四章外伝
8
タラントの街に戻ったシーラは、他に宿のあてが思いつかなかったので、昨夜と同じ宿に飛び込んだ。
忠告も聞かずに雪の中旅に出た客が、気絶した少女と泣き疲れて眠る子供を連れて戻ってきた事に、女将はずいぶんと驚いたようだった。だが、それも短い時間の事だ。シーラが事細かに説明する前に、開いているふたり用の部屋に案内してくれた。すぐに暖炉に火を入れると、今度は沢山の布や毛布を持ってきてくれ、雪で濡れた少女や子供の体を拭き、着替えさせると、何枚も毛布を重ねた寝台に眠らせた。
ふたりが並んで健やかに眠っているのを確かめると、女将はシーラに向き直る。女将が何かを言う前に、シーラは頭を下げた。
「ありがとうございます。私ひとりでは、こんなにも手早く対処できませんでした」
「いや、お礼とかはいいんだけどさ。あんたがずいぶん急いでいたのは、この子たちを連れてくるためだったのかい?」
なるほど、何も知らない人にはそう見えるのかと納得しながら、シーラは首を振る。
「いいえ。この少女たちには、次の町に向かう途中に、たまたま出会いました。出会ったと言うよりは、拾った、の方が近いかもしれません」
「じゃあ、赤の他人かい」
「赤の他人です」
「あんた、愛想のない人だと思ってたけど、案外いい人なんだね」
やはりそう思われていたのかと、またも納得しながら、シーラは頷く。
「大抵の人は、この雪の中に人が落ちてたら、放っておけないのではないでしょうか」
「それもそうだね。普通、良心が痛む」
「馬に乗っていなければ、放置せざるをえなかったかもしれませんが」
「それは仕方ない事だよ。他人を助けようとする心は大切だけど、そのために余計に犠牲が出たら元も子もないからね――この子たちはもちろん、あんたも、運が良かったって事だろうね。見捨てずにすんで、ずいぶん気が楽だろう?」
女将は力強い手でシーラの背中を叩いた。
シーラは苦笑しながら頷く。それと同時に、眠っていた子供が目を開けた。
子供は毛布の中でうごめくと、隣で眠る少女に手を伸ばす。だが何度触っても、叩いてみても、少女は目を覚まさない。それが寂しかったのか、子供は顔を歪めてぐずりはじめた。
「おやおや。よく泣く子だね。元気でいいけど」
子供の世話をした事のないシーラは戸惑うばかりだが、何人もの子育て経験がある女将は、子供に優しく笑いかけながら抱き上げる。なだめながら子供の様子を確かめ、「お腹がすいているのかねぇ」と呟くと、子供を抱いたまま扉に近付いた。
「あたしはこの子に何か食べさせてくるよ。ここで騒ぐと、その女の子がゆっくり休めないかもしれないし」
「はい、お願いします」
「その女の子の事は、あんたが看といてくれよ」
「はい、それでしたら、なんとか」
女将は子供の背中を優しく撫でながら、「正直だねえ」とくすくす笑い、部屋を出て行った。
よく喋る女将と、よく泣く子供が居なくなると、部屋の中は急に静かになる。騒がしい場所よりも静かな場所の方を好ましく思うシーラだが、あまりに落差が激しいと居心地が悪い。少し落ち着こうと、少女が眠る寝台のそばまで椅子を引きずってきて、座った。
背もたれに寄りかかりながら、少女を見下ろす。これまであまり少女の顔を見ていなかったが、改めて眺めてみると、とても綺麗な娘だ。シーラは容姿の美しさ、特に同性のものに対して、あまり興味をもたない人間だが、それでもうっかりと見惚れてしまうほどだった。人はこんなにも睫が多く、鼻筋がすっきりと通り、赤い唇をしているものだっただろうか?
波打つ黒髪の少女は艶めかしく、真っ直ぐな白銀の髪を持つ子供は華やかで、受ける印象はまるきり違うが、顔立ちだけを取ればよく似ている、とシーラは思った。ふたりは歳の離れた姉妹か、親子なのだろう。親子だとすると、ずいぶん若い母親だ。ただでさえ苦労が多かろうに、たったふたりきりで雪山を越える中、魔物に襲われるとは。事情をよく知らないまま、けれど強い哀れみを抱いたシーラは、彼女たちの救い手となれた自身を少し誇らしく思った。任務を達成するまでに数日時間を余分に使う事になりそうだが、きっとエリーシアも許してくれるだろう。
シーラは少女に異変が起こってもすぐに気付けるよう、ずっと少女を見つめていた。どれほどの時間が過ぎただろう、日中の疲れがのしかかり少し眠気を覚えはじめた頃、ようやく少女は目を開けたのだった。
驚くほど愛らしい、長い睫にふちどられた濃い紫色の瞳は、何かを探すようにゆっくりとさまよう。やがてシーラを映すと、動きを止めた。
「体の調子はどうだ?」
良いわけがないと思いつつも、酷くない事を願ってシーラは訊ねた。
少女はぎこちなく唇を動かして、声の出し方を思い出し、ようやくと言った様子で言葉を紡ぐ。だがそれは、シーラの問いに対する返事ではない。意図的に無視したと言うよりは、意識が朦朧としているせいで、シーラの言葉が認識できていない様子だった。
「セイ……ン……は……?」
「セイン?」
シーラが復唱すると、少女は目を閉じる。どうやら、再び意識を失ったようだ。
「セインとは何の事だ」
一応声をかけてみたが、反応はない。仕方なくシーラは腕を組み、ひとりで考え込む事にした。
セイン――おそらく、名前だろう。物や動物と言う可能性もあるが、人のような気がする。だからシーラは、真っ先に、少女が抱いていた子供を思い出した。けれど、違う気がするのだ。あの子供は女の子だったが、シーラの感覚では、セインと言うのは男名だったからだ。
とは言え、少女が生まれ育った地域ではセインと言う名を女名として使うかもしれないので、ありえないと言い切るだけの確証はシーラの中になく、ひとり考えて判ったのは、曖昧な意識の中で真っ先に口にしてしまうほど、大切なものの名なのだろうと言う事だけだった。
翌朝、少女は再び目を開けた。
目を開けたとは言っても、しばらくは真っ直ぐ天井を見上げて、微動だにしなかった。またすぐに眠ってしまうのだろうかと、固唾を呑んで見守っていたシーラは、白銀の髪の子供を抱く腕に、無意識に力を込めてしまった。
それが苦しかったのだろうか。娘はぐずりだしたかと思うと、すぐに大声で泣きはじめる。舌ったらずな言葉使いで母を呼び、シーラの腕から逃れようと暴れた。
その声が届いたのだろうか。寝たきりだった少女は反応し、体を起こす。緩慢な動きで、雪のように白く細い腕を、子供に伸ばした。その瞬間、少女の顔は、ただの美しい娘から母親のものへと変化し、シーラはふたりが親子である事を確信した。
「ソフィア」
それは子供の名前だろう。つまりセインはやはり別の人物の名前なのだ。
シーラは少女の腕にソフィアと呼ばれた子供を抱かせる。ソフィアは、すぐに安らいだ顔をした。泣きやみ、笑顔を見せるようになるまでに、さほど時間を必要としなかった。
「目覚めてすぐのところ申し訳ないが、見知らぬ者同士、まずは名乗りあい、状況説明といかないか。私はアルマシーラ・ローウェルだ」
「私はアーシェリナ。この子は、ルウェンソフィアです」
少女は可憐な唇から、やはり可憐な声をこぼし、素直に名乗った。
「では、アーシェリナ殿。まず私が見たものを話そうか」
「アーシェリナでけっこうですが」
「こちらの方が呼びやすい。勘弁してくれ」
シーラがきっぱり言い切ると、アーシェリナはそれ以上何も言わなかった。自身の腕の中で楽しそうにはしゃぐ子を優しく撫で、優しくくちづけし、「少しじっとしててね」と語りかける。子供がそんな指示を聞くとは思えなかったシーラだが、ふしぎとソフィアは、もぞもぞとうごめいて母の温もりや体の柔らかさを楽しんではいたものの、はしゃぎ声をさほど立てなくなった。
母子の様子を微笑ましく見守りながら、シーラは語る。タイデルへ向けて街道を進む途中、魔物と戦うアーシェリナを見つけた事。アーシェリナが何らかの魔法を放ち、倒れた事。倒れたアーシェリナの代わりに魔物を始末した後、ふたりをこの街まで連れ帰った事を。
一切口を挟まずに話を聞いていたアーシェリナだが、その体は話が進むにつれ、小刻みに震えはじめた。美麗な顔はひきつり、顔色は蒼白となった。
「どうした?」
肩の震えを止めたくて、シーラはそっと手を伸ばし、触れる。だが少女の体は、何も変わらなかった。
「そこから先には、進まなかったと言う事、ですね?」
震える声で問われ、シーラは頷いた。ふたりを安全で温かいところに運ぶ事が第一だと信じて疑わず、他の事など考えもしなかった。
シーラの返答を知るや否や、アーシェリナの表情は悲痛に濁った。この世の全てを失ったような、絶望したような、とにかく酷い顔だった。美しいからこそ余計に、シーラの胸を打つ痛々しさだった。
アーシェリナは娘を強く胸に抱く。そして掠れた声で呟いた。
「セイン」
昨日一瞬だけ覚醒した時に口にした名を、もう一度。
「セイン?」
シーラは復唱した瞬間、自分が根本的な問題に気付かずにいた事に思い至った。それはつまり、母親がいて子供がいるならば、父親もどこかにいる、と言う事だ。
雪の山道で魔物に襲われる歳若い母親とその子供と言う状況から、普通とは縁遠い家庭だろうと勝手に思いこむ事で、父親の居ない不自然さに気付くのが遅れてしまったのだろう。アーシェリナに聞こえないよう舌打ちして、シーラは己の失態を責めた。いくらシーラでももう判る。きっとセインとは、アーシェリナにとって大切な男の名で、ソフィアにとっては父親の名なのだ。
「すまない。気がきかなくて」
「いいえ。貴女に謝っていただくなんておかしいです。私たちを助けてくださって、ありがとう、ござい、ます」
最後のほうは、こみ上げてくるものに耐えようとするアーシェリナの意志が語尾を細切れにし、よく聞き取れなかった。母親が深い悲しみに支配された事に気付いたソフィアが、しきりに母を呼んだ事も、理由の一旦だったかもしれない。
「アーシェリナ殿。今度は貴女が状況を説明してくれないか」
「はい……」
「セイン殿とやら、私がもう一度山に行って探してみよう」
アーシェリナは顔を上げる。少しの申し訳なさが同居した、輝かんばかりの希望に満ち溢れた瞳で、シーラを見つめるために。
セインと言う男がどのような状況で居たか判らないが、あの雪の中でずっと放置されていたのだとすれば、もう生きてはいないだろう。シーラは冷静にそう考えたが、アーシェリナのために口にも表情にも出さず、強気の笑みを見せるだけにした。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.