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四章外伝



 気味が悪くなるほど静寂が、部屋の中の空気を支配していた。
 つい先ほどまでは、医師やら神官やらが集まって、エルリックを取り囲んでいたが、ひと通りの看病を終え、エルリックの容態が落ち着くと、部屋を出て行ってしまった。室内に何人か居た侍女たちも、血に汚れたものの始末をはじめ後片付けに奔走しているようで、今はひとりも居ない。
 大きな寝台で眠るエルリックを除けば、たったひとりになってしまったシーラは、徐々に緊張を強めていった。どうにも居心地が悪いのだ。また病状が悪くなるかもしれず、完全に目を放すわけにはいかないので、「どうかもうしばらく王子のそばに居ていただけませんか」と頼まれているのだから、シーラがここにいるのは当然なのだが、それでも。
 いつまでここに居ればいいのだろう、とシーラは考えた。シーラは騎士で、しかもエルリック付きではない。こうしてエルリックのそばにいるのは、おかしくはなかろうか。
 お門違いの仕事を押し付けられた事に不満があるわけではなかった。本音では、しばらく誰も戻ってこなければいいと思っている。ここに居る理由が、エルリックのそばに居る言い訳が、できるからだ。
 そう思えるのは、眠るエルリックの呼吸が落ち着き、顔色にも赤みがさしてきていて、穏やかに眠っているからこそ、かもしれなかった。少しとは言え血を吐いたと判った時の自分の取り乱しようと言ったら、思い出すだけで逃げ出したいほど恥ずかしい。
 だが、それも過ぎ去った事だ。エルリックが無事ならば、自分がかいた恥など大した問題ではない。シーラはそう自身を慰め、優しい気持ちで眠るエルリックを見下ろした。
 灰色の睫が揺れる。そっと、青い瞳がのぞいて見えた。シーラは少し前のめりになり、エルリックの顔を真上から見つめる。
 エルリックは二、三度まばたきをして焦点を合わせると、唇を小さく動かした。
「シーラか……」
「はい」
 シーラは頷く。
「先ほどまでは医師や神官がおりましたが、エルリック様のご容態が落ち着かれると、お休みの邪魔にならないようにと言って出ていきました」
「正直に、いちいち目が覚めるまで待っていられないと言えばよいのに」
 エルリックは冷たく薄い笑みを唇に貼り付けながら言ったが、返す言葉が見つけられないシーラが沈黙を生み出すと、笑みを温かいものへと変えた。
「すねているわけでも、嫌味を言うつもりでもない。お前に、そばに居てくれてありがとうと言おうとしたのだ。困らせてすまなかった」
 シーラは頬を少し染め、微笑みで返す。
 そばに居て邪魔者だと思われないだけで充分過ぎるくらい嬉しいのに、ありがたく思ってくれるなどと、身に余る光栄だった。
「目が覚めるといつも、自分はひとりきりなのではないかと錯覚していたのだが――今日は違った。お前のおかげだ、シーラ」
 シーラは手を伸ばし、エルリックの胸までかぶさっていた毛布を、肩まで引き上げる。部屋の空気が冷たかったわけでも、エルリックが寒さに震えていたわけでもなかったが、寂しげな言葉が痛々しくて、温めてやりたいと思ったのだった。
 けれどエルリックが感じる冷えは、物理的に温めたところで解消できるものではないとも判っていて、自身の無力さに耐え切れなくなったシーラは、発作的に抱き続けてきた疑問を口にした。
「エルリック様は、いつも、どこを見ていらっしゃるのです」
 自分ごときが訊いていい事ではないと思い、これまで訊かずにいたが、心臓が握りつぶされるかのような衝動が、シーラを突き動かす。自分自身に向けられる事のない、切ない瞳の輝きの正体を知りたいと願ったのだ――どうしてそう願ったのかは、気付かないふりをした。
 エルリックは、お世辞にも健康的とは言えない細い体を重そうに支えながら、上体を起こす。支えようとシーラが手を伸ばすと、僅かに戸惑ってから、いくらか体重を預けてくれた。その重みこそが信頼の証のような気がして、シーラは嬉しかった。
「ここではないところ」
 弱い声は、まずそれだけを告げた。
「もうひとりの私を。王となるべき者の名を持つ私を……いいや。彼には、それだけしか与えられなかったのだ。彼に与えられるべき他の特権は、私が奪ってしまったから――それこそが、私の罪」
「エルリック様……?」
 はじめシーラは、エルリックが何を言っているのか、理解できなかった。かろうじてエルリックの名を紡いでみたものの、あとは無言で待つしかなかった。
 エルリックは、自身の頭をシーラの肩に預ける。そしてシーラの耳の近くで、ますます弱った声で、呟いた。
「エルディラーン、君が王位を継ぐのだろう。何もできず、ただ朽ちていく私の代わりに」
「何をおっしゃるのです。王位を継ぐのは、エルリック様でしょう!」
 シーラは語気を強めて言った。
「私には無理だ。無理なのだ。はじめから間違っていたのだよ。彼が、彼こそが、この国に必要な人間だった。私が王子としてここに居る事が、そもそもの過ちなのだ……」
 エルリックの声が、熱くなる。心の内でくすぶる苦痛に、必死に耐えている様子だった。
 吐息も熱くなる。けれどふれる手は冷たく、シーラは急に不安になった。エルリックが消えてしまうのではないかと思ったのだ。そんな得体のしれない不安から逃れようと、冷たい手を強く握った。
「どうしてです。どうしてそのような事をおっしゃるのです。エルリック様がそのようにおっしゃられては、エルリック様を次期国王と信じ、この国に尽くしている者たちは、どうしていいか判らなくなるではありませんか」
 シーラの群青色の双眸から、熱い涙があふれ出る。
 悔しかった。自分が信じ、大切にしていたものを、全て踏みにじられた気がした。それはけして許せない事だった。いくらエルリックが王子でも。シーラにとって大切な人であっても。
「お願いだ、シーラ」
 シーラから体を離したエルリックは、涙に濡れるシーラを、真剣な眼差しで見つめた。エルリックの顔色は急速に悪くなっており、先ほど倒れた時よりも、ずっと辛そうだ。
「エルディラーンを……連れ戻してくれ。彼はきっと、お前の、望む者になりえるから」
 シーラは首を横に振った。
「必要ありません。私たちには、エルリック様がおられるのですから」
「聞き分けがないな」
 不満げにそう語るエルリックの表情は、涙を助長させるほど優しかった。
「けれど、だからこそ、お前は……騎士になったのだろう、な……」
 心地よいエルリックの声が、そこで途切れる。
 張りつめていた糸が切れるように、エルリックを支えていた力が失われた。寝台の上に崩れ落ちた細い体は、大した音も立てず、柔らかく受け止められて――だからこそシーラの瞳には冗談のように映った。
「エルリック、様?」
 名を呼んだ。けれど返事はなかった。
 エルリックはこの時を境に、二度とシーラに応えてくれなくなったのだ。

 ここから数日の記憶を、シーラはあまり残していない。世界に本当に暗闇が訪れた気がして、何も見えなくなっていたからだ。
 錯乱して無意味に騒いでいたか、放心して何もできずにいたかだろうと、予想はつくけれど。


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Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.