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四章外伝



 シーラの母国ベルダインから、目的の地となるエルディラーン王子が預けられた貴族の邸宅があるファンドリアまでは、大まかにわけてふたつの道のりがある。西部都市国家連合の東端、タイデルから先の道は同じだが、タイデルまでを街道沿いに進むか、直進するかの違いだ。
 街道沿いに進むほうは、道の途中に暗黒都市ドレックノールが存在する点は気になるが、他はある程度の安全が保障されている。しかし、かなり迂回する事になってしまう。対して直進する道は、時間の短縮と言う点では有利だが、深い山を越えねばならないし、徘徊する魔物やどこかに潜んでいるだろう山賊などに襲われる危険が考えられた。
 シーラが選んだのは、後者の道だった。そもそもシーラは、魔物征伐の任で手柄を得て近衛騎士となったのである。魔物に恐れをなす心など持ち合わせていなかったし、山賊に対しても同じだった。もし遭遇したら成敗してやろうなどと、のんきに考えていたくらいだ。
 そんな心がまえでいたからだろうか。結局山越えの間に山賊が現れる事はなかった。ときどき出てくる魔物も雑魚ばかりで、シーラはさして苦労する事なく、山間の都市国家タラントに辿り着いたのだった。
 シーラはそこで、生まれてはじめて雪を見た。生まれ育った故郷は、どちらかと言えば炎の精霊の影響力が強く、冬に冷える事はあっても、雪が降る事はまずなかったのだ。
 自然にしろ人工的にしろ鮮やかな色が常に溢れる故郷とは対照的な、一面の純白の美しさに、シーラは胸を躍らせた。
「今年は異常だよ」
 ひと晩世話になった宿屋の女将は、客が少ないためにできた暇を、ひとり食事を摂るシーラを話相手にする事で潰す事にしたようだった。
「こちらでも、雪は珍しいものなのですか?」
「いや、雪自体は、大して珍しいもんじゃないんだけどね。この時期にこんなに積もったのは久しぶりだ。冬本番になったらどうなるのか――今年の氷の精霊は、機嫌が悪くて暴れ回ってるのかね」
「機嫌がよいからこそ大騒ぎして、雪がひどくなったとも考えられるのでは」
「ああ、それのほうが、いくぶん救いがあるね」
 女将は困惑交じりの笑みを浮かべた。
「あんたもここまで来るの、大変だっただろう?」
「ええ、まあ」
「部屋、温めてあるし、薪も充分置いてあるけど、足りなかったら言っておくれよ」
「ありがとうございます」
「今晩しか宿とってないって事は、明日には発つつもりなのかい?」
「はい。そのつもりです」
「そうかい。まだまだ積もるかもしれないから、気を付けなよ」
 そっけない返事ばかりのシーラとの会話に飽きたのか、女将は別の、商人風の男たちの元に近付き、また他愛のない話をはじめる。
 すぐに楽しそうな笑い声が響き渡り、シーラは解放された事に少し安堵した。

 翌日の朝、シーラは宣言通り宿を出た。
 夜通しちらちらと雪が降っていたので、雪の積もり具合は昨日よりも少し高くなっていた。だがまだ動けないほどではないだろうと、雪を知らないシーラは勝手に判断し、馬を走らせる。故郷を走る時と違うのは、防寒具を身に纏っている事くらいだ。
 ベルダインからタラントまでの道と違い、タラントからタイデルまでの道は、立派な街道が通っている。同じ山越えでも、道を間違える可能性や魔物の出現率はこれまで以上に低いであろうし、かかる時間も短いだろうと予想でき、少し心の余裕があった。それが、余計に気持ちを逸らせたのかもしれない。はやくもうひとつ山を越えて、タイデルに到着したくて仕方がなかった。
 だが気持ちほど容易に馬は走らなかった。シーラの膝ほどの高さまで積もった雪は、思っていた以上に負担なようで、シーラの愛馬は「全力で走っている」とは言い辛い速度で、ゆっくりと足を薦めていた。
「気を付けなよ」と言ってくれた女将の顔が脳裏をよぎった。こう言う意味も含まっていたのだろうと思うと、せめて雪が止むくらいまで滞在しておくべきだったかと、シーラは少し後悔しはじめていた。だが、戻る気にはならなかった。今日中に次の宿場町に辿り着くはずなのだから、戻る理由が見つからない。夕方までに到着する予定だったのが夜中に変わってしまうだろうが、そのくらいならばかまわないと考えていた。馬が雪をかきわけながら進まなければ、軽い雪の粒が降り積もる音まで聞こえてきそうな静寂に、しばらく身を置くのも悪くないと。
 人の声と縁遠い世界に長く居たせいで、心が穏やかになっていたのだろうか。遠くから突然喧騒が聞こえてきた時、シーラは一瞬呆然としてしまうほど驚いた。一瞬が経過すると、寒さにこわばっていた顔を、更にこわばらせる。
 喧騒の中に魔物と思わしきうなり声が混じっていた。誰かが魔物に立ち向かっているのだろう。人が無事に勝利していればいいのだが――シーラは馬の腹を蹴り、できうるかぎりの早さで愛馬を走らせる。
 すると舞い降りる雪の向こうに、人影が現れた。
 薄く雪が積もるフードから、漆黒の波打つ髪が覗いて見える。顔も、少しだけ。おそらく十代後半の少女だろう。お世辞にもたくましいと言えない腕に、子供と杖を抱いていた。子供は、おそらく一歳になるかならないかくらいだ。
 少女の後ろには、矮小な魔物が迫っている。ゴブリンだ。シーラの知るゴブリンは、あまり動きが素早くないはずだが、積もる雪や荷物の重さのせいとは言い切れないほどゆっくり走る少女は、追いつかれそうになっていた。
 その気配に気付いたのだろうか。少女は抱いていた子供をそっと雪の上に置くと、杖を構える。大きく杖をふるいながら、少女は呪文を唱えた。少女の紡ぐ言葉の意味をシーラは理解できなかったが、それが古代王国時代の言語である事は知っていた。彼女はどうやら古代語魔法の使い手らしい。
 複雑な、不思議な響きは、強烈な力を具現する。詠唱の終焉と同時に生まれた光の矢は、ゴブリンの胸を突いた。ゴブリンが顔を苦痛に歪め、激痛を訴える声を上げた。同時に、少女の体は重く揺れ、雪の中に倒れこんだ。
 魔法を使いすぎて精神を消耗させた魔術師は、倒れる事があると言う。少女は今、その状態なのだろう。しかし対するゴブリンは、怯んではいるもののまだ倒れてはおらず、少女を標的に定めている。
 ようやく少女とゴブリンのそばに到達したシーラは、腰の剣を抜くと、馬から飛び降りる。少女の前に立ちはだかると、ゴブリンに素早い一撃をくらわせた。シーラにとってゴブリンは、相手にもならない小物であったので、少女の魔法でいくらか傷付いていた事もあり、たった一撃で勝負はついた。
 汚れた血を拭い、剣を鞘に戻す。それから振り返った。
 雪の上に置かれた子供は泣いていたが、毛布のような温かいものに包まれていたし、泣く元気があるならまだ大丈夫だろうと後回しにした。気を失った少女を抱き起こし、軽く体をゆすってみる。
「大丈夫か?」
 返事はなかった。やはり、完全に意識を失っているようだ。
「やれやれ」
 厄介なところに出くわしてしまったようだ。シーラは無意識に、深いため息を吐き出していた。
 個人的な希望としては一歩でも前に進みたい。だが、単なる偶然とは言え出会ってしまったふたりを、放置すれば死ぬだろうと判っている状態で見捨てる事は、どう考えてもできなかった。
 シーラは自らが身に纏った外套で少女の体を包み込み、抱き上げると、愛馬の背に乗せる。続いて、未だ泣きわめく子供を片腕で抱きながら、自らも馬上の人となった。
 慣れない子供を抱きながら、片手で手綱を操るのは至難の業だったが、それでもシーラはなんとか、来た道を引き返した。


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