で言い切った。
「生まれてから二十七年も過ぎて、今更お前は王子だ、帰ってこい、なんて、受け入れろって方に無理があるだろ。それに、他に王族が居ないならともかく、王女様が居るなら、別に俺なんか居なくたっていいじゃないか」
「で、でも、エルディ……ラーン、様」
戸惑い、怯えた声で口を挟んだのは、アーシェリナだった。彼女はシーラの信念と誓い、役割を知っているからこそ、この先に何が起こるかを理解し、エルディを諭そうとしているのだ。
「あんたまでそんな呼びかたするなよ。俺は、絶対に帰らない。いや、行かない!」
「でも……」
「お気持ちは、けして揺るがないと?」
「ああ」
「そうですか。ならば、仕方がありません」
シーラは立ち上がると、騎士団の紋章が記された柄を握り、風を切るように、素早く剣を抜いた。エルディも、アーシェリナも、微動だにできない僅かな間に、鋭い切っ先をエルディの眉間に突きつける。
ざわついた空気が、ひやりと、静まり返った。
「な……に、する気だよ」
毅然とした態度を保とうとするエルディだが、声は震えていた。山賊たちと戦うシーラに、圧倒的な力量の差を見せつけられているのだ。もし今シーラが本気だったとすれば、すでに命はなかったのだと、判っているのだろう。
「我が主、エリーシア様はこうおっしゃられました。エルディラーン様がご存命ならば、説得して王城にお戻りいただくように、もしすでに亡くなられているならば、死の証拠と王家の指輪を持ち帰るように、と。ですから、エルディラーン様、貴方の前にはもう、ふたつの道しかないのです。ベルダインにお戻りいただくか、ここで亡き者となっていただくか」
「ちょ、待てって……落ち着け。そのエリーシア王女とやらは、俺を殺せなんて、ひとことも口にしてないんじゃないか?」
「エリーシア様は、貴方がご存命でありながら戻らない事を選ぶなど、ありえないと思われたのでしょう。いえ――思われたとしても、お優しい方ですから、貴方のお命を奪おうなどと、考えもしなかった」
「ほら」
「ですが」
シーラは強く短く声を出す事で、エルディの言葉を遮ると、唇に微笑を浮かべた。
「エリーシア様がなぜ、貴方のご帰還あるいは死の証明を望んだか。それを知る私は、こうしなければならないのです。ベルダイン王家の、忠実なる僕として」
「俺だって王家の人間なんじゃねえの?」
「ええ。たとえ貴方自身がそれを拒否していたとしても、貴方は尊きカーナニス一族のお方。恐れ多くも仕えるべきお血筋の方を害した私は、死によってでも許されぬ罪を負うでしょう。ですが、それが何だと言うのです? 私の罪が、後の世に誕生するエリーシア女王の磐石なる治世、ベルダインの礎となるならば、私はそれでかまいません」
エルディは俯き、シーラから目を反らす。ほとんどが前髪で隠れてしまい、かすかにしか覗けない表情には、苦悩の色が浮かんでいた――いや、あるいは、静かな怒りであったのかもしれない。エリーシアや国の事しか考えず、エルディ個人の心や自由を無視する、シーラへの。
勝手だな、とシーラは思った。他の誰でもない、シーラ自身を。
エルディにとってベルダインに戻ると言う事は、今の家族や仲間への愛情を踏みにじる事だ。そこまでしてベルダインに戻っても、ろくな目には合うまい。仮に、好意的に王子として受け入れられたとしても、市井で育ったエルディにとっては窮屈で、生き辛い場所だ。まして彼は、エルリックの双子の弟。永遠に、人々の中ですでに思い出と化した青年と、比べられ続けるだろう。
自分が今しているのは、自分自身や、エリーシアや、亡きエルリックの望みを叶えるため、ひとりの青年の人生を狂わせる事だと、シーラは理解していた。それは心苦しいし、申し訳ないとも思う。けれどもう、引くわけにはいかないのだ。
「さあ、お選びください。貴方の運命を」
静かだった。
エルディが喉を慣らす音も、深い息を吐き出す音も、シーラの耳にはっきりと届く。
やがてエルディは、小さな笑い声をもらしたかと思うと、顔を上げ、シーラを見つめた。
「ここで死んだって、俺に何の得もねーな」
青年の顔に貼りつく、少し歪んだ笑みには、嘲るような感情がはっきりと浮かんでいた。
「お前が俺を手にかけた事で傷付いてくれりゃ、やってみる価値はあったのかもしれねーけど、大してなさそうだし。どうしようもないから、お前の言う通り、ベルダインに行ってやる」
諦めだけが込められた乾いた声でありながら、けして「ベルダインに帰る」とは言わない事が、彼の誇りなのだろう。せめてその心意気は汲もうと決めたシーラは、特に訂正しようとせず、無言で剣を鞘に納めた。そうして再び跪き、頭を下げる。
「親父たちに、お別れくらいは言わせてくれるよな?」
「もちろんです」
「文句くらい、言わせろよな」
「私がお相手でよろしければ、いつでも。それと――エルディラーン様をベルダインまでご案内する使命がすみ次第、私の事はどう処罰してくださってもかまいません」
「安心しろ。殺してやる気もおこらねーから」
シーラに聞かせるため、とばかりに、エルディはわざとらしく大きなため息を吐いた。
「いらないからって捨てといて、兄貴が死んだら帰ってこい、戻らないなら殺す――どんだけ勝手なんだよ、ベルダインの国の偉い奴らは」
「いいえ、それは誤解です。貴方は、遠方の親戚である、ファンドリアの貴族に預けられる手はずでした」
「じゃあどうして俺はひとり山の中にいて、あのクソ親父に拾われたんだよ。納得いくように説明してみろ」
勢いで、反論しようと顔を上げてはみたシーラだが、返す言葉は見つからず、言葉に詰まる。納得いくような説明をするどころか、自分がしてほしいくらいだった。
存在を隠蔽しようとしていたとは言え、彼は王子だ。無碍な扱いなど、許されていいわけがない。
「でも、予定が狂っていなければ、貴方はすでに命を落としていたかもしれない。生きていたとしても、死ぬよりもっと辛い想いをしたと思う。だから、貴方の今は、そう悪くないのではないかしら。もちろん、結果論でしかないけれど」
「何でそんな事が判る」
アーシェリナは小さく微笑んだ。
「私は、貴方が預けられるはずだったファンドリア貴族の家の人と、縁があるの。その人は――とても、苦しそうに生きていた」
言ってアーシェリナは目を細める。深い眼差しに秘められた感情は、切なく息苦しく、エルディがさりげなく目を反らすほどだった。シーラでさえ、耐え切れずに逃げたくなったほどだ。
アーシェリナが語る人物は、間違いなくセインだろう。そう感じ取ったシーラが真っ先に思ったのは、運命の巡りによっては、アーシェリナの想い人がエルディであった可能性もあり、そうならなくてよかった、と言う事だった。もしそうであれば、アーシェリナやソフィアの扱いをどうしてよいか、困惑するしかない。
そこまで思考がいたってから、シーラは首を振る。今考えるには、少し不謹慎と言うか、アーシェリナやエルディに対し失礼だろうと気付き、考えをかき消そうとしたのだった。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.