四章外伝
2
優美な王宮でもっとも東がわにある通路は、大きく切り取られた窓が連なっており、明るい陽射しが突き刺すようにふりそそぐ。それは早朝や寒い季節ならば温かく、重宝がられるのだが、真夏にさしかかろうとする今の時期には、疎む者の方が多かった。
シーラ――アルマシーラ・ローウェルも、陽射しを疎ましく思う人間のひとりだった。窓の外にはせっかく美しい景色が広がっているというのに、立ち止まってゆっくり眺めようものなら、身につけた正騎士の鎧が熱を持ってしまうからだ。
一刻も早くこの通路を通り抜けたほうがいいかもしれない。そう考えたシーラは、景色から目を背け、真っ直ぐ前を見て歩き出す。
「シーラ!」
しかし、すぐに足を止める事となった。けして無視できない人物に、名を呼ばれたからだ。
シーラは長い黒髪を躍らせながら振り返る。
視線の先では、柔らかな薄茶色の巻き毛を複雑に結い上げた愛くるしい少女が、桃色のドレスの裾をひらめかせながら走っていた。
「いかがいたしました、エリーシア姫」
数歩エリーシアに歩み寄ったシーラは、エリーシアが足を止めると同時に跪く。頭上からは、走る事によって僅かに乱れた呼吸が聞こえた。
「話を聞いたから、一刻も早く貴女に会いたくなったの」
「何のお話でしょうか」
「この間の、魔物討伐の遠征の話。貴女の功績が認められたんですってね」
「ああ……」
エリーシアが語る内容に身に覚えがあったシーラは、小さく頷いた。
首都に程近い山岳地帯に現れる魔物の被害が相次いでいたので、十日ほど前に騎士団が遠征したのだが、その遠征の最中、魔物たちの急襲と共に、数十人の騎士が巻き込まれる崖崩れが起こったのだ。巻き込まれた怪我人の救出や、自由がきかない中での撤退命令により混乱していた戦場で、勇敢に魔物たちに立ち向かい、魔物たちの侵攻をくい止め、更なる被害を抑えた――と言うのが、エリーシアが語るシーラの功績だろう。
日々鍛えているとは言え女の細腕では鎧をまとう大の男たちの救助の役に立てないと判断し、ならば自分にできる事をしようと思ってそうしたまでで、過剰に褒められるのは変ではないかと思わない事もない。けれどやはり、自分の力を認めてもらえた事は、素直に嬉しいと思うシーラだった。
「はい。確かに先ほど、騎士団長よりお褒めの言葉を頂戴いたしました」
「褒め言葉だけじゃないでしょう?」
「は……?」
今度はまったく身に覚えがなかったので、シーラはついつい、間の抜けた返事をしてしまった。わざとらしく咳払いをはさんでごまかすと、「何の事でしょう?」と問いかける。
「他に話を聞いていないの?」
「はい」
「まあ。当人に対して秘密にするなんて、驚かせるつもりであったとしても、失礼ではない?」
言って、エリーシアは頬を膨らませた。
怒っているようなのだが、それすらも愛らしい王女が微笑ましく、シーラは表情を柔らかくする。この若き王女が、愛されるべく育っている様子が、嬉しくもあったのだ。
「どのようなお話なのか、気にならないと言えば嘘になりますが、団長が意図して隠していらっしゃるのでしたら、私はそれに従うしかありません。お話をいただける時までおとなしく待つ事にいたします」
「いいえ、シーラ。わたくし、もう準備をしてしまったの。いまさら取り止めにできないのよ。だからわたくしから言うわね。あのね、貴女は来月付けで、わたくしの近衛になるのよ」
シーラは目を見開き、すでに怒りを忘れて楽しげな輝きを取り戻したエリーシアの大きな瞳を見つめた。
信じられなかった。まだ十八で、しかも女の身で、正騎士になれただけでも身に余る光栄だと思っていたくらいなのだ。それなのに突然、王族の近衛に昇格とは。常に近くにある立場のため、エリーシア王女と同性である事実が有利に働いたのだとは思うが、それを差し引いても、充分驚くべき事だった。
「どんどん出世して、ゆくゆくは兄様の近衛に、なんて話が来るかもしれないけれど、とりあえず今日は、貴女がわたくしの騎士になる事が嬉しくて、お祝いをしたいと思ったの。わたくしの部屋に、お茶会の準備をさせたのよ。さあ、来てちょうだい」
返事を待つのももどかしいとばかりに、エリーシアはシーラの手を引いて歩きはじめる。
まだ動揺の中に居たシーラは、おとなしくついていくしかなかった。
美しいものを見て育てとの意味でもあるのか、王城でもっとも眺めの良い部屋は、代々直系の第一王女の部屋とされている。今の代では、エリーシアのものだった。
窓の下には、芸術の都と称される街が広がっている。繊細な色と鮮やかな色が複雑に調和し、計算して生み出された美が、部屋の主やその客人の目を楽しませた。更にその向こうには、雄大な自然が広がっており、今の時期は目の覚めるような青や緑が、不思議と街の色合いに違和感なく、それすらも計算であるかのように融合していた。
開いた扉から部屋の中を見たシーラは、ひときわ大きな窓のそばに立ち、景色を眺める青年を見つける。薄い灰色の髪は光を浴びてきらめき、まるで銀色のように見えた。
「お兄様、来てくださったのね」
エリーシアが部屋に駆け込みながら声をかけると、青年はゆっくり振り返り、はるか遠くを見ていた視線をエリーシアに向ける。色白の、穏やかな顔立ちの中で輝く深い青色の双眸は、一瞬にしてシーラの意識と視線を引き寄せた。
エルリック・カーナニス王子。ベルダインの第一王位継承権を持つ人物。
彼がそこに居る事実に、自身の出世を知った時の何十倍も驚いたシーラは、室内に入る事を忘れて立ち尽くした。
「おめでとう、シーラ」
エルリックはシーラに優しく微笑みかけてくれた。
「エルリック様、そんな、私ごときのためにわざわざ……」
「そんなにかしこまらなくていいよ――と言ってもお前が困るだけなのかな。緊張しなくていいよ、くらいにしておこうか?」
気さくに語るエルリックは、普段はエリーシアの部屋にはおいていない、立派な椅子に腰かけた。エリーシア主催のお茶会のために、誰かがエルリックのための椅子を運び込んだのだろうか。ますます申し訳ない気持ちになり、シーラは言葉を失った。
エリーシアはエリーシアの――立派ではあるがエルリックのものよりも小ぶりで、可憐な――椅子に着く。それでもまだシーラが入り口近くで戸惑っていると、茶や菓子の類が運ばれてきた。
「シーラ、はやく座って」
待ちくたびれたエリーシアに急かされ、ようやくシーラは自分のために用意された席に座った。
シーラは、煌びやかな家具や、食器や、香りのよいお茶、華やかで甘いお菓子などを、知らないわけではない。それなりの家に生まれ、それなりの贅沢の中で少女時代をすごしている。
けれど王族であるエルリックやエリーシアに混じると、自分がひどく貧相な異物に思えてしかたがなかった。
「エリーシア。私は邪魔だったのではないか」
「そうかもしれないわね、お兄様」
「いいえっ! けしてそのような事はありません!」
シーラは間髪入れず、茶会の準備が整った円卓をひっくりかえさん勢いで反論した。
「遠慮せず、本音を言っていいんだよ。これはエリーシアが、お前のために用意した茶会なのだから」
「いえ、本当に……嬉しいのです。嬉しすぎて、申し訳ないのです」
何をしでかすかわからない両手を胸の上に押さえつけながら、シーラは本音を口にする。気恥ずかしさゆえにか、少し頬が熱くなった。
「申し訳ないなどと思わないでほしい。私はむりやりひきずられて来たわけではなく、自分の意志でここに居るのだから。家の後援をうけず、自力でここまで来たお前を、祝いたいと思う心に正直になってね」
「で、ですが、お体の具合はよろしいのですか?」
「もう子供ではない。自重する事くらいは知ってるよ。調子が悪ければ来ないさ」
エルリックがそこで言葉を切り、茶を口に運んだのは、話題を打ち切る意図があったのかもしれない。
世継ぎの王子として生を受けたエルリックは、幼い頃に大病を患ったからか体があまり丈夫ではなく、一日中床についている日も少なくなかった。エルリックがそんな自分の体をうとましく思っているのは明らかで、話題にされる事をよく思っていないと、シーラはすでに気付いている。
だが本人が嫌がるからといって、臣下であるシーラがエルリックの体調を気にしないわけにはいかず、シーラはこっそりと、細面な顔をちらりと覗き見た。すると、普段よりもずっと顔色が良いと判ったので、シーラは王子の体調に関して、今日はもう何も言うまいと決めた。
決めると、自然と笑みがこぼれてきた。エルリックが無理をしていないと判れば、彼が自らシーラを祝うために足を運んでくれた事――ただそばに居てくれる事が、嬉しくてたまらなかった。
「ねえシーラ、わたくしね、実はずっと、貴女に訊きたい事があったの」
頬杖をつき、上目遣いで見上げてきながら、エリーシアは言った。
「どうしてシーラは騎士になろうと思ったの?」
率直に訊ねられ、シーラは戸惑う。
恥ずかしい理由ではないと思う。けれど誰かに語るような理由でもない気がして、シーラは曖昧に微笑む事で、言葉をつぐんだ。
有力貴族の娘として生まれた女が当たり前に歩む、宝飾品で身を飾りながら家のために生きる道を、歩みたいとはどうしても思えなかったからだった。そうして生きていく女たちを否定する気はなく、むしろ立派だと思っているのだが、思うからこそ自分にはできないと思ったのだ。
自らの力で何かをなしとげたいとシーラは望んだ。そうして考え付いたのは、騎士になる事だった。エルリックやエリーシアをはじめとする王家の人々のために己を磨き、尽くして生きられるなら、幸せだと思ったからだ。
家督を継いだばかりの兄には当然反対された。シーラの顔立ちは、可愛いや美しいとの言葉よりも凛々しいとの言葉が似合うものだったが、それなりに整っていたので、女性として幸福に生きる事は、さほど難しくないと予想できたからだろう。何より、戦いと共にある騎士の道よりも、女の道の方が、命の安全との意味では確かだ。
だが、シーラは兄を説き伏せた。そして、兄から諦めのため息を引き出した。
ため息と共に吐き出された言葉は、今でもシーラの耳に残っている――いや、今だからこそ、鮮明に思い出せるのかもしれなかった。
『お前はエルリック王子のお相手になる事も難しくないのだぞ。この国一の幸福な花嫁になる機会を、自ら棒にふるのか』
シーラはそっと目を伏せる。騎士になると決めた日の、自分を思い出しながら。
『元よりそのような幸福に、興味はありません』
あの時は、胸を張ってそう返した。
けれど、今は、思うのだ。
兄の言う通りに生きる事も、悪くなかったのではないかと。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.