INDEX BACK NEXT


四章外伝



 第一王子エルリック・カーナニスの病死が公表されたその日から、国中の空気は重く沈んだ。
 街に下りずとも、多くの民が嘆き悲しんでいる様子が伝わってくる。エルリックは体が弱いため、城内で執務を行う事はあっても国民の前に姿を現す事は少ない王子であったが、それでも国民に愛されていたのだと知ったシーラは、嬉しく思った。
 すみやかにしめやかに執り行われた葬儀では、無数の花に囲まれた棺を前に、最高司祭が延々と教典を読み上げ、多くの神官たちが祈り、歌う。全てが、エルリックの安らかな眠りのために行われた事だ。
 やがて司祭たちの儀式が終わると、エルリックの棺は、王家の墓地へと運ばれていく。
 シーラは、エルリックの躯が進む道を守るようにずらりと列をなす騎士たちの中に居た。他の騎士たちと同じように剣を掲げ、エルリックのために祈りを捧げる。
 隣に立つ青年騎士は、泣いていた。他にも、涙する者は少なからずいた。けれどシーラの瞳は、驚くほど乾ききっていた。
 どうしてだろう。なぜ、涙が出ないのだろう。大切な人を失ってしまったのに。もっと些細な事のためになら、簡単に泣けたのに。
 シーラも、エルリックの名を呼びながら泣きたかった。けれどできない事が、辛かった。

 エリーシアは泣いていた。涙の量は、他の誰よりも多かったかもしれない。
 それまで華やかで明るい色の衣服しか身に着けた事のないエリーシアは、闇色の喪服に身を包んだまま、部屋にこもっていた。そばに仕える者たちを、シーラ以外全て部屋から追い出して、唯一そばに居る事を許したシーラにも背中を向け、寝台に飛び込み、枕に顔をうずめながら、泣き続けた。
 かける言葉が見つからずに、途方にくれたシーラは、ただ無言で見守るしかできなかった。
 自分も涙する事ができれば、エリーシアと悲しみを共有できれば、語るべき言葉は見つかったのだろうか。小さな背中を見つめながら、シーラはそんな事ばかりを考える。
「お兄様、どうして……どうして……!」
 どれほど呼んでも、問いかけても、エルリックはもう戻ってこない。そのくらい、エリーシアも判っている。けれど、判っていても、泣き、叫ばなければならない時はあるもので、それがエリーシアにとっては今なのだろう。
 どれほど泣き続けただろうか。エリーシアの目は腫れ、顔は真っ赤に染まり、髪は乱れていた。きっと、いや、間違いなく、己の外見を省みる事をすっかり忘れるほどに、今のエリーシアが抱える悲しみは深いのだろう。
 宵闇が訪れた頃だろうか。エリーシアが、ようやくシーラに振り返ったのは。それでもまだ、嗚咽をもらしていたが。
「シーラは強いのね。こんな時にも、泣かずにいられるなんて」
 エリーシアの言葉に賛同できず、シーラは静かに首を振った。
 腕っぷしの話ならば納得できない事もないが、今エリーシアが語る強さは、肉体的なものではないだろう。心の話ならば、シーラは自分が弱い事を知っていた。
「でも……お願い、シーラ。お兄様を失って悲しいと思うなら、我慢せずに泣いてあげて。きっと、お兄様が亡くなられたあの日から、お兄様のために泣いてくれている人は居ないから、貴女だけでも、そうしてほしい」
 では、今の今まで自分の目の前で号泣していた少女は何なのだろうと、シーラは疑問を抱いたが、シーラが問いかけるよりも早く、エリーシアは答えを語りはじめた。
「みんなが悲しんでいるのは、エルリックお兄様が亡くなったからではないわ。この国の王子が、第一王位継承者が、亡くなったからよ。わたくしだってそう。大好きなお兄様が亡くなって悲しい。けれどそれ以上に、お兄様の死によってわたくしに課せられるものを思うと、不安で、心細くて……だから泣いているのよ」
「エリーシア様……」
「純粋にお兄様の死が悲しくて泣いている人なんて、居ないのよ、シーラ」
 語られるまで、目の前の、ようやく少女と呼べる年頃になった王女が抱えたものに気付けなかった己を、シーラは恥じた。
 ついこの間までエルリックが背負っていた重責は、エリーシアに託されたのだ。生まれた時から背負い続けていたエルリックでさえ辛かっただろう。それをたった数日前に突然投げ渡されたばかりのエリーシアは、もっと辛いだろう。やすやすと受け入れられないほどに。
 哀れみと言っては失礼だろうが、それに似た感情が湧きあがり、シーラの胸は締めつけられるような痛みを覚えた。まるで羨むかのように「シーラは強い」と言ったエリーシアの痛みが、伝わってきたかのようだ。
「我ら臣民のために、重き痛みを負う事となるエリーシア様に、何とお詫びすればよいか私には判りません。ですからエリーシア様、どうぞ、何なりと私にお申しつけください。私の力、私の命の全てをもって、貴女にお仕えいたします」
 寝台脇に跪いてシーラが言うと、エリーシアはしきりに首を振った。
「いつか、わたくしが全ての国民のために生き、全ての国民がわたくしのために生きる時が来るのでしょう。その時が来たら、ええ、私は沢山の命令を貴女にします。貴方の命を借りる日も来るかもしれない。けれどね、シーラ。今はその時ではないの。そんな事、どうでもいいのよ」
 エリーシアは今にもこぼれ落ちそうな涙を拭く。
「お願い。今は、わたくしの心配なんてしないで。わたくしの事は忘れて、エルリックお兄様のために泣いてあげて」
 できる事ならそうしたいと、シーラも願ってはいる。けれど、エリーシアにどれだけ言われても、涙は出てこなかった。
「泣けないのです、エリーシア様。涙が出てこないのです」
 エリーシアの願いを拒否する事も、嘘で応じる事もできないシーラは、正直な自分を伝えた。
「エルリック様の死を、悲しいと感じていないのかもしれません。私は薄情な人間なのかもしれ」
「何を言っているの?」
 エリーシアの目が、シーラを目を見つめる。純粋無垢なようで奥深いものを持つエリーシアの瞳は、シーラの心の底まで全てを見渡しているように感じた。
 思わず目を反らしたくなったシーラだが、不思議な力に抑えつけられているかのように、体は指一本動かなかった。
「貴女、今自分がどんな顔をしているか、判って言っているの? 鏡を見てみればいいわ。今、この国で、貴女ほど悲痛な表情を浮かべている人なんて居ないと、言い切れるくらいなのに」
「そう……なのでしょうか?」
「ええそうよ。わたくしには、貴女がとても我慢しているか、自分の気持ちに気付かないようにしているか、どちらかにしか見えないわ」
 言われて、シーラは息を飲んだ。
 心当たりはある。自身の気持ちを隠してしまいたかった。そうするには、自身を騙す事が一番手っ取り早いと知っていた。だから、自分自身を騙して、ごまかしていた。
 何をごまかしていたのだろう。シーラは己の心を探る。
 泣けないのはさほど悲しいと思っていないからだとしたら、ごまかしていたいのは、悲しいと思う気持ちだろうか――いや、違うだろう。それらよりももっと奥深く、根源に眠るものだ。感情の中心にあるものに気付こうとしないから、絶望的な悲しさにも気付けないのだ。
「シーラ?」
 せっかく隠したものを暴く行為は愚かなのかもしれない。けれどエリーシアの望みに逆らう事はできず、シーラは己の心に向き合う。ほんの一歩、奥へと踏み入れた。それだけで、自らの体を支える気力を失った。
 その場に崩れ落ち、座りこむ。無様な格好だった。それを主君に見せるなどと、シーラは許せなかった。焦ってすぐに立ち上がろうとしたが、思うように力が入らず、立つどころか動く事さえできなかった。
 体が、唇が、震える。
 唇と共に、声も震えた。
「……いで……さ、い」
 気付いてしまった。失われた人に、伝えなかった事があるのだと。
 伝えたかったわけではない。伝えてはいけないと思ったからこそ、シーラは無意識のうちに心の奥に秘めたのだ。けれどそれは、伝えるべき相手が、すぐそこに居るからこそで――こんなふうに居なくなるとは思ってもみなかった。
 もっと早く、自分と向き合えば良かったのだろうか。隠したものに、気付けば良かったのだろうか。駄目だと判っていても、相手の迷惑をかえりみず、伝えてしまえば良かったのだろうか。
「シーラ……?」
「行かないで、ください……」
 シーラは震える両手で自身の顔を覆った。ひとつぶ涙がこぼれると、あとはとめどなく溢れてきた。
 伝えなかった言葉は、ふたつある。
 ひとつめは、行かないでほしいと。どこにも行かず、目にする事もかなわない遠くを見ず、そばで、自分を見てほしかったから。
 そうしてそばに引き止めて、言えばよかったのだろうか。
 私は、貴方を――


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.