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四章外伝



 流れる風に、冷たい空気が混じりはじめていた。
 その風が吹き込む事によって、夏の間は陽射しがきついと不満が出る通路は、心地よい温度に保たれる。さまざまな事を考えながら歩いていたシーラは、風に鼻先を撫でられる事によって、不快に思う事なく通路の半ばまで進んでいた事実に気付いた。
 足を止め、窓の外を眺めると、街の向こうに広がる広大な草原や連なる山々の緑の中に、赤や黄色と言った色合いが交じりはじめている。ああ、もう秋なのだ。清しい気持ちになったシーラは、そろそろどこかで取ろうと思っていた休憩を、この場で取る事に決めた。
 さほど時を待たずして、あの山は一面が赤や黄色に染まるのだろうか。それも美しいだろう。エリーシアの部屋から見える景色も、また違った美をもって、部屋の主の目を楽しませるのだろう――そのうち自分も見せてもらえるだろうかと、ずうずうしい事を考えながら、シーラは再び歩き出した。
 だが数歩ほど進んだところで、足を止める事となった。通路の先に、視界に入るだけでシーラを動揺させる人物が、立っていたからだった。
 こんなに近い位置で見るのは久しぶりだった。突然の茶会の日以来だろうか。互いにほとんどを同じ建物の中で過ごしているが、気軽に会いに行ける相手ではないし、偶然に会える時を待つにしては、西の小国とは言え王宮は広すぎる。今日ここで会えた事は、もしかすると奇跡かもしれない。
「エルリック様」
 弱いながらも体を冷やす風の中に、ひとり立ち尽くしている病弱な王子の姿が不安で、シーラは慌てて駆け寄った。
「お供もつけずおひとりで、どうなさったのです? こちらは冷たい風が吹きます。エルリック様お体に障るのでは……」
 エルリックは何も答えなかった。ただ無言でどこかを眺めていた。
 労わるシーラをわずらわしく思い無視しているとすれば悲しいが、違うとシーラは知っていた。シーラが見つめるエルリックの目が、シーラに振り返る事なく遠くばかりを見つめる事は、けして少なくなかったからだ。
 どうして遠くばかりを見ているのか、訊けたためしはないけれど、目に映るものを見るためではないのだろうと、シーラはおぼろげに感じていた。目に映らない何かを探し、切望する――遥か彼方に想いをはせる、冷たいようで、熱いまなざし。
 そうしている時のエルリックは、シーラだけではなく、誰も寄せ付けようとしないのだ。たとえそばに誰かが居ても、気付きはしない。気付いていないとシーラが思っているだけで、本当は気付いているのかもしれないが、誰も居ないように振舞うのは同じなのだから、真偽に意味はなかった。
 仮に今、シーラが寄り添ったとしても、エルリックはシーラの事を考えはしないだろう。それが寂しくないと言えば嘘になるが、ひとり立つエルリックの姿から近寄りがたい王者の風格を感じ取れるのも事実で、そんなエルリックを近くから見つめていられる事に、感動すらしていた。
「シーラはすごいな」
 ふいにエルリックから声がかかったのは、シーラが自身がそれまで身につけていた外套を手に、少しでも暖が取れるように肩にかけてやるべきか、それは無礼だろうかと、迷っている時だった。
 まさか声をかけてもらえるとは思っていなかったシーラは、即座に返事をしたものの、声はふるえる情けなものになっていた。
「な、なにがでしょう」
「お前は、自分の力で生きているだろう? 対して私は、誰かに頼ってばかりだから……これまであまり言わなかったけれど、私は尊敬しているんだよ、お前を。お前の生き方を」
 エルリックが口にした自虐的とも言える発言は、シーラに混乱と不快感を与えた。どうしてエルリックがそのような考えに至り、自分自身を責めるような言葉を吐き出したのか、理解できなかったからだ。
 シーラはぐっと拳を握り締める。
「私とて、ひとりだけで生きているわけではありません。誰かに頼る事など、しょっちゅうです」
 ただ、他人に決められた生き方をやめただけ、頼る相手から家を除外しただけの事だ。それすら、未だローウェルの姓を名乗っている時点で、怪しいのかもしれなかった。
「エルリック様は、誰にも頼る事なく、たったおひとりで、重責に耐えておられるではありませんか」
 エルリックは驚愕の色を浮かべた目でシーラを見つめる。
「この国の未来を、民の期待を、一身に背負わねばならない第一王子と言う立場に、エルリック様はたったおひとりで耐えておられるではありませんか」
 シーラはまっすぐな眼差しでエルリックを見上げた。
「私はエルリック様を尊敬しております。貴方が私へ抱く想いより、はるかに強く」
 エルリックが生まれた時から背負い続けてきたものは、自分ならばけして背負えないと、シーラは思う。
 だがエルリックはきちんと背負っている。主に健康面の弱さに関して、各方面から陰口を叩かれて――時には表立って言われる事もある――も、その弱さを言い訳にして王族としての義務から逃げた事など一度もない。中傷に負けた事もない。それは間違いなくエルリックの強さで、シーラにとっては、主として敬服するに充分すぎる理由だった。
「ありがとう、シーラ」
 呆気にとられた表情でしばらく固まっていたエルリックは、やがて柔らかく微笑んだ。それはエルリックがまだ少年だった頃に見せていた笑顔で、近年ではときおりエリーシアに見せる以外は、封印されていたものだった。
 だからシーラは、エルリックはエリーシア以外の相手には心を閉ざしてしまったのだと思っていたのだが――自分にも心を開いてくれたのだと、思っていいのだろうか。
 それは、とても、嬉しい事だ。
「ただ、罪を償っているだけだったのだが」
「え?」
「それでも、シーラに肯定してもらえたのは心強い。本当に、ありがとう」
 再度礼を言われると、シーラは急に照れくさくなり、顔を背けた。
 そして考えた。エルリックの語る罪とは何だろう、どう言った意味があるのだろう、と。けれど思考に耽ることは許されなかった。
 頭上から、激しい咳が聞こえてきたからだ。
「エルリック様?」
 慌ててシーラが顔を上げると、入れ違いのようにエルリックが膝を着く。うずくまったエルリックの背中が、ひどく小さく見えて、シーラは目の前が真っ暗になったように錯覚した。
「エルリック様!」
 かたわらにしゃがみこみ、咳に震える背中をさすりながら名を呼ぶ。
 来ない返事といつもより明らかに悪い顔色に不安をかきたてられたシーラは、エルリックが口元を押さえる指の間から赤いものが見え隠れしはじめると、冷静さを完全に失った。
 立ち上がり、エルリックから数歩離れる。そして叫んだ。誰か来て欲しい、助けて欲しいと。
 通路中に、シーラの声が響き渡った。


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Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.