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四章外伝



 人間とは自分で思っている以上に薄情な生き物なのかもしれないと、シーラは思う。気付けばシーラは、涙する事がほとんどなくなっていた。
 ベルダインと言う国も、悲しみに沈んでいた暗い空気をいずこかへとすっかり消し去り、かつての明るさを取り戻している。生前のエルリックが居た位置に、エリーシアを置いたあとは、何事もなかったように以前と同じ日常をすごしているのだ――だからシーラはときおり、元々エルリック王子など居なかったのではないかと錯覚する事があった。
 寂しいけれど、それが正しいのだとシーラは思う。過ぎ去った悲しみを忘れて、前を見なければならない。そうしなければ、国も、人も、前に進めないのだから。
 立ち止まっているのは、私くらいか。
 ひとり部屋で過ごす時、シーラは己をあざ笑うように、薄く笑った。
 エリーシアですら、表向き平然としている。もしかするとひとりの時に大泣きして居るかもしれないが、人前で毅然とした態度をとれるならば、歳若い少女としては充分過ぎるほど立派だろう。シーラは安堵して胸を撫で下ろす反面、置いて行かれたような寂しさや悔しさを抱く時があった。
 そんなエリーシアが、シーラ以外の人物を完全に部屋から排除した時、シーラは少し緊張した。エリーシアと完全にふたりきりになったのは、エルリックの葬儀の日以来の事だ。あの日から二ヶ月も過ぎていないと言うのに、エリーシアは比べ物にならないほど大人になっているように見えた。
「シーラ、わたくしは、貴女にお願いしたい事があるの」
 エリーシアはシーラに背を向け、窓の外を眺めていた。
 かつてエリーシアは、窓の向こうに広がる景色の美しさを、無邪気に喜んでいた。けれど今はどうなのだろう。城下に広がる街を、民を、この先背負わなければならないものを、毎日見せ付けらる気分にならないだろうか。
「お兄様を失ってもうふた月が過ぎようとしているわね」
「はい」
「この二ヶ月の間に、わたくしは、いやと言うほど判ったの。わたくしは弱い。未来の女王と言う重圧や不安に、耐え続ける事なんて、きっと無理」
 エリーシアがそう考えてしまうのは仕方がないとシーラは思う。自分が同じ立場になったならば、きっと逃げ出したくなるだろう。
 けれどエリーシアは耐えねばならない。現王の血を引く直系の王族は、もうエリーシアしかいないのだ。第二王位継承者は、現王に兄弟がいないため、現王の従兄弟にあたる人物である。彼があまり評判のいい人物でない事もあって、エリーシアがいる状況では、彼が王になる事を納得する国民は少ないだろう。
「エリーシア・カーナニスである事から逃げられないのは判っているの。だからね、シーラ。貴女にお願いしたいのは、どちらか片方を消し去って欲しいと言う事なのよ」
「片方、とは?」
 シーラが短く問うと、エリーシアは振り返り、ドレスの裾を軽く舞わせ、椅子に腰かけた。
「不安か重圧のどちらかを、と言う事――ここから先は重要機密よ。だから人払いをしたの。どんな事があっても、誰にも言っては駄目よ」
 そんな重要な話を自分が聞いても良いのかと、シーラは急に不安になったが、エリーシアが語ろうとする内容について、予想できない事もない。ひと呼吸する事で気分を落ち着けると、跪き、頭を垂れ、エリーシアの言葉を待った。
「わたくしには、エルリックお兄様以外にもうひとり、兄が居るの」
 やはり、そうなのか。
 シーラが無言で受け入れると、エリーシアは続けた。
「驚かないのね。もしかして、エルリックお兄様に聞いていた?」
 シーラは静かに首を振る。
「はっきりとは聞いておりません。ですがエルリック様は、もうひとりの自分が国を継ぐと、そうおっしゃっておりましたから、もしやと。その方の名は――確か、エルディラーン様」
「そう。話が早くて助かるわ」
 真剣な眼差しは相変わらずだが、エリーシアの表情が少しだけ和らぎ、唇に小さな笑みが生まれた。
「実はね、エルリックお兄様とエルディラーンお兄様は、双子だったの。それで……王家に生まれる双子は不吉だとずっと言われているでしょう。ほぼ必ず、王位継承権を巡って争いが起こるから」
「はい」
「だからお父様とお母様は、弟王子であるエルディラーンお兄様を、生まれてすぐに遠い親戚に預けたの。せめてもの愛情の証に、お父様が第一王子に付けようと考えていたエルディラーンと言う名と、王家の紋章が入った指輪だけを、与えて」
「ああ……」
 ようやく合点がいったシーラは、思わず小さく声を上げた。
 最期のエルリックが語った、『王となるべき者の名を持つ私』の意味が、今まで理解できずひっかかっていたのだ。その謎が解け、少しすっきりした気がした。
「エルディラーンお兄様に与えられたものはそれだけ。逆に言えば、それさえ用意すれば、誰にでもわたくしの兄を用意できてしまうのよ」
「そんな、乱暴な」
「でも、わたくしの地位を利用したい者は、わたくしを追いやるために、そのくらいの事をするでしょう? そんな事をするような人たちに利用される気が、わたくしにない以上は」
 反論できないシーラは、黙り込むしかなかった。
「だからね、わたくしは貴女に、内密に、エルディラーンお兄様の事を頼みたいの。お兄様を迎えに行って、おそらくまだ自身の出生についてご存知ないお兄様に事情を説明し、ここに連れ帰ってちょうだい。もしお兄様がすでに亡くなっていてそれが無理ならば、指輪と、お兄様の死を証明するものを持ち帰ってきて」
 エルディラーン王子が戻ってくれば、エリーシアは国を継がずにすむ。エルディラーンが国民に受け入れられるまで、多くの苦労があるだろうが、それでもエリーシアは最大の重圧から逃れる事ができるだろう。
 エルディラーンの死が確実となれば、エリーシアに対抗できうる者がこの世に存在していない事になる。そうなれば、エリーシアが抱える最大の――いつ引きずり落とされるのかと言う――不安から、逃れる事ができるのだ。
「承知いたしました。必ずや、どちらかを達成いたします」
 素直に従いながら、シーラは思う。
 今の状況の中で、先の事を考える余裕のあるエリーシアは、もしかすると次期王にふさわしいのかもしれないと。

 数日後の早朝、シーラはひとり荷物をまとめ、城を出た。王女エリーシアの密命の内容を誰にも語れない以上は、逃げ出すように人知れず旅出つしかできなかった。
 すでに朝市で賑わいはじめた大通りを抜け、街の入り口近くの宿に昨晩から預けていた馬を引き取ると、街を出る。門をくぐって数歩進んだところで足を止め、振り返った。
 朝日をあびて煌めく、美しい王城を、街を、忘れないよう目に焼き付ける。愛すべき故郷を、いつでも思い出せるように――どれほどの期間の別れになるのか、シーラには判らなかった。目的の地までただ往復するだけでも、それなりの日数が必要なのだ。エルディラーン王子が自身の出生を否定したり、シーラの説得に応じなければ、もっと時間が必要だろう。はじめに預けられた場所から移動していたとすれば、年単位の話になるかもしれない。
「行ってまいります」
 そう言って一礼すると、返事が聞こえるような気がした。「行ってらっしゃい」と、エリーシアの――エルリックの声が。
 後ろでひとつにまとめた漆黒の髪が、風に揺れる。亡き人が、心細いひとり旅をはじめるシーラの背中を押してくれているような気がした。
 シーラは一瞬だけ優しく微笑むと、すぐに表情を引き締める。軽やかに馬の背に乗ると、手綱を引き、馬を全力で駆けさせた。


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