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四章外伝



 本来ならば、偶然出会っただけの赤の他人のために、シーラが尽力してやる必要はないのだろう。
 だがシーラは、絶望に暮れる娘を放っておく事がどうしてもできなかった。大切な人を失う痛みを、何も考えられないほど余裕を失う辛さを、嫌と言うほど知っているせいなのだろう。
 記憶にほとんど残らないほど嘆き悲しんで過ごした日々の中、シーラを支え、助けてくれた人々が居て、その人たちが居たからこそ、自分は今も騎士であり続け、今も生きているのだと、シーラは思っている。だがシーラが知る限り、あの若い母親と小さな娘にそれらの縋れる手はなく、ならば自分が――と、考えてしまうのだ。恩返しと言うのは少し違う気がするが、エリーシアから受けた騎士としてのものとはまた違う、人としての使命だと思っていた。
 何も一生支えていこうと考えているわけではない。アーシェリナたちがふたりだけで生活できるならそれでいいし、できないならば、彼女たちのために生きるのにシーラよりも相応しい人物が現れればそれでいい。理想的なのは、セインとの名を持つ男がふたりの元に戻ってくる事だった。
 それにしても、と、シーラは思いを巡らせる。セインと言う男は、いったいどんな人物なのだろうと。
 世界中の男から求愛されても納得してしまいそうなほど美しい娘が、あの若さで一生の相手として決断した男。何か特別なものを持つ男なのではないかと、期待したくなってしまう。ソフィアと同じ、白銀の髪に氷色の瞳を持つ、柔らかな面差しで長身の男らしいが――容姿がいいのだろうか? それだけとは思いがたいが。
 シーラの脳裏に、シーラが宿を出る直前まで「私も一緒に行かせてください」と言って追い続けてきたアーシェリナの様子が蘇ってきた。まだ彼女の体調は完全ではなかったので、「足手まといだ」とか「子供の面倒を見ておけ」とか言って断ったのだが、悔しそうに引き下がる少女の必死さに、実は少し感動していた。セインと言う男を、それほど想っているのだ、あの少女は。
「よし」
 白い息を吐きながら、シーラは己を鼓舞するため、声を出す。
「どんな男だか知らんが、意地でも見つけてやるぞ、セインとやら」
 言いながら、見つけたセインが死体ではない事を祈ったシーラは、やがてアーシェリナたちを拾った辺りに到達すると足を止めた。景色から判断するのは難しかったが、街からの距離感と、昨日昼過ぎに雪がやんでくれたためにまだうっすらと残る昨日の自分が残した足跡から、大体の場所を知る事ができた。雪がひときわ大きく沈んでいるのは、アーシェリナが倒れていた所だろう。
 アーシェリナの話によると、セインと言う男は、アーシェリナたちを守ろうとしてゴブリンと戦い、先に倒れたらしい。そして倒れたセインを守ろうとしたアーシェリナは、ゴブリンを引きつけるために娘を抱いて走り、シーラの目の前で倒れた。三人はタラントに向かって進んでいたと言うから、セインが倒れたのは、更に先、と言う事になる。アーシェリナの鈍足でゴブリンに追いつかれずに走れる距離はさほど長くないだろうから、そんなに遠くはあるまい――
 シーラは注意深く辺りを見回しながら歩みを再開した。雪がやんでくれて良かったと心から思った。きっと見えなくなるほど雪に埋まっている事はあるまい。
「セイン殿!」
 何度か名を呼びながら、しらみつぶしに探索したシーラはやがて雪に埋もれるように残る、僅かな血痕を見つけた。
 慌てて駆け寄り、周囲を観察してみる。沢山の足跡があった。人間のものと、魔物のものがまじって居るように見えたが、こう言った探索の専門家でないシーラには、はっきりと判らなかった。だが、普通に歩いていてついたものではなく、争ったか、ここに大量の人や魔物が集まったのだろう事は判る。何度も踏み荒らされ、原型がない足跡の方が多いのだ。それから、何か引きずったような跡もある――気がする。
 シーラは雪を軽く掘ってみたが、人の体は見つからなかった。はあ、と白い息を吐く。その瞬間、傾きかけた陽の光を浴びて、小さな何かがきらめく様子を、視界の端に映した。
 シーラは輝くものに手を伸ばした。やはり少しの雪に埋もれたそれは、指輪だった。
 古いもののようだ。あまり手入れがされていない。けれど細かく丁寧な細工は、シーラの目に上等なものとして映った。中心にはまる宝石はあまり大きくなかったが、その形はどんな方向から光をあびても綺麗に輝くよう計算されているようだ。おかげで、雪の中から見つける事ができたのだが。
 指輪はシーラの指にもあまるほど大きい。男性用だろう。ならば、セインのものだろうか? それとも、アーシェリナが落としたのだろうか。まったく別人のものなのだろうか――
 シーラは祈った。これがセインのものである事を。セインが身につけていたものがここに残り、けれど本人がここに居ないと言う事は、彼はここに倒れた後、どこかに移動しているのだ。自力で立ち上がったか、通りすがりの人間に助けられたのだとすれば、生きている可能性が高いだろう。別の場所で再び倒れたり、魔物や動物に持ち帰られて食料にされていれば、死んでいるかもしれないが――とにかく、ここに遺体が落ちているよりは、遥かに希望があると、シーラは思ったのだ。

 宿に戻ったシーラが早速、己の目で見たものを語り、指輪を見せると、アーシェリナは震える手で指輪を受け取った。
「セインのものです」
 白い手が、指輪を包み込む。愛しいものを抱きしめるように、優しく。唇には、僅かに笑みを浮かべているように見えた。
「セインは私と出会う前から、これを持っていたんです。とても大切なもののようでした。けれど、何度も捨てようとしていて――」
「そうか」
 シーラは胸を撫で下ろす。
 セインと言う男がここに居ないと言う現実は変わらない。けれど、セインの死と言う絶望を突きつけずにすみ、それがアーシェリナに僅かなりとも希望を与えただろう事が、シーラは単純に嬉しかった。セインがどこかで生きていると信じていられるうちは、強く生きていけるだろうと思ったからだった。
 信じる心が折れるのが先か、真実に出会うのが先か――できれば後者であってほしい。そしてその真実は、今のアーシェリナの胸の内にある微かな希望を、膨らませたものであってほしい。不安と悲しみに彩られるアーシェリナも美しいが、幸福に包まれ微笑む様子は、もっと美しいだろうと思うのだ。
「とりあえず、この街の他の宿屋などを探してみよう。怪我人なら神殿や医者のところに運び込まれているかもしれないから、そちらにも手を回してみるか」
「ですが」
 アーシェリナは指輪を包む手に僅かに力を込め、シーラを見上げた。
「そこまでご迷惑をおかけできません。貴女は、この雪の中タイデルに向かっていたのでしょう? お急ぎなのでは?」
 痛いところを突かれ、シーラは苦笑し、首を振った。
「急いでいるのは事実だが、素人がこの雪の中急いでもろくな事にならない、と教えてくれた人が居るものでな。足止めをくらう間の暇つぶしをするだけだから、恩に着る必要はないぞ」
 アーシェリナは一瞬目を見開き、すぐに伏せる。長い睫は震えていて、やがて少し涙に濡れた。
「すみません……すみません」
 祈るように謝罪の言葉を繰り返す少女の姿が微笑ましく、シーラはつい笑ってしまう。寝台の端に腰かけ、俯くアーシェリナの頭を撫でた。
 兄しか居ないシーラにはよく判らないのだが、妹が居ると言うのは、こう言う気分なのだろうか? 少し面倒くさいが、それ以上に嬉しいような、不思議な気分だ。
「謝られるより、感謝の方が嬉しいのだがな、私は」
 正直な気持ちを告げると、アーシェリナは涙を拭って顔を上げ、精一杯と言った様子で微笑んだ。
「ありがとうございます、シーラさん」
 微笑みは苦味交じりでありながら、もう春が来たのかと錯覚するほど眩しかった。


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