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四章外伝

10

 雪が降り止んでから十日ほど過ぎると、街道の雪は解け、あるいは踏み固められ、旅人や商人がぽつぽつと行き交うようになっていた。
 アーシェリナの体調も、万全と言えるほどに回復している。いつでもこの町を離れられる状況だ。それでも、シーラたちはセインを見つけ出す事ができないでいた。
「セイン殿は、この町に来ていないのだろうな」
「きっと……そうですね」
 よく晴れた日の朝、シーラたち三人は、タイデルへと向かう事を決めた。シーラの目的は元々タイデルであったし、アーシェリナたちは、シーラに同行すると決めたのだ。セインと言う男がこちらに来ておらず、途中でのたれ死んでいる可能性を否定したい以上、街道の向こうに居ると信じるしかない。
 シーラはゆっくりと馬を進ませながら、静かで冷たい風と、温かな陽の光の中で、すぐ背中の向こうから聞こえてくる母子の会話に耳を傾けた。会話と言っても、ほとんどが成立していない。柔らかい声で語りかける母に、娘が意味不明な音の羅列で答えるだけだ。だが、そののどかな空気が、シーラには心地よかった。ひとり旅をしていた時とずいぶんな違いで、自分の使命を思い出せばもう少し緊張感を持つべきかもしれないが、優しい雰囲気の中で旅をするのも悪くない、と思ってしまうのが本音だった。
 やがて、母子の会話がなくなった。母の腕の中でゆっくりと揺られる事が気持ち良かったのか、それとも疲れたのか、ソフィアは静かな寝息を立てはじめる。
「ひとつ、質問してもよいだろうか。失礼な事かもしれないが」
「なんですか?」
「その、セインと言う男は、貴方が惚れ込むほどの価値がある男なのか?」
 アーシェリナはすぐには答えなかった。シーラが問いに含めた、セインへの悪意を感じ取ったからかもしれない。いくら本当の事だとしても、好きな者への悪口を喜んで聞き入れられるものはそう居ないだろう――もしかすると、機嫌を損ねたのかもしれない。
 だが、それでも、シーラは聞きたかった。十七歳の少女に子供を産ませ、定住もせずに旅をさせている男は、甲斐性がないのでは、と思ってしまう。女から見ても惚れ惚れするほど美しいアーシェリナならば、いくらでも男を選べるだろうに、わざわざそんな男に一生を費やすのはもったいない気がしてならないのだ。
「全てなのです」
 ふいに、アーシェリナはそう口にした。それが自身が口にした問いの回答とは気付かず、シーラは間抜けな声を上げた。
「は?」
「彼は、私の世界の全てなのです。私の世界の中に常に居てくれたのは、セインだけなんです」
 言っている意味が理解できず、確かめようとおそるおそる振り返ったシーラは、肩越しに極上の笑みを見つける。
 それを目にしたシーラは、とりあえずひとつ重要な事を理解した。セインに心底惚れ込んでいるアーシェリナにとって、セインがどんな男であるかなど、なんの意味もない、と言う事をだ。
 人間誰しも、ひとつやふたつ、欠けているものがある。アーシェリナは美貌を持って生まれ、その割に性格も曲がらず育った代わりに、男運を持ち合わせなかったのかもしれない――それとも、ただの苦労性だろうか。
 シーラは深く重い息を吐き出し、別の問いを投げかけた。
「もうひとつ、なぜ旅をしているのか、訊いてもよいか?」
「なぜ……って、詳しい事は言えませんけれど……」
 アーシェリナは少し考えこんでから答えた。
「逃げてきたのです。色々なものから。彼と共に生きるために」
 なんだ、駆け落ちか、とシーラは思うが早いか、アーシェリナは続けた。
「駆け落ちではないんですよ。もっと色々な、緊迫した事情があって……でも、それが無かったとしても、駆け落ちにはならないと思います。だって、きっと、私が一方的に彼を好きなだけなんです。だから彼は今でも、私をアーシェリナと呼んでくれないのだと思います……」
 心を読まれたのかと、手綱を取り落としそうになったシーラだが、それに続くアーシェリナの言葉に、動揺を吹き飛ばすほどの怒りを覚えた。会った事もない男に対してこれほどの怒りを覚えたのは、初めての経験だった。
 どう言う事だ、それは。もはや、甲斐性の有無の問題ではない。人間性の問題だ。
「つまり、貴女はセインとやらを愛し、着いてつくして、子供まで産んだと言うのに、セインとやらは貴女の事を何とも想ってないと、そう言う事か? 随分とセインとやらに都合のいい話だな」
「あ……えっと、もしかして、私の説明が悪かったのかしら? セインはとても優しい人なんですよ。彼は外に広い世界があるのに、私の世界に存在し続けてくれて、私の事をとても大切に扱ってくれて……」
「貴女の説明とセインとやらのどちらが悪いのか、今の私には判断しかねるが、とりあえず、私が抱いたその男の印象は、最悪だな」
 アーシェリナは表情を曇らせて俯き、ソフィアを起こさないようそっと抱きしめる。拗ねた子供が人形を抱きしめて黙り込むさまに似ていて、とても可愛らしかった。
「いいです。シーラさんがセインの事を好きになったら、困りますから」
「安心するといい。天地がひっくりかえっても、それはありえん」
 アーシェリナは黙り込み、シーラも口を閉ざす。沈黙の中でシーラは、今後自らセインに繋がる話題は持ち出すまい、と誓った。名前を聞くだけで苛立つ気がしたからだ。
 彼女の幸せのためにも、ふたりが再会しない事を祈った方がいいのかもしれない、と、シーラは一瞬考える。だが、すぐにその考えを打ち消した。たとえセインが、これ幸いとばかりにアーシェリナから逃げ出していたとしても、アーシェリナは再会を求めて探し続けるに違いない、と思ったからだった。
「あの、私からも質問していいでしょうか」
 沈黙が気まずかったのか、背中から伝わる怒りや呆れをごまかしたかったのか、今度はアーシェリナから語りかけてきた。
「シーラさんは、どちらに向かっているのですか? お強そうですけど、女性のひとり旅なんて、危険が多そうで……怖そうで。そうまでして、行きたいところがあるんですか?」
 単純で、しかし答えにくい質問だった。いくらアーシェリナに害がなさそうでも、自分がベルダインの騎士で、王女の密命を受け、幼い頃に預けられた王子を迎えに行くところだなどと、真実をすべて話すわけにはいかない。
 ベルダインの騎士である事くらいは話しても良いかもしれないが、一国の騎士がこんなところで何をしているのかと問われた時の嘘の答えを、シーラはまだ用意していなかった。ならばそれも隠さねばならず、答えはずいぶん質素となった。
「主人に言いつけられたちょっとした用があってな、ファンドリアの知り合いに会いに行くのだ」
 まだ出会って十日余りで、アーシェリナの事をよく知っているとは言えないが、こう答えれば更に先を聞いてくる娘ではなかろう。そう判断してシーラは答えた。
 シーラの判断は、間違っていなかった。だがかすかに見えるアーシェリナの表情は、予想以上に深刻そうで、別種の不安がシーラの胸に湧きあがる。
「ファンドリア……」
 苦々しく呟いたのは、シーラが口にした目的地だ。
「知っているのか?」
「ええ……」
 それきりアーシェリナは黙りこみ、何も口にしなかった。
 無言で誰かがそばに居る状況を辛いと思う性分であれば、逃げ出したくなるほどに重い沈黙だっただろう。しかし幸いにも、シーラは無言を心地よく思える性分であったので、そのまま黙って馬を走らせた。
 途中、目覚めたソフィアがはしゃぐ声が聞こえはじめる。微笑ましかったが、やはりシーラは、母子のやりとりに口を挟もうとしなかった。


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